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「長篠の戦い」 その10

『本丸の守備を厳命』

武田勢は連日猛攻撃を加えた。

11日の夕刻には、イカダを急流に浮かべ、渡合方向から野牛門を攻めたが、城兵は城壁から

石を落とし、矢を放って防戦したので突入は不成功に終わった。

馬場信春(1515-1575年)
ba.馬場信春

翌12日には城の西隅に迫った。

これは甲州軍得意の金坑人夫を使って地下に坑道を掘り、ここから城内に突入しようとしたもの

であった。

これを知った城中からも、逆に坑道を掘り、鉄砲を撃ちかけて甲州勢を撃退してしまった。

ところが5月13日の深夜になって事態は急変した。

大通寺山に陣した馬場信春・小山田昌行らの配下の兵が、ここからも地下道を掘り、城の東北隅

の糧倉につづく瓢郭(ひさご)に城壁を破って侵入したのです。

ここを制すれば城内の糧道を断つことができるわけで、信春は城の生命線を狙ったのです。

城中には瓢郭への援兵を主張する者もあったが、信昌は糧倉への執着を断ち切って、本丸の守

備を固めるよう厳命した。

わずかの兵では瓢郭を防ぎきれる筈はなく、逆に本丸が手薄になれば落城は目に見えていたの

です。


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robin 20180530




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「長篠の戦い」 その9

『城兵は500人』

徳川家康の臣下に大賀弥四郎という者があり、密かに武田勝頼に通じようとしたが、一味の中

から自首する者がでたので酷刑に処された。

勝頼は4月、大軍を率いて三河に入ったが、作手で大賀の死刑を聞いて、大いに怒り、大挙して

長篠城を攻めた。

奥平信昌(1555-1615年)
ok.奥平信昌

城兵はわずかに500人、寄せ手は1万5千といわれる。

勝頼は本営を医王寺に置き、大通寺山のふもとから寒狭川を渡り、有海の篠場野一帯にかけて

陣を布いた。

そして豊川の対岸の船着山の連峰、鳶ノ巣山付近にも砦を築かせ、完全包囲の体制を整えた。

城内には徳川から松平景忠・家忠が派遣されていたが、なによりも守将・奥平信昌の抗戦の決

意は固かった。

すでに徳川方についたこき、武田勝頼は人質にとっておいた信昌の妻・久子、弟・仙丸を無残に

も処していたからです。

勝頼はひともみに長篠城を潰して浜松につく計画であったが、城の防備が固いので、5月6日に

牛窪・二連木に放火し、7日には酒井忠次がこもる吉田城(豊橋市)を攻めて、8日転じて再び長

篠に取り掛かかった。



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「長篠の戦い」 その8

『長篠城 その2』

長篠城は永正5年(1508年)、今川氏親に属していた菅沼元成が築造したもので、その子

・俊則から元直・貞景・正貞と子孫代々ここにおり、山家三方衆の一人として勢力をふるまっ

ていた。

長篠城
na.長篠城


山家三方衆とは、長篠の菅沼氏の他に田峯の菅沼氏と作手の奥平氏の三家をいう。

いずれも三河の土豪で、戦乱の世では、武田と徳川の二大勢力にはさまれて、風にそよぐ葦の

ような存在であった。

元亀2年(1571年)の信玄が東三河侵入以来、三方衆は武田の配下となったが、信玄没後、

先ず、長篠の菅沼正貞が追われ、作手城の奥平信昌は駐屯していた武田軍の目をかすめて

徳川家康のもとに走った。

天正3年2月、家康は皮肉にも、この奥平信昌を長篠城の城主にしたのです。

この城郭は、東西約330m、南北約250mばかりで、このうち本丸は東西約70m、南北

約45mばかりです。

この他、二ノ丸(帯郭)・三ノ丸(巴郭)・弾正郭・野牛郭・瓢(ひさご)郭からなっていて、

西北が大手、東北が搦手です。

現在残る郭の遺構は、本丸跡付近にわずかに濠と土塁が残るほか、弾正郭の石塁がかなり良く

保存されています。



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robin 20180528



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「長篠の戦い」 その7

『長篠城 その1』

天正2年も暮れて天正3年がやってきた。

この年、武田勝頼は遠く加賀一向一揆の杉浦壱岐法橋や本願寺に連絡し、その越前占領と呼応

して大軍を発した。

長篠城址
na.長篠城 02

そして長篠の壮絶なる大戦が起こり、武田家の衰運に向かうことになります。

長篠は三河国設楽郡にあり、現在の豊橋市の北東24kmの地点に位置している。

豊橋から伊那谷を抜ける飯田線に乗り、約1時間で長篠駅に着く、城址は駅前を走る道を川に

沿って10分ばかり下った豊川の分岐点の台地にあります。

ここで大野川と寒狭川が合流して豊川になる位置です。

城址をV字型に抱いて天然の濠となっている両川は、ともに50~90mの川幅をもち、断崖

絶壁が深く、水勢激しく、両川の合流点の渡合と呼ぶ場所がもっとも険しい。

北方の背後には大通寺山・医王寺山がせまっていて自然の要害をなしており、また甲斐・信濃、

東海道への要路になっている。

武田・徳川両家の争奪の的となったのも当然であったのです。



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robin 20180527



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「長篠の戦い」 その6

『上洛をはかる勝頼』

天正2年正月、徳川家康が駿河に入ると、勝頼は3万の大軍で美濃に侵入し、2月、明智城を

陥れた。

すると信長は、その奪回に向かい、家康は足助に出陣し、その同盟者上杉謙信もまた上野沼田

に出陣して牽制したので、武田軍は撤退してしまった。

武田勝頼
ta.武田勝頼公

ついで5月に勝頼は、兵を遠江に出して高天神城を囲んだ。

長篠城陥落のときは、甲斐や信濃の山国から峡谷づたいに武田の援軍を送らねばならず、それ

がまにあわなかったため落城しているが、今度は逆に徳川軍は大河を渡って援軍を派遣しなけ

ればならなかった。

しかし勝頼の攻撃が急であったため、ついに援軍到着以前に城は勝頼の手に帰した。

長篠で失ったところを、彼は高天神で取り返したのであって、以後、天正9年まで、ここを確

保することができた。

この勢いに乗じて、勝頼は9月、2万の大軍で天竜川に至り、家康と対峙したが、戦機いまだ熟

しなかったのか、戦わず甲斐に帰った。

だが勝頼は上洛しなければならなかった。

亡父の遺志はもちろん、本願寺顕如からは切々と援助が求められていた。

いまや長島の一向一揆はみな殺しの寸前にあり、9月の出陣もこの非常事態に対処するためで

あったが、家康に阻止させられ、家康に阻止せられ、長島壊滅を聞いて撤退したものである。

勝頼もまた駿・遠・三・美の局地戦だけで一生を終わるつもりはなかった。



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robin 20180526



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「長篠の戦い」 その5

『信玄の死を確認したい家康』

11月になると勝頼は、1万5千の大軍を率い、甲斐から駿河に至り、さらに大井川を渡って遠

江に入った。

武田勝頼
ta.武田勝頼像(甲斐大和駅前)小

掛川・久能を放火し、浜松を攻めようとして天竜川を渡り田原に至った。

ここで浜松城の守りが固いのを見て、引き返して、掛川を巡視し、諏訪原城に守兵を置き、無人

の野を行くように遠江を廻って甲斐に引き上げていった。

このとき武田勝頼は28歳、徳川家康は32歳であった。

上杉謙信が勝頼の人物を評して

「若輩ながら亡父・信玄の掟を守り、駆け引きを心得ているから油断できない」

と、いっているように、家康も勝頼もお互いに同年配の好敵手であった。

勝頼が三河や遠江に軍を動かし、武田の武威を発揮したのは、秘密にしていた信玄の死が、次第

に世間にバレてきたためであった。

これに対して家康の攻勢は、信玄の死を身をもって確かめようとするものであって、その行動が

緩慢に鈍ったのは、もしかしたら信玄が存命しているのかも知れないと疑っていたためなのでし

ょう。

したがって、この時期の両将の抗争は本格的な決戦ではなく、戦局は一進一退を続けるに過ぎな

かったのです。



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robin 20180525



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「長篠の戦い」 その4

『徳川家康と武田勝頼』

信玄の死によって羽根をのばしたのは信長だけでなく、信玄の当面の敵であった徳川家康も、

むろんその一人であった。

浜松城の徳川家康
to.徳川家康(浜松城)

彼は三方ヶ原の敗戦にも屈せず、信玄の病気で攻勢のにぶった武田方を早くも攻撃し、天正

元年(1573年)3月、平岩親吉を将として遠江(静岡)の天方城を攻め落とさせ、また

石川家成・久能宗能に可久輪を攻略させた。

天方も可久輪も掛川の近くです。

信玄死去が確実だとわかると、5月9日、大井川を渡って駿河に侵入し、駿府城の近くまで

攻め寄せて放火し、掛川に引き返した。

転じてまた三河に入り、長篠を偵察して岡崎に帰っている。

6月また社山・合代島・渡島に砦を築いて二俣城に備え、大須賀康高・榊原康政らに浜松の

留守をさせ、兵を率いて長篠城を包囲した。

この城は菅沼正貞・室賀信俊が守っており、勝頼はこの救援のために、武田信豊・武田信簾・

穴山信君・馬場信春・小田山信茂・山県昌景ら武田軍の精鋭部隊を派遣した。

信豊らは鳳来寺・黒瀬に陣を布いたが、長篠籠城軍は力つきて降服し、城を明け渡して9月に

鳳来寺に逃げてしまった。

これは救援軍の到着が遅かったためで、東三河侵入の重要な拠点であった長篠城は、ついに徳

川家康の手に落ちた。

翌々年の長篠合戦は、勝頼がこれを奪回しようとして起こったものです。



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robin 20180524



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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