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「鳥取城の戦い」 その4

『天下を望んではならない』

信長が安土に移った頃、吉川元春は信長・秀吉に新年の祝賀を述べ、信長はこれに答え、秀吉

もまた返事を書いた。

「山鹿(山中鹿介)は援助しないということである。したがって、因幡の国はご存分にまかせ

て、攻められたがよろしかろう」

ですが、事実は違います。

山中鹿介(1545-1578年)
ya.山中鹿介 002

鹿介らは信長の援助のもとに、尼子勝久を擁して但馬から因幡に入り、尼子家再興戦を演じて

いたのです。

織田と毛利との、さりげない虚々実々の外交戦というべきなのでしょう。

また、将軍職カムバックに異常な熱意を示した流浪の足利義昭は、天正4年になって、毛利分

国の表玄関、備後(広島県)の鞆(とも・福山市)に姿を現した。

かつて、毛利の使僧・安国寺恵瓊が

「さてこの上にて、自然西国などへ御下向候ては、御一大事たるべく候」

と、いいきって、義昭に毛利領国にやって来られては困ると、拒否したことなどおかまいなか

った。

こうなると、織田・毛利間の火薬庫に火がつけられたのも同然です。

毛利には元就の

「子孫たるもの、天下を望んではならない」

という遺訓があったので、天下の政権をうかがう野心はなかった。

しかし、いま足利義昭の求めに応じると、いやでも天下を争う立場におかれ、信長との激突は

必至だ。

これは毛利の運命にかかわる重大問題であったのです。



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robin 20180629




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「鳥取城の戦い」 その3

『天下布武の安土城へ』

天正4年(1576年)2月、織田信長は、岐阜城を嫡男・信忠に譲って、琵琶湖の南岸の、

まだ完成しない安土の城に移った。

安土城の天守閣は、およそ3年たって豪華絢爛な7層の天守であった。

安土城
az.安土城 013

信長は、尾張(愛知県)の那古屋(名古屋市)・清洲・小牧山から、美濃(岐阜県)の稲葉山

へ、そして近江(滋賀県)の安土城と、一歩ずつ歴史のひのき舞台へ駒を進め天下統一への道

を歩んだ。

すでに3年前に甲斐の武田信玄が西上の途中で病に倒れ、越前(福井県)の朝倉義景、

江北の浅井長政も、戦国争乱の歴史的舞台から消えていた。

また大坂の石山本願寺を総本山とする一向宗の一揆も、その有力な右翼であった伊勢(三重県)

長島が火焔に包まれたのは、天正2年のことであった。

明けて天正3年、三河(愛知県)の長篠で武田勝頼が主力を紛砕した今、反信長陣営は、前面

に本願寺、北に越後(新潟県)の上杉謙信、西に中国の毛利輝元の三者がもっとも強豪であっ

た。

これら三者の黒幕として、信長に追放された前の公方、足利義昭が紀伊由良の興国寺にあって、

伝統的な権威を背景に謀略を巡らしながら、時勢の移り変わりをじっと見つめていた。



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「鳥取城の戦い」 その2

『太刀も刀もいらず』

本能寺で信長が自決したことによって、時代は豊臣秀吉の天下に移行しますが、ここではその

前段階、つまり、秀吉が信長の有力な武将として活躍した時代をみたいと思います。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉・三献の茶

中国の3つの合戦の中で、鳥取城の戦いは、秀吉が播州三木(兵庫県)城主の別所長治を滅ぼ

したこととともに、みずから

「三木の干(ひ)殺し、鳥取の渇殺(かつえ)し、太刀も刀もいらず」

と、その巧妙な戦術を自慢した。

鳥取城の戦いを見るためには、織田・毛利両陣営の動きに、まず注目する必要があります。

それが、この戦いの起因になるからです。



《ドジな話です》

先日、久しぶりに東京湾に沈む夕日を撮りに行ってきました。

帰宅し、カメラからPCへ画像を取り込もうとしたら、「画像はありません」の表示。

エッ! と、再度、取り込みソフトを立ち上げなおしても、結果は同じです。

メモリカードの接触不良ではないのかと思い、メモリカバーを開けてみると、なんと

メモリカードがはいっておりません。

メモリがないと、写真は撮れません!

原因は、新宿のサービスセンターへローパスフィルターの清掃に行こうと、メモリを

外していたのが原因でした。

現場で気づくと、予備のカードは何枚も持参していたのですけどね。

教訓です。

カメラは、バッテリーとメモリーがないと写真は撮れません><




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robin 20180627



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「鳥取城の戦い」 その1

『信長の天下布武』

織田信長が天下布武をとげようとして、その眼を西に向けた時、祖父・毛利元就の中国制覇を

うけた毛利輝元は、両川、つまり吉川元春・小早川隆景の両伯父に守られ、東上を模索してい

た。

毛利輝元(1553-1625年)
mo.毛利輝元 001

毛利の東上と織田の西下と、両者の死闘が展開されることは、火を見るよりあきらかなことであ

った。

天正5年(1577年)10月、羽柴秀吉が信長の先鋒となって、播磨(兵庫)に入り、姫路城を

中心として動き出してからは、天正10年6月まで、およそ5ヵ年の間、秀吉の大軍と、毛利・両川

軍との間に、播磨・美作(岡山県)・備中(岡山県)・丹波(兵庫県)・但馬(兵庫県)・因幡

(鳥取県)・伯耆(島根県)の7ヵ国内で、大小幾多の戦国争乱が繰り広げられた。

いわゆる中国戦役です。

この中国戦役では、天正6年の播磨上月城の戦い、天正9年の因幡鳥取城の戦い、天正10年

の備中高松城の戦いが有名です。

秀吉が高松城の水攻めを決行し、まさに和睦をしようとしていたときに、京都で突然起こった大事

件が本能寺の変で、織田信長の天下統一の夢は消え去った。


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robin 20180626



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「長篠の戦い」 その31

『心頭滅却すれば火もおのずから涼し』

最後に、信長の性情と戦国の非情を示す事実を確認してみます。

それは甲斐恵林寺の焚殺事件です。

恵林寺(恵林寺訪問記は「こちら」です。)
恵林寺 002

この恵林寺は夢窓開基の禅刹であり、当時、信玄と親しかった快川国師が住持していたが、敗兵

を隠したために、織田信忠の兵に囲まれてしまった。

兵たちは寺中残らず、老いも若きも山門へ呼び寄せ、廊門より山門へ籠草を積ませ火をつけた。

はじめは黒煙が立って見えなかったが、しだいに煙がおさまり、人の形も見えてきた。

快川長老は少しも騒がず、まっすぐ座ったまま動かず

「安禅は必ずしも山水を求めず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し」

という有名な言葉を残して従容として死んでいった。

このとき、長老のほか11人がなくなった。

恵林寺は破滅し、老若上下150余人が焼き殺されている。

人生には予測ができない事態が待っているものです。この快勝の3ヵ月のち、織田信長は6月

10日、本能寺で殺されてしまうのです。




長い間、長篠の戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回は、鳥取城の戦いについて勉強してみたいと思います。

よかったら、お付き合いください。



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robin 20180625




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「長篠の戦い」 その30

『信長・家康軍の勝利』

信長は3月5日、安土を出発し、6日に仁科盛信(19歳)の首を呂久川で検分して長良川にさ

らした。

14日、波合で勝頼父子の首を見て、これを飯田にさらした。

織田信長
od.織田信長

信長はその首級を見たとき

「日本に隠なき弓取なれども、運が尽きさせ給ひて、かく成らせ給ふものかな」

といったことが、徳川方の記録にある。

20日、上諏訪で徳川家康に会見し、駿河・上野・甲斐・信濃四ヵ国の侍たちが、色々なツテを

求めて挨拶に来ることは勝ち戦の常で、信長の宿舎は門前市をなす有様であったといいます。

ここで論功行賞により、小笠原信嶺・穴山梅雪には旧領を、木曾義昌には旧領筑摩郡のほかに安

曇郡を加え、滝川一益には信濃2郡(小県・佐久)および上野を与えた。

駿河は家康に、甲斐および諏訪郡を河尻秀隆に、信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)を森長可

に、伊那郡を毛利秀頼に与えた。

信長は4月10日に甲府を去り、21日に安土に凱旋した。

その陣中から松井有閑にあてた手紙では

「このように30日や40日で一挙に片付いたことは、我ながら驚くばかりである」

といっている。

信長はそうとうに満足であったのでしょう。



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robin 20180624


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「長篠の戦い」 その29

『武田家の滅亡』

追撃してやってきた滝川一益・川尻秀隆らは、婦人子供を一人ずつ刺し殺し、侍らは斬ってでて、

甲州武士の最後を飾った。

武田勝頼一家の墓景徳院訪問記は「こちら」です。)
ta.武田勝頼一家の墓

このとき自殺・斬死したものは武田勝頼・信勝をはじめとして、長坂釣閑斎・跡部尾張守・小宮

山友晴・小原下総守などであった。

思えば、勝頼は悲劇の人であったのです。

勝頼の母は信濃諏訪郡上原の城主、諏訪頼重の娘です。

頼重が信玄に殺されたとき、姪ではあるが美しい娘は信玄の側室に迎えられたのです。

姫は勝頼を産んで、永禄4年に病没している。

勝頼にとって信玄は祖父の仇であり、母を戦利品として略奪した非道な人物なのです。

そして今は、信玄の占領地域のすべてを失い、父の一族老臣から見捨てられて、死出の旅路を

歩んで行ったのです。

悲劇の部将・武田勝頼の墓は田野の景徳院にあります。



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robin 20180623



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Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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