「鳥取城の戦い」 その4
『天下を望んではならない』
信長が安土に移った頃、吉川元春は信長・秀吉に新年の祝賀を述べ、信長はこれに答え、秀吉
もまた返事を書いた。
「山鹿(山中鹿介)は援助しないということである。したがって、因幡の国はご存分にまかせ
て、攻められたがよろしかろう」
ですが、事実は違います。
山中鹿介(1545-1578年)

鹿介らは信長の援助のもとに、尼子勝久を擁して但馬から因幡に入り、尼子家再興戦を演じて
いたのです。
織田と毛利との、さりげない虚々実々の外交戦というべきなのでしょう。
また、将軍職カムバックに異常な熱意を示した流浪の足利義昭は、天正4年になって、毛利分
国の表玄関、備後(広島県)の鞆(とも・福山市)に姿を現した。
かつて、毛利の使僧・安国寺恵瓊が
「さてこの上にて、自然西国などへ御下向候ては、御一大事たるべく候」
と、いいきって、義昭に毛利領国にやって来られては困ると、拒否したことなどおかまいなか
った。
こうなると、織田・毛利間の火薬庫に火がつけられたのも同然です。
毛利には元就の
「子孫たるもの、天下を望んではならない」
という遺訓があったので、天下の政権をうかがう野心はなかった。
しかし、いま足利義昭の求めに応じると、いやでも天下を争う立場におかれ、信長との激突は
必至だ。
これは毛利の運命にかかわる重大問題であったのです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
信長が安土に移った頃、吉川元春は信長・秀吉に新年の祝賀を述べ、信長はこれに答え、秀吉
もまた返事を書いた。
「山鹿(山中鹿介)は援助しないということである。したがって、因幡の国はご存分にまかせ
て、攻められたがよろしかろう」
ですが、事実は違います。
山中鹿介(1545-1578年)

鹿介らは信長の援助のもとに、尼子勝久を擁して但馬から因幡に入り、尼子家再興戦を演じて
いたのです。
織田と毛利との、さりげない虚々実々の外交戦というべきなのでしょう。
また、将軍職カムバックに異常な熱意を示した流浪の足利義昭は、天正4年になって、毛利分
国の表玄関、備後(広島県)の鞆(とも・福山市)に姿を現した。
かつて、毛利の使僧・安国寺恵瓊が
「さてこの上にて、自然西国などへ御下向候ては、御一大事たるべく候」
と、いいきって、義昭に毛利領国にやって来られては困ると、拒否したことなどおかまいなか
った。
こうなると、織田・毛利間の火薬庫に火がつけられたのも同然です。
毛利には元就の
「子孫たるもの、天下を望んではならない」
という遺訓があったので、天下の政権をうかがう野心はなかった。
しかし、いま足利義昭の求めに応じると、いやでも天下を争う立場におかれ、信長との激突は
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「鳥取城の戦い」 その3
『天下布武の安土城へ』
天正4年(1576年)2月、織田信長は、岐阜城を嫡男・信忠に譲って、琵琶湖の南岸の、
まだ完成しない安土の城に移った。
安土城の天守閣は、およそ3年たって豪華絢爛な7層の天守であった。
安土城

信長は、尾張(愛知県)の那古屋(名古屋市)・清洲・小牧山から、美濃(岐阜県)の稲葉山
へ、そして近江(滋賀県)の安土城と、一歩ずつ歴史のひのき舞台へ駒を進め天下統一への道
を歩んだ。
すでに3年前に甲斐の武田信玄が西上の途中で病に倒れ、越前(福井県)の朝倉義景、
江北の浅井長政も、戦国争乱の歴史的舞台から消えていた。
また大坂の石山本願寺を総本山とする一向宗の一揆も、その有力な右翼であった伊勢(三重県)
長島が火焔に包まれたのは、天正2年のことであった。
明けて天正3年、三河(愛知県)の長篠で武田勝頼が主力を紛砕した今、反信長陣営は、前面
に本願寺、北に越後(新潟県)の上杉謙信、西に中国の毛利輝元の三者がもっとも強豪であっ
た。
これら三者の黒幕として、信長に追放された前の公方、足利義昭が紀伊由良の興国寺にあって、
伝統的な権威を背景に謀略を巡らしながら、時勢の移り変わりをじっと見つめていた。
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天正4年(1576年)2月、織田信長は、岐阜城を嫡男・信忠に譲って、琵琶湖の南岸の、
まだ完成しない安土の城に移った。
安土城の天守閣は、およそ3年たって豪華絢爛な7層の天守であった。
安土城

信長は、尾張(愛知県)の那古屋(名古屋市)・清洲・小牧山から、美濃(岐阜県)の稲葉山
へ、そして近江(滋賀県)の安土城と、一歩ずつ歴史のひのき舞台へ駒を進め天下統一への道
を歩んだ。
すでに3年前に甲斐の武田信玄が西上の途中で病に倒れ、越前(福井県)の朝倉義景、
江北の浅井長政も、戦国争乱の歴史的舞台から消えていた。
また大坂の石山本願寺を総本山とする一向宗の一揆も、その有力な右翼であった伊勢(三重県)
長島が火焔に包まれたのは、天正2年のことであった。
明けて天正3年、三河(愛知県)の長篠で武田勝頼が主力を紛砕した今、反信長陣営は、前面
に本願寺、北に越後(新潟県)の上杉謙信、西に中国の毛利輝元の三者がもっとも強豪であっ
た。
これら三者の黒幕として、信長に追放された前の公方、足利義昭が紀伊由良の興国寺にあって、
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「鳥取城の戦い」 その2
『太刀も刀もいらず』
本能寺で信長が自決したことによって、時代は豊臣秀吉の天下に移行しますが、ここではその
前段階、つまり、秀吉が信長の有力な武将として活躍した時代をみたいと思います。
豊臣秀吉(1537-1598年)

中国の3つの合戦の中で、鳥取城の戦いは、秀吉が播州三木(兵庫県)城主の別所長治を滅ぼ
したこととともに、みずから
「三木の干(ひ)殺し、鳥取の渇殺(かつえ)し、太刀も刀もいらず」
と、その巧妙な戦術を自慢した。
鳥取城の戦いを見るためには、織田・毛利両陣営の動きに、まず注目する必要があります。
それが、この戦いの起因になるからです。
《ドジな話です》
先日、久しぶりに東京湾に沈む夕日を撮りに行ってきました。
帰宅し、カメラからPCへ画像を取り込もうとしたら、「画像はありません」の表示。
エッ! と、再度、取り込みソフトを立ち上げなおしても、結果は同じです。
メモリカードの接触不良ではないのかと思い、メモリカバーを開けてみると、なんと
メモリカードがはいっておりません。
メモリがないと、写真は撮れません!
原因は、新宿のサービスセンターへローパスフィルターの清掃に行こうと、メモリを
外していたのが原因でした。
現場で気づくと、予備のカードは何枚も持参していたのですけどね。
教訓です。
カメラは、バッテリーとメモリーがないと写真は撮れません><
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豊臣秀吉(1537-1598年)

中国の3つの合戦の中で、鳥取城の戦いは、秀吉が播州三木(兵庫県)城主の別所長治を滅ぼ
したこととともに、みずから
「三木の干(ひ)殺し、鳥取の渇殺(かつえ)し、太刀も刀もいらず」
と、その巧妙な戦術を自慢した。
鳥取城の戦いを見るためには、織田・毛利両陣営の動きに、まず注目する必要があります。
それが、この戦いの起因になるからです。
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先日、久しぶりに東京湾に沈む夕日を撮りに行ってきました。
帰宅し、カメラからPCへ画像を取り込もうとしたら、「画像はありません」の表示。
エッ! と、再度、取り込みソフトを立ち上げなおしても、結果は同じです。
メモリカードの接触不良ではないのかと思い、メモリカバーを開けてみると、なんと
メモリカードがはいっておりません。
メモリがないと、写真は撮れません!
原因は、新宿のサービスセンターへローパスフィルターの清掃に行こうと、メモリを
外していたのが原因でした。
現場で気づくと、予備のカードは何枚も持参していたのですけどね。
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「鳥取城の戦い」 その1
『信長の天下布武』
織田信長が天下布武をとげようとして、その眼を西に向けた時、祖父・毛利元就の中国制覇を
うけた毛利輝元は、両川、つまり吉川元春・小早川隆景の両伯父に守られ、東上を模索してい
た。
毛利輝元(1553-1625年)

毛利の東上と織田の西下と、両者の死闘が展開されることは、火を見るよりあきらかなことであ
った。
天正5年(1577年)10月、羽柴秀吉が信長の先鋒となって、播磨(兵庫)に入り、姫路城を
中心として動き出してからは、天正10年6月まで、およそ5ヵ年の間、秀吉の大軍と、毛利・両川
軍との間に、播磨・美作(岡山県)・備中(岡山県)・丹波(兵庫県)・但馬(兵庫県)・因幡
(鳥取県)・伯耆(島根県)の7ヵ国内で、大小幾多の戦国争乱が繰り広げられた。
いわゆる中国戦役です。
この中国戦役では、天正6年の播磨上月城の戦い、天正9年の因幡鳥取城の戦い、天正10年
の備中高松城の戦いが有名です。
秀吉が高松城の水攻めを決行し、まさに和睦をしようとしていたときに、京都で突然起こった大事
件が本能寺の変で、織田信長の天下統一の夢は消え去った。
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織田信長が天下布武をとげようとして、その眼を西に向けた時、祖父・毛利元就の中国制覇を
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た。
毛利輝元(1553-1625年)

毛利の東上と織田の西下と、両者の死闘が展開されることは、火を見るよりあきらかなことであ
った。
天正5年(1577年)10月、羽柴秀吉が信長の先鋒となって、播磨(兵庫)に入り、姫路城を
中心として動き出してからは、天正10年6月まで、およそ5ヵ年の間、秀吉の大軍と、毛利・両川
軍との間に、播磨・美作(岡山県)・備中(岡山県)・丹波(兵庫県)・但馬(兵庫県)・因幡
(鳥取県)・伯耆(島根県)の7ヵ国内で、大小幾多の戦国争乱が繰り広げられた。
いわゆる中国戦役です。
この中国戦役では、天正6年の播磨上月城の戦い、天正9年の因幡鳥取城の戦い、天正10年
の備中高松城の戦いが有名です。
秀吉が高松城の水攻めを決行し、まさに和睦をしようとしていたときに、京都で突然起こった大事
件が本能寺の変で、織田信長の天下統一の夢は消え去った。
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「長篠の戦い」 その31
『心頭滅却すれば火もおのずから涼し』
最後に、信長の性情と戦国の非情を示す事実を確認してみます。
それは甲斐恵林寺の焚殺事件です。
恵林寺(恵林寺訪問記は「こちら」です。)

この恵林寺は夢窓開基の禅刹であり、当時、信玄と親しかった快川国師が住持していたが、敗兵
を隠したために、織田信忠の兵に囲まれてしまった。
兵たちは寺中残らず、老いも若きも山門へ呼び寄せ、廊門より山門へ籠草を積ませ火をつけた。
はじめは黒煙が立って見えなかったが、しだいに煙がおさまり、人の形も見えてきた。
快川長老は少しも騒がず、まっすぐ座ったまま動かず
「安禅は必ずしも山水を求めず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し」
という有名な言葉を残して従容として死んでいった。
このとき、長老のほか11人がなくなった。
恵林寺は破滅し、老若上下150余人が焼き殺されている。
人生には予測ができない事態が待っているものです。この快勝の3ヵ月のち、織田信長は6月
10日、本能寺で殺されてしまうのです。
長い間、長篠の戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は、鳥取城の戦いについて勉強してみたいと思います。
よかったら、お付き合いください。
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それは甲斐恵林寺の焚殺事件です。
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この恵林寺は夢窓開基の禅刹であり、当時、信玄と親しかった快川国師が住持していたが、敗兵
を隠したために、織田信忠の兵に囲まれてしまった。
兵たちは寺中残らず、老いも若きも山門へ呼び寄せ、廊門より山門へ籠草を積ませ火をつけた。
はじめは黒煙が立って見えなかったが、しだいに煙がおさまり、人の形も見えてきた。
快川長老は少しも騒がず、まっすぐ座ったまま動かず
「安禅は必ずしも山水を求めず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し」
という有名な言葉を残して従容として死んでいった。
このとき、長老のほか11人がなくなった。
恵林寺は破滅し、老若上下150余人が焼き殺されている。
人生には予測ができない事態が待っているものです。この快勝の3ヵ月のち、織田信長は6月
10日、本能寺で殺されてしまうのです。
長い間、長篠の戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。
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「長篠の戦い」 その30
『信長・家康軍の勝利』
信長は3月5日、安土を出発し、6日に仁科盛信(19歳)の首を呂久川で検分して長良川にさ
らした。
14日、波合で勝頼父子の首を見て、これを飯田にさらした。
織田信長

信長はその首級を見たとき
「日本に隠なき弓取なれども、運が尽きさせ給ひて、かく成らせ給ふものかな」
といったことが、徳川方の記録にある。
20日、上諏訪で徳川家康に会見し、駿河・上野・甲斐・信濃四ヵ国の侍たちが、色々なツテを
求めて挨拶に来ることは勝ち戦の常で、信長の宿舎は門前市をなす有様であったといいます。
ここで論功行賞により、小笠原信嶺・穴山梅雪には旧領を、木曾義昌には旧領筑摩郡のほかに安
曇郡を加え、滝川一益には信濃2郡(小県・佐久)および上野を与えた。
駿河は家康に、甲斐および諏訪郡を河尻秀隆に、信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)を森長可
に、伊那郡を毛利秀頼に与えた。
信長は4月10日に甲府を去り、21日に安土に凱旋した。
その陣中から松井有閑にあてた手紙では
「このように30日や40日で一挙に片付いたことは、我ながら驚くばかりである」
といっている。
信長はそうとうに満足であったのでしょう。
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らした。
14日、波合で勝頼父子の首を見て、これを飯田にさらした。
織田信長

信長はその首級を見たとき
「日本に隠なき弓取なれども、運が尽きさせ給ひて、かく成らせ給ふものかな」
といったことが、徳川方の記録にある。
20日、上諏訪で徳川家康に会見し、駿河・上野・甲斐・信濃四ヵ国の侍たちが、色々なツテを
求めて挨拶に来ることは勝ち戦の常で、信長の宿舎は門前市をなす有様であったといいます。
ここで論功行賞により、小笠原信嶺・穴山梅雪には旧領を、木曾義昌には旧領筑摩郡のほかに安
曇郡を加え、滝川一益には信濃2郡(小県・佐久)および上野を与えた。
駿河は家康に、甲斐および諏訪郡を河尻秀隆に、信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)を森長可
に、伊那郡を毛利秀頼に与えた。
信長は4月10日に甲府を去り、21日に安土に凱旋した。
その陣中から松井有閑にあてた手紙では
「このように30日や40日で一挙に片付いたことは、我ながら驚くばかりである」
といっている。
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「長篠の戦い」 その29
『武田家の滅亡』
追撃してやってきた滝川一益・川尻秀隆らは、婦人子供を一人ずつ刺し殺し、侍らは斬ってでて、
甲州武士の最後を飾った。
武田勝頼一家の墓景徳院訪問記は「こちら」です。)

このとき自殺・斬死したものは武田勝頼・信勝をはじめとして、長坂釣閑斎・跡部尾張守・小宮
山友晴・小原下総守などであった。
思えば、勝頼は悲劇の人であったのです。
勝頼の母は信濃諏訪郡上原の城主、諏訪頼重の娘です。
頼重が信玄に殺されたとき、姪ではあるが美しい娘は信玄の側室に迎えられたのです。
姫は勝頼を産んで、永禄4年に病没している。
勝頼にとって信玄は祖父の仇であり、母を戦利品として略奪した非道な人物なのです。
そして今は、信玄の占領地域のすべてを失い、父の一族老臣から見捨てられて、死出の旅路を
歩んで行ったのです。
悲劇の部将・武田勝頼の墓は田野の景徳院にあります。
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追撃してやってきた滝川一益・川尻秀隆らは、婦人子供を一人ずつ刺し殺し、侍らは斬ってでて、
甲州武士の最後を飾った。
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このとき自殺・斬死したものは武田勝頼・信勝をはじめとして、長坂釣閑斎・跡部尾張守・小宮
山友晴・小原下総守などであった。
思えば、勝頼は悲劇の人であったのです。
勝頼の母は信濃諏訪郡上原の城主、諏訪頼重の娘です。
頼重が信玄に殺されたとき、姪ではあるが美しい娘は信玄の側室に迎えられたのです。
姫は勝頼を産んで、永禄4年に病没している。
勝頼にとって信玄は祖父の仇であり、母を戦利品として略奪した非道な人物なのです。
そして今は、信玄の占領地域のすべてを失い、父の一族老臣から見捨てられて、死出の旅路を
歩んで行ったのです。
悲劇の部将・武田勝頼の墓は田野の景徳院にあります。
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