「水曜どうでしょう」始動!
『水曜どうでしょう』の新作ロケついに始動!
今年にはいり、藤やんやミスターが「水曜どうでしょう」新作ロケについて、さかんに匂わして
いましたが、今日(7月31日)、ロケに出発したようです。

これは、毎年、行われている「水曜どうでしょうDODESYO CARAVAN 2018」(岩手県、7月
29日)で発表されたもので、ニコニコ生放送で公表されました。

この車を買ったお店に、札幌出身の店員さんがいらして、「まぁ、嬉しい!」と喜んでいらっし
ゃいました。

水曜どうでしょうは、1996年~2002年に掛けて放送された人気バラエティー番組。レギュラー放送
終了後も、「激闘!西表島」や「ヨーロッパ20ヵ国完全制覇~完結編~」などの企画が不定期に
放送され、最新作は、2013年の「初めてのアフリカ」からはしばらく間が空いていました。

放映されるのは、来年になるのでしょうけど、藩士としては6年ぶりの新作ですから、嬉しい
かぎりです。
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今年にはいり、藤やんやミスターが「水曜どうでしょう」新作ロケについて、さかんに匂わして
いましたが、今日(7月31日)、ロケに出発したようです。

これは、毎年、行われている「水曜どうでしょうDODESYO CARAVAN 2018」(岩手県、7月
29日)で発表されたもので、ニコニコ生放送で公表されました。

この車を買ったお店に、札幌出身の店員さんがいらして、「まぁ、嬉しい!」と喜んでいらっし
ゃいました。

水曜どうでしょうは、1996年~2002年に掛けて放送された人気バラエティー番組。レギュラー放送
終了後も、「激闘!西表島」や「ヨーロッパ20ヵ国完全制覇~完結編~」などの企画が不定期に
放送され、最新作は、2013年の「初めてのアフリカ」からはしばらく間が空いていました。

放映されるのは、来年になるのでしょうけど、藩士としては6年ぶりの新作ですから、嬉しい
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「鳥取城の戦い」 その27
『鳥取城の開城』
遺言をしたためた吉川経家は、城内の諸士と最後の酒宴を開いた。
鳥取城大手門

そして納めの盃を介錯人となる静間につかわした時、高声に、から笑い、二つ三つして、それ
から上座に置いた具足唐櫃に腰をかけ、脇差を布で巻き、座中を見廻し、いかのも大声で
「常日頃、稽古せんことじゃ、不調法な切りようになるかもしれんからのう」
と叫び、10月25日寅の刻(午前4時頃)、久松山麓の真教寺において、35年の生涯を終
わった。
家来の福光小三郎、若鶴甚右衛門、坂田孫次郎の3人も、その場で追腹を切った。
経家の首は首桶に収められ、秀吉あての一書とともに、秀吉の陣営におくられた。
秀吉は首実験をし、「あわれ義士かな」と鎧の袖をしぼったという。
ところで、籠城軍は秀吉の攻撃よりも、日ごとにせまる飢餓との闘いで、やつれ果て、見る影
もなかった。
秀吉は城の麓に大釜をすえ、粥の用意をして与えたが、一度に多食した者は、みな死んでしま
った。
『信長公記』は「食にゑひ、過半頓死候」と報じているが、彼らの消火器は、すでにその機能
を失っていたのです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
遺言をしたためた吉川経家は、城内の諸士と最後の酒宴を開いた。
鳥取城大手門

そして納めの盃を介錯人となる静間につかわした時、高声に、から笑い、二つ三つして、それ
から上座に置いた具足唐櫃に腰をかけ、脇差を布で巻き、座中を見廻し、いかのも大声で
「常日頃、稽古せんことじゃ、不調法な切りようになるかもしれんからのう」
と叫び、10月25日寅の刻(午前4時頃)、久松山麓の真教寺において、35年の生涯を終
わった。
家来の福光小三郎、若鶴甚右衛門、坂田孫次郎の3人も、その場で追腹を切った。
経家の首は首桶に収められ、秀吉あての一書とともに、秀吉の陣営におくられた。
秀吉は首実験をし、「あわれ義士かな」と鎧の袖をしぼったという。
ところで、籠城軍は秀吉の攻撃よりも、日ごとにせまる飢餓との闘いで、やつれ果て、見る影
もなかった。
秀吉は城の麓に大釜をすえ、粥の用意をして与えたが、一度に多食した者は、みな死んでしま
った。
『信長公記』は「食にゑひ、過半頓死候」と報じているが、彼らの消火器は、すでにその機能
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「鳥取城の戦い」 その26
『吉川経家の遺言』
10月24日の夜、森下道誉・中村春続は、それぞれの陣所で切腹し、奈佐日本助・塩冶高清・
佐々木三郎左衛門も丸山城で自刃して果てた。
この日、吉川経家は吉川元春の次男・吉川経言(広家)、父・経安、元春の家臣、自分の家来、
長子・亀寿丸にあてて遺言状を書いた。
鳥取城

経言にあてたものは、次のようなものであった。
我ら鳥取において御用にまかり立ち候。内々覚悟の前に候条、忘却いたさず候。日本二つの
御弓矢境(天下分け目の戦い)において、切腹に及び候事、末代の名誉たるべくと存じ候。
累年別にして御芳情の段、其の期に望み、失念申さず候。存じ候ほど申し得ず候。したがって、
預け奉り候長光の刀、息亀寿の所へつかはされ候て下さるべく候、恐惶謹言。
10月24日 経家
次に、元春の家臣に与えたものは、土地の斡旋を依頼したものであった。
義士・経家が所領を拝領したいという置文していることに、奇異の眼をしてはいけないのです。
経家とて人間なのです。所領がなければ、子孫は滅亡してしまうので、わが家が栄えることを
願ったのです。
翌25日、また3通の遺書をしたためた。
一つは、あちゃこ・かめじゅ・かめ五・とく五の4人の子後もにあてたもので、
とっとりの事、よるひる2ひゃく日こらへ候。ひやうらうにつきはて候まま、我ら一人御ように
たち、おのおのをたすけ申し、一もん(門)のなをあげ候、そのしあはせ、ものがたり、御きき
あるべく候、かしく。
と書いた。
二つは、父・吉川経安にあてたもので、一人切腹して、諸人を無事に助け、吉川一門の名をあげ、
喜んで死んでいくことを述べている。
三つは秀吉にあてたもので、その中で
「恐れながら、後代名誉たるべく候。此等の趣、天下に於て御披露仰ぐ所に候」
といい、自分の死を天下に紹介してほしい、といっている。
自分の存在価値が高く評価されることによって、吉川家の子孫に利益がもたらされることを意識
したものだったのでしょう。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
10月24日の夜、森下道誉・中村春続は、それぞれの陣所で切腹し、奈佐日本助・塩冶高清・
佐々木三郎左衛門も丸山城で自刃して果てた。
この日、吉川経家は吉川元春の次男・吉川経言(広家)、父・経安、元春の家臣、自分の家来、
長子・亀寿丸にあてて遺言状を書いた。
鳥取城

経言にあてたものは、次のようなものであった。
我ら鳥取において御用にまかり立ち候。内々覚悟の前に候条、忘却いたさず候。日本二つの
御弓矢境(天下分け目の戦い)において、切腹に及び候事、末代の名誉たるべくと存じ候。
累年別にして御芳情の段、其の期に望み、失念申さず候。存じ候ほど申し得ず候。したがって、
預け奉り候長光の刀、息亀寿の所へつかはされ候て下さるべく候、恐惶謹言。
10月24日 経家
次に、元春の家臣に与えたものは、土地の斡旋を依頼したものであった。
義士・経家が所領を拝領したいという置文していることに、奇異の眼をしてはいけないのです。
経家とて人間なのです。所領がなければ、子孫は滅亡してしまうので、わが家が栄えることを
願ったのです。
翌25日、また3通の遺書をしたためた。
一つは、あちゃこ・かめじゅ・かめ五・とく五の4人の子後もにあてたもので、
とっとりの事、よるひる2ひゃく日こらへ候。ひやうらうにつきはて候まま、我ら一人御ように
たち、おのおのをたすけ申し、一もん(門)のなをあげ候、そのしあはせ、ものがたり、御きき
あるべく候、かしく。
と書いた。
二つは、父・吉川経安にあてたもので、一人切腹して、諸人を無事に助け、吉川一門の名をあげ、
喜んで死んでいくことを述べている。
三つは秀吉にあてたもので、その中で
「恐れながら、後代名誉たるべく候。此等の趣、天下に於て御披露仰ぐ所に候」
といい、自分の死を天下に紹介してほしい、といっている。
自分の存在価値が高く評価されることによって、吉川家の子孫に利益がもたらされることを意識
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「鳥取城の戦い」 その25
『開城規約』
さすがの吉川経家も、こうした悲惨な光景を見て、ついに野田春実を秀吉の陣営に送り、開城
規約の談判をすることとなった。
鳥取城大手門(鳥取城登城記は「こちら」です。)

秀吉方が示した開城の条件は
一. 森下道誉・中村春継は、主君・山名豊国を追放した逆臣であることから、切腹すること。
一. 奈佐日本助・塩冶高清・佐々木三郎左衛門は、海賊・山賊として、良民を苦しめたから切
腹すること。
一. 経家をはじめ、芸州からの加番の士は、すべて生命を救助するから、下城すること。
というのであった。
しかし、経家は、
「森下・中村は山名に不忠であっても、毛利にとっては忠臣であるから命を助け、経家ひとり
自刀し、他の者は残らず助命ありたい」
と返事した。
秀吉はこれを許さない。
とくに経家のような義士を殺すことは、秀吉の名折れになる。というわけで、承諾しなかったの
です。
しかし、経家の決心は固く、秀吉はとうとう経家の切腹を許した。
経家もまた秀吉の要求を承諾したので、開城規約が成立した。
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さすがの吉川経家も、こうした悲惨な光景を見て、ついに野田春実を秀吉の陣営に送り、開城
規約の談判をすることとなった。
鳥取城大手門(鳥取城登城記は「こちら」です。)

秀吉方が示した開城の条件は
一. 森下道誉・中村春継は、主君・山名豊国を追放した逆臣であることから、切腹すること。
一. 奈佐日本助・塩冶高清・佐々木三郎左衛門は、海賊・山賊として、良民を苦しめたから切
腹すること。
一. 経家をはじめ、芸州からの加番の士は、すべて生命を救助するから、下城すること。
というのであった。
しかし、経家は、
「森下・中村は山名に不忠であっても、毛利にとっては忠臣であるから命を助け、経家ひとり
自刀し、他の者は残らず助命ありたい」
と返事した。
秀吉はこれを許さない。
とくに経家のような義士を殺すことは、秀吉の名折れになる。というわけで、承諾しなかったの
です。
しかし、経家の決心は固く、秀吉はとうとう経家の切腹を許した。
経家もまた秀吉の要求を承諾したので、開城規約が成立した。
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「鳥取城の戦い」 その24
『戦いは非情』
戦いというものは、古今を問わず非情なものです。
餓鬼道にくるった人間ほど、なにをしでかすか分からないものです。
鳥取城

嘘であってほしいものですが、吉川経家の父・経安の置文の中に、
「次第に兵糧つきぬれば、或いは、牛馬を食とし、或いは人を服す。獄卒あしららせつの呵責も
かくこそと、目もあてられぬ分野(ありさま)、前代未聞とも、中々いうもおろかなり」
とあるから、事実だったのです。
さらに驚かされるのは
「吾子の死したるを人に隠し、尻の下に敷いて、むしり食べ」
たと、『鳥府志』にあり、疑いもなく、兵糧が勝敗の決め手であって、弓矢・鉄砲・槍・刀など
ではなかったのです。
それにしても、百姓らはいざ知らず、将兵の中の降参者がなかったというから、経家を中心とし
た籠城兵の決意はもの凄いものがあったのでしょう。
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戦いというものは、古今を問わず非情なものです。
餓鬼道にくるった人間ほど、なにをしでかすか分からないものです。
鳥取城

嘘であってほしいものですが、吉川経家の父・経安の置文の中に、
「次第に兵糧つきぬれば、或いは、牛馬を食とし、或いは人を服す。獄卒あしららせつの呵責も
かくこそと、目もあてられぬ分野(ありさま)、前代未聞とも、中々いうもおろかなり」
とあるから、事実だったのです。
さらに驚かされるのは
「吾子の死したるを人に隠し、尻の下に敷いて、むしり食べ」
たと、『鳥府志』にあり、疑いもなく、兵糧が勝敗の決め手であって、弓矢・鉄砲・槍・刀など
ではなかったのです。
それにしても、百姓らはいざ知らず、将兵の中の降参者がなかったというから、経家を中心とし
た籠城兵の決意はもの凄いものがあったのでしょう。
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「鳥取城の戦い」 その23
『渇(かつえ)の鳥取城』
安土の信長は8月中頃、毛利・両川の鳥取救援の風説が伝わったので、丹波の明智光秀・丹後
の細川藤孝を先発させて、秀吉を助けさせた。
かつ江さん

藤孝は15百余を率いて、日本海から兵糧を運び、同時に毛利の糧道を断ち切ろうとした。
そして9月、千代河口の兵糧争奪戦となり、毛利は敗れ船65艇を奪われてしまった。
今や、天下の名城鳥取は孤立無援のありさまで、その命運は尽いたのも同然であった。
来る日も来る日も、鳥取城外は活気にあふれ、まことに景気がいい。
これに反して、城内は悲惨きわまりない。
そのありさまを
「初めの程は、5日に一度、3日に一度、鐘をつき、鐘しだい、雑兵ことごとく柵際まで出て、
木草の葉を取り、中にも稲株を上々の食物とし、後にはこれも事尽き候て、牛馬を食らい、霜
露にうたれ、弱気は飢え死に際限なく、餓鬼の如く痩せ衰へたる男女、柵際へもだえ焦がれ、
引き出し助け候へと叫び、叫喚の悲しみ哀れなるありさま、目も当てられず」
と、『信長公記』に記している。
しかも柵にすがって、出してくれよと泣き叫ぶ男女を、秀吉軍は容赦なく鉄砲で打ち倒す。
すると「片息したるその者を」刀を持った人々が集まって、手足を切り離し、肉を争ったとも
いう。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
安土の信長は8月中頃、毛利・両川の鳥取救援の風説が伝わったので、丹波の明智光秀・丹後
の細川藤孝を先発させて、秀吉を助けさせた。
かつ江さん

藤孝は15百余を率いて、日本海から兵糧を運び、同時に毛利の糧道を断ち切ろうとした。
そして9月、千代河口の兵糧争奪戦となり、毛利は敗れ船65艇を奪われてしまった。
今や、天下の名城鳥取は孤立無援のありさまで、その命運は尽いたのも同然であった。
来る日も来る日も、鳥取城外は活気にあふれ、まことに景気がいい。
これに反して、城内は悲惨きわまりない。
そのありさまを
「初めの程は、5日に一度、3日に一度、鐘をつき、鐘しだい、雑兵ことごとく柵際まで出て、
木草の葉を取り、中にも稲株を上々の食物とし、後にはこれも事尽き候て、牛馬を食らい、霜
露にうたれ、弱気は飢え死に際限なく、餓鬼の如く痩せ衰へたる男女、柵際へもだえ焦がれ、
引き出し助け候へと叫び、叫喚の悲しみ哀れなるありさま、目も当てられず」
と、『信長公記』に記している。
しかも柵にすがって、出してくれよと泣き叫ぶ男女を、秀吉軍は容赦なく鉄砲で打ち倒す。
すると「片息したるその者を」刀を持った人々が集まって、手足を切り離し、肉を争ったとも
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「鳥取城の戦い」 その22
『秀吉の心理作戦』
秀吉は、本陣を久松山の東方、241mの太閤ヶ原(本陣山)にすえ、右翼・左翼・平地の三軍
に陣を張った。
鳥取城

秀吉の包囲は雄大をきわめた。
「三里(12km)四方に、堅固な柵を結い、河(袋川)の辺には乱杭をうち、あるいは逆さ茂
木をひき、あるいは水底に縄網を張り、諸陣の櫓には、鼓・法螺・鐘を鳴らし、所々のかがり火
はさながら万灯のごとし」
と、吉川経家の父・経安の置文の中に書いている。
そして「海上には警固舟を置き、浦々を焼き払い、丹後・但馬より海上を自由に舟にて兵糧を届
けさせ、この表一着の間は幾年も在陣すべき用意」がしてあったと『信長公記』はいう。
こうした有様を見ると、余裕しゃくしゃく、眼中に敵なしといった態度であった。
秀吉らしい、派手な心理作戦であった。
吉川元春は、鳥取城を救おうとして、安芸から出雲に入り、ついで伯耆へ進出し、羽衣石城の
南条元続を攻めたが、城を落とすことができず、東進を阻止された。
そのうえ、出雲の三沢為虎が秀吉に内応したとの噂が立ち、鳥取城の救援など思いもよらなか
った。
また、毛利輝元・隆景も、宇喜多に対抗して、備前・備中・美作の軍事に追われ、山陽方面にく
ぎ付けにされていた。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉は、本陣を久松山の東方、241mの太閤ヶ原(本陣山)にすえ、右翼・左翼・平地の三軍
に陣を張った。
鳥取城

秀吉の包囲は雄大をきわめた。
「三里(12km)四方に、堅固な柵を結い、河(袋川)の辺には乱杭をうち、あるいは逆さ茂
木をひき、あるいは水底に縄網を張り、諸陣の櫓には、鼓・法螺・鐘を鳴らし、所々のかがり火
はさながら万灯のごとし」
と、吉川経家の父・経安の置文の中に書いている。
そして「海上には警固舟を置き、浦々を焼き払い、丹後・但馬より海上を自由に舟にて兵糧を届
けさせ、この表一着の間は幾年も在陣すべき用意」がしてあったと『信長公記』はいう。
こうした有様を見ると、余裕しゃくしゃく、眼中に敵なしといった態度であった。
秀吉らしい、派手な心理作戦であった。
吉川元春は、鳥取城を救おうとして、安芸から出雲に入り、ついで伯耆へ進出し、羽衣石城の
南条元続を攻めたが、城を落とすことができず、東進を阻止された。
そのうえ、出雲の三沢為虎が秀吉に内応したとの噂が立ち、鳥取城の救援など思いもよらなか
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また、毛利輝元・隆景も、宇喜多に対抗して、備前・備中・美作の軍事に追われ、山陽方面にく
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>