本能寺の変 その22
『光秀の天下掌握作戦』
信長を倒した光秀は、まず洛中の治安を第一とし、織田の残党を倒しために全力をあつめた。
一方、西国の毛利・両川(小早川・吉川)、北国の上杉に急使を送って、信長討伐の事実を
知らせ、また東国の北条、四国の長宗我部、その他の諸将に檄を飛ばしたものと思います。
坂本城跡碑(大津市)

小早川隆景にあてた密書の中で、光秀自身の恨みをはらし、足利義昭が上洛して再び将軍職
につくであろうといい、毛利・両川が義昭を守って、秀吉と対決していることを「忠列」と
ほめ、逆に秀吉が備中で「乱妨」を企てていると非難しているのです。
しかし、この使者は天候が悪いため遅れたらしく、別の使者は秀吉の陣営に捕らえられている。
また、美濃野呂の城主・尾西光教に与えたものの中で、信長父子の「悪逆は天下の妨げ」で
あったから討ち果たしたといい、早く大垣城を乗っ取れと勧めています。
こうした手配が終わると、京都の西南、山崎近くの勝竜寺城に、溝尾勝兵衛を残し、堺や大坂
にいる織田信孝(信長三男)・丹羽長秀らの四国征討軍に備えさせ、2日の午後2時頃に京都
をたって、根拠の坂本(大津市)に向かった。
いうまでもなく、信長の安土城・秀吉の長浜城・長秀の佐和山城を攻略して、北陸・美濃両路を
抑えるためであったのでしょう。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
信長を倒した光秀は、まず洛中の治安を第一とし、織田の残党を倒しために全力をあつめた。
一方、西国の毛利・両川(小早川・吉川)、北国の上杉に急使を送って、信長討伐の事実を
知らせ、また東国の北条、四国の長宗我部、その他の諸将に檄を飛ばしたものと思います。
坂本城跡碑(大津市)

小早川隆景にあてた密書の中で、光秀自身の恨みをはらし、足利義昭が上洛して再び将軍職
につくであろうといい、毛利・両川が義昭を守って、秀吉と対決していることを「忠列」と
ほめ、逆に秀吉が備中で「乱妨」を企てていると非難しているのです。
しかし、この使者は天候が悪いため遅れたらしく、別の使者は秀吉の陣営に捕らえられている。
また、美濃野呂の城主・尾西光教に与えたものの中で、信長父子の「悪逆は天下の妨げ」で
あったから討ち果たしたといい、早く大垣城を乗っ取れと勧めています。
こうした手配が終わると、京都の西南、山崎近くの勝竜寺城に、溝尾勝兵衛を残し、堺や大坂
にいる織田信孝(信長三男)・丹羽長秀らの四国征討軍に備えさせ、2日の午後2時頃に京都
をたって、根拠の坂本(大津市)に向かった。
いうまでもなく、信長の安土城・秀吉の長浜城・長秀の佐和山城を攻略して、北陸・美濃両路を
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本能寺の変 その21
『家康の岡崎帰還』
本能寺の変報は全国に乱れ飛び、変報を聞いた信長の諸将の動きは種々様々であった。
信長の二男・信勝は本領の伊勢にいたが、兵力が少なく、また光秀に応じる一揆の動きがあって、
積極的に動ける状況でなかったという。
岡崎城

北陸道の大将・柴田勝家は、上杉景勝の領国・越後に迫り、松倉城(富山県)を包囲していたが、
包囲を解き、せっかく取った魚津城も捨て、上洛しようとしたが、時すでに遅かった。
東山道の大将・滝川一益は、上野厩橋(前橋市)にあって、関東の経営にあたっていたが、新領
土の保有が大問題で、上洛などできるどころか、のち北条氏に攻められて、本領・伊勢長島(桑
名市)に逃げ帰ることになる。
東海道の大将・徳川家康は、5月21日に上洛し、29日に堺に遊び、6月2日の朝、変報を聞
くと、信長に面会のため上洛するといって、急いで堺をたち、伊勢越えをして岡崎に辿り着いた。
この伊勢越えは、非常に困難を極め、家康の生涯の中の危機であったという。
同行して堺に赴いた穴山梅雪は、帰途中に一揆に殺害されています。
家康は4日に岡崎に帰ると(居城は浜松)、甲斐・信濃の経略に乗り出し、機敏に活動を開始し
た。
また、14日に兵を率いて尾張に出陣し、上洛の構えを見せたが、その行動は緩慢で、後方を固
める考えが強い、家康らしい堅実さがあったという。
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積極的に動ける状況でなかったという。
岡崎城

北陸道の大将・柴田勝家は、上杉景勝の領国・越後に迫り、松倉城(富山県)を包囲していたが、
包囲を解き、せっかく取った魚津城も捨て、上洛しようとしたが、時すでに遅かった。
東山道の大将・滝川一益は、上野厩橋(前橋市)にあって、関東の経営にあたっていたが、新領
土の保有が大問題で、上洛などできるどころか、のち北条氏に攻められて、本領・伊勢長島(桑
名市)に逃げ帰ることになる。
東海道の大将・徳川家康は、5月21日に上洛し、29日に堺に遊び、6月2日の朝、変報を聞
くと、信長に面会のため上洛するといって、急いで堺をたち、伊勢越えをして岡崎に辿り着いた。
この伊勢越えは、非常に困難を極め、家康の生涯の中の危機であったという。
同行して堺に赴いた穴山梅雪は、帰途中に一揆に殺害されています。
家康は4日に岡崎に帰ると(居城は浜松)、甲斐・信濃の経略に乗り出し、機敏に活動を開始し
た。
また、14日に兵を率いて尾張に出陣し、上洛の構えを見せたが、その行動は緩慢で、後方を固
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本能寺の変 その20
『手ごたえのない光秀の勝利』
本能寺の変は終わった。
これより先、織田信忠は前田玄以を呼んで、居城・岐阜に残している妻と子の三法師を、清洲
に移して守るように遺命していた。
清洲城

この三法師こそ、のちの清洲会議で、秀吉が織田の後継者として推した人です。また、玄以は
後に、秀吉の5奉行の一人になったひとです。
それにしても、死んだはずの信長・信忠父子の首は、ついに発見されなかったという。
明智光秀としては、ぜひ、首を見たかったことでしょう。
信長父子は死んだといっても、自己の敗北を光秀に認めさせなかったのです。
見事なことです。
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これより先、織田信忠は前田玄以を呼んで、居城・岐阜に残している妻と子の三法師を、清洲
に移して守るように遺命していた。
清洲城

この三法師こそ、のちの清洲会議で、秀吉が織田の後継者として推した人です。また、玄以は
後に、秀吉の5奉行の一人になったひとです。
それにしても、死んだはずの信長・信忠父子の首は、ついに発見されなかったという。
明智光秀としては、ぜひ、首を見たかったことでしょう。
信長父子は死んだといっても、自己の敗北を光秀に認めさせなかったのです。
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本能寺の変 その19
『二条御所の戦い』
市中に泊まっていた信長の馬廻りの者、その他1000余騎が明智軍と戦いながら、御所へ馳せ
参じた。
いよいよ二条の御所の攻防戦の開始です。
二条御所跡碑

信忠は追手の門を開き、前に弓・鉄砲を並べ、寄せ手に矢玉を浴びせ、たじろぐところを後方か
ら斬って出させた。
武具に身を固めた攻囲軍に対して、素肌に帷子(かたびら)だけの防御軍の姿は対照的だったこ
とでしょう。
そのうち、攻撃軍の鉄砲・弓方は、御所隣の屋根に上り、御所のなかを狙いうった。
これが致命的で、防御軍の死傷者が続出したので、攻撃軍は御所内へ殺到した。
これまで陣頭にたって斬り廻り、力の限り戦っていた信忠は、火焔のなかで、鎌田新介の介錯で
自刃して果てた。
信忠26歳であった。
村井貞勝以下の精兵も枕を並べて切腹したというが、ただ一人だけ降服した人物がいた。
それは、バテレンが信長におくり、信長が墨で塗ったものと思い、洗わせると、ますます黒くな
った黒人です。
光秀はこの黒人を見て、「これは動物であって、なにもわからぬ」と言ったという。
信長の重臣であった光秀が、バテレンが信長におくった黒人のことを知らなかったのでしょうか。
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市中に泊まっていた信長の馬廻りの者、その他1000余騎が明智軍と戦いながら、御所へ馳せ
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二条御所跡碑

信忠は追手の門を開き、前に弓・鉄砲を並べ、寄せ手に矢玉を浴びせ、たじろぐところを後方か
ら斬って出させた。
武具に身を固めた攻囲軍に対して、素肌に帷子(かたびら)だけの防御軍の姿は対照的だったこ
とでしょう。
そのうち、攻撃軍の鉄砲・弓方は、御所隣の屋根に上り、御所のなかを狙いうった。
これが致命的で、防御軍の死傷者が続出したので、攻撃軍は御所内へ殺到した。
これまで陣頭にたって斬り廻り、力の限り戦っていた信忠は、火焔のなかで、鎌田新介の介錯で
自刃して果てた。
信忠26歳であった。
村井貞勝以下の精兵も枕を並べて切腹したというが、ただ一人だけ降服した人物がいた。
それは、バテレンが信長におくり、信長が墨で塗ったものと思い、洗わせると、ますます黒くな
った黒人です。
光秀はこの黒人を見て、「これは動物であって、なにもわからぬ」と言ったという。
信長の重臣であった光秀が、バテレンが信長におくった黒人のことを知らなかったのでしょうか。
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本能寺の変 その18
『信長の嫡男・信忠』
京都所司代は本能寺の騒動を聞き、はじめは喧嘩だと思い鎮めようとして駆けつけ、光秀の
襲撃を知った。
すぐに妙覚寺に駆けつけ、信長の嫡男・信忠に光秀謀反のことを知らせた。
織田信忠(1555-1557年)

信忠は本能寺に駆けつけて防戦しようとしたが、すでに重囲のうちにあるのを知り、京都所
司代の意見に従い、防備の手薄な妙覚寺を出て、手勢500を率いて二条の御所にこもり、
明智軍を迎え撃とうとした。
二条の御所は、足利義昭のために信長みずから陣頭指揮して営んだ、いわゆる二条城とは異
なり、これを壊し、信長の京都における宿所として、建てたもので、当時は皇太子誠仁王の
御所にあてていた。
堀もあり、妙覚寺より防備は厳重であったのです。
午前8時頃といいますから、二条の御所は明智軍に包囲されていたでしょうから、信忠は親
王の宮中移転のことを申し込み、光秀もこれを承知しての移座だったのでしょう。
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織田信忠(1555-1557年)

信忠は本能寺に駆けつけて防戦しようとしたが、すでに重囲のうちにあるのを知り、京都所
司代の意見に従い、防備の手薄な妙覚寺を出て、手勢500を率いて二条の御所にこもり、
明智軍を迎え撃とうとした。
二条の御所は、足利義昭のために信長みずから陣頭指揮して営んだ、いわゆる二条城とは異
なり、これを壊し、信長の京都における宿所として、建てたもので、当時は皇太子誠仁王の
御所にあてていた。
堀もあり、妙覚寺より防備は厳重であったのです。
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王の宮中移転のことを申し込み、光秀もこれを承知しての移座だったのでしょう。
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本能寺の変 その17
『信長の最後は闇のなか』
本能寺での戦さで、箕浦大蔵・古川九兵衛・天野源右衛門の3人が信長と槍を合わせたとか、
安田作兵衛が、奥殿の残りの燭台に照らし出された信長の影を目あてに、腰障子の外から刺
したので、信長は右の脇に深手を負って、寝所へ火を放って自害したとか、作兵衛が障子をけ
破って奥に入ろうとすると森蘭丸が走って来て、十字の鎗で縁から溝に突き落としたので、作
兵衛はその鎗に取り付いて起き上がり、刀を抜いて蘭丸を討ったとか、信長を突いたのは天野
右衛門であったとか、いろいろのことが伝えられますが、多くは誤りなのでしょう。
燃える本能寺で戦う信長(幕末から明治に活動した月岡芳年氏の作品)

また、明智軍はやすやすと本能寺の内部に入り、信長が手と顔を洗い終わって、手拭きで清め
ているのを見たので、背に矢を放った。
すると信長は、この矢を抜いて鎌槍をとってしばらく防戦したが、腕に弾創をうけたので、部屋に
入って戸を閉じてしまった。
といふうに、キリシタンは信長の最後を伝えています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

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本能寺での戦さで、箕浦大蔵・古川九兵衛・天野源右衛門の3人が信長と槍を合わせたとか、
安田作兵衛が、奥殿の残りの燭台に照らし出された信長の影を目あてに、腰障子の外から刺
したので、信長は右の脇に深手を負って、寝所へ火を放って自害したとか、作兵衛が障子をけ
破って奥に入ろうとすると森蘭丸が走って来て、十字の鎗で縁から溝に突き落としたので、作
兵衛はその鎗に取り付いて起き上がり、刀を抜いて蘭丸を討ったとか、信長を突いたのは天野
右衛門であったとか、いろいろのことが伝えられますが、多くは誤りなのでしょう。
燃える本能寺で戦う信長(幕末から明治に活動した月岡芳年氏の作品)

また、明智軍はやすやすと本能寺の内部に入り、信長が手と顔を洗い終わって、手拭きで清め
ているのを見たので、背に矢を放った。
すると信長は、この矢を抜いて鎌槍をとってしばらく防戦したが、腕に弾創をうけたので、部屋に
入って戸を閉じてしまった。
といふうに、キリシタンは信長の最後を伝えています。
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本能寺の変 その16
『本能寺炎上』
信長はすぐに表御殿へ出、表御殿の番衆らを集め一手になって、防御の態勢をとろうとした。
厩や台所口でも防戦が行われたが、いずれも破られた。
左から駆け付けているのが、森蘭丸だという

<クリックで拡大します>
信長ははじめみずから弓を取って防ぎ、弦が切れると十文字の鎗をふるって力戦したが、肘に
槍傷を受けたので奥へ退いた。
そこには女たちがいたので
「女たちはくるしゅうない、急ぎまかり出でよ」
と追い出してから、殿舎に火をかけ腹を切ったという。
信長は「人生50年」とわりきっていたが、それに1年足りない49歳であった。
森蘭丸・高橋虎松ら近臣7、80人、思い思いの働きをし、信長に殉じた。
こうして本能寺の戦いは、あっけなく終わった。
信長の自信からくる油断であったことは間違いない。あるいは傲慢さが身を滅ぼしたのでしょう。
毛利の使僧・安国寺恵瓊は信長を評して、信長の代は5年や3年はもつであろう。
明年あたりは公家になられ、その後からは
「高ころびにあをのけにころばれ」
に違いない、といったが、この予言が的中したのです。
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信長はすぐに表御殿へ出、表御殿の番衆らを集め一手になって、防御の態勢をとろうとした。
厩や台所口でも防戦が行われたが、いずれも破られた。
左から駆け付けているのが、森蘭丸だという

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信長ははじめみずから弓を取って防ぎ、弦が切れると十文字の鎗をふるって力戦したが、肘に
槍傷を受けたので奥へ退いた。
そこには女たちがいたので
「女たちはくるしゅうない、急ぎまかり出でよ」
と追い出してから、殿舎に火をかけ腹を切ったという。
信長は「人生50年」とわりきっていたが、それに1年足りない49歳であった。
森蘭丸・高橋虎松ら近臣7、80人、思い思いの働きをし、信長に殉じた。
こうして本能寺の戦いは、あっけなく終わった。
信長の自信からくる油断であったことは間違いない。あるいは傲慢さが身を滅ぼしたのでしょう。
毛利の使僧・安国寺恵瓊は信長を評して、信長の代は5年や3年はもつであろう。
明年あたりは公家になられ、その後からは
「高ころびにあをのけにころばれ」
に違いない、といったが、この予言が的中したのです。
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