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山崎の戦い その21

『味方が集まらない光秀』

光秀としては、その娘婿である津田信澄と細川忠興が当然、味方であるべき筈であったが、信澄

は神戸信孝によって殺害され、忠興には裏切られてしまったのです。

筒井順慶(1549-1584年)
tu.筒井順慶

このような打撃を与えられながらも、光秀は、なおも有力な味方を得ようとあがいている。

その味方とは、大和国を領し、郡山の城主である筒井順慶です。

順慶は以前から、以前から光秀の恩恵を受けていたのです。

それは、信長が大和を光秀に与えようとしたのを、光秀が辞退し、順慶に譲ったからです。

だから順慶は、今度のような場合には、光秀に味方せねばならない義理があったのです。

本能寺の変を知ると、順慶は、その翌々日(6月4日)、南都衆、井戸衆を遣わし、6月5日、

近江に入って、光秀の指揮下に入れさせています。

光秀は、未子の乙寿丸を人質として、大和・和泉・紀伊の3国を与えるという条件で、順慶を招

き、光秀自身も、山城国の洞ヶ峠に野陣を張り、順慶が来るのを待っていたという。


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robin 20181030




                     <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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山崎の戦い その20

『ガラシャも恨みごと』

光秀からの書状には、宛書がなく覚書の形式になっていますが、明らかに忠興の父・細川藤孝

(幽斎)にあてて、送ったものでしょう。

光秀が自分の現在の立場を弁解しているのは、味方を求めるための手段だけでなく、その焦燥

にかられた様子が見てとれます。

細川忠興・ガラシャ
ho.細川忠興&ガラシャ

これらによっても、光秀の反逆が前々からの深い計画によるものでなく、単なるうっ憤によっ

てなされたものであることが想像できます。

しかし、それにもかかわらず、細川父子は、光秀の誘いを退け、返書を明智左馬助に遣わし、

光秀を拒絶している。

さらに、忠興は妻のたま(ガラシャ)を、一時離別し、細川家臣と侍女を付けて、丹波国三戸

野という山中にある明智家の茶屋に幽閉させたという。

幽閉先から、たまも、父の光秀に対して

「腹黒なる御心ゆえに、われらも忠興殿に捨てられ、幽(かすか)なるありさま」

と、恨みごとを言い伝えたという。

このように、光秀は自分の娘からも、その行動を非難されているのです。



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robin 20181029



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ひとり運動会

『公園でひと走り』

ロングリードが届いたので、「ひとり運動会」をしてきました。

やって来たのは、毎年秋に、氣志團がコンサートをやって袖ヶ浦海浜公園。

そうなんです、夕日の撮影にも来ている公園です。

「楽しい時は、顔が笑っています」

robin 20181028 01

楽しそうに走っています

robin 20181028 02

近隣のドッグランの会員になっているのですが、robinは社会学習がまだ不足しているので、

大型犬も集まるドッグランには行かないほうがよい。

と、しつけ教室のトレーナーさんに言われています。

「ボク、疲れました!」

robin 20181028 03

しつけ教室での最大の成果は、『話を良く聞けるようになった』ことです。

robin 20181028 04-1

これは得意です!

robin 20181028 04

次は、なんですか?

robin 20181028 05

おやつがあるなら、飛びますよ!!

robin 20181028 06

今日は、雲が多く落陽は望めないようです。

robin 20181028 07

tiggerとrobinが、一緒に遊べるようになったら、「犬」を追う「うさぎ」を撮ってみたいです(^^♪




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山崎の戦い その19

『光秀の焦燥』

光秀はそれにも懲りずに、6月9日付けで再び書状を細川藤孝(幽斎)に送っている。

その時の書状は、今なお細川家に伝わっていて、光秀の筆とみなされています。

明智光秀(1528-1582年)
ak.明智光秀

その内容を口語訳したものは、次のとおりです。

「御父子とも、信長の死をいたんで、もとどりを切られたそうだが、致しかないことと思う。拙

者も、一度は腹を立てたが、よく考えてみると当然のようにも思われる。が、事態が、かくなっ

たうえは、拙者に味方して頂きたいものだ。それについては、御父子に進上すべき国として、な

いない摂津をと予算しながら、御上洛をお待ちしている。が、但馬・若狭を望まれるとあらば、

それもまたお望みにまかせたい。拙者がこのたび、このような思いがけない大事を敢行したのは、

婿である忠興などを引き立てたいためであって、さらに、ほかの目的があるわけではない。ここ

50日か、100日のうちには、近畿を平定するが、それからは、十五郎や、与一郎などに、天

下をゆずり、拙者は隠居するつもりでいる」

「与一郎」とは、細川忠興のこと、「十五郎」とは光秀の長男・十五郎光満のことです。また、

両人とあるのは、この書状を届けた使者で、明智左馬助(秀満)と荒木勘十郎を指すらしい。



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公園にランに行ってきました。

robin 20181027



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山崎の戦い その18

『味方を募る光秀』

光秀は、大事を行った以上は、身の破滅を恐れ、味方を募ることに汲々としていた。

近江で蒲生賢秀父子を招こうとして失敗に終わった光秀は、次に丹後弓木の城主・一色義有に

味方を求め、これに成功している。

細川忠興(1563-1646年)
ho.細川忠興

その次に、丹後田辺の城主・細川藤孝(幽斎)・忠興父子を誘った。

光秀は、前に信長の命令によって、娘・たま(ガラシャ)を細川忠興に嫁がせているので、忠

興は、光秀の婿にあたるわけです。

そこで光秀は細川父子が、明智方に味方してくれるだろうと自信をもって誘ったことでしょう。

ところが、案に相違して、細川父子はこれを拒絶したのです。

この時のことは、『細川家記』に詳しく書いてあるそうです。

これによると、愛宕下坊幸朝僧正からの飛脚によって、細川父子が本能寺の変と、信長の横死

を知ったのは、6月3日のことであった。

彼らは、信長から備中出陣の命令を受け、忠興の居城である丹後の宮津を出発したばかりの時

であったが、宮津城に引き返していた。

すると、明智家家臣・沼田光友が使者として宮津にやって来て、光秀の密書を手渡したという。

密書は文面は、今に伝わっていませんが、忠興は光秀からの密書を見て、非常に怒り、使者の

沼田光友を殺そうとしたが、父の藤孝が使者には罪はないと、これを止めたという。



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robin 20181026



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山崎の戦い その17

『禁裏への献金』

安土城を手に入れ近江一国を平定した光秀は、一族の明智弥平次(秀満)を安土に留め、6月

7日に軍勢を返して上洛した。

吉田兼和(1535-1610年)
yo.吉田兼和

吉田兼和は、8日に帰京して、禁裏に光秀のことを復命したが、9日になって、光秀から本日

入京するという自筆の書状が届いた。

光秀は午後2時になって軍勢を率いて上洛したので、兼和は白川まで、これを出迎えている。

この時、京都の公家衆が、ことごとく迎えに出ようとしたので、兼和が、そのことを伝えると、

光秀はこれを辞退したという。

光秀は、兼和の屋敷に行き、過日、勅使として安土にやって来た労を謝し、兼和の手を通して、

銀子500枚を禁裏に献上し、100枚ずつを五山に、100枚を大徳寺に喜捨、50枚を吉田社

の修理費として、兼和に渡した。

この日に夕食は、兼和が饗応し、光秀を主賓とし、連歌師の里村招巴・昌叱・心前と兼和とが

相伴したが、食事が済むと、光秀はただちに下鳥羽に出陣している。

夜に入って、兼和は光秀が献上した銀子500枚を持って参内し、委細を正親町天皇に上聞し

たので、天皇からは、光秀に対して銀献上御礼の女房奉書が下されたという。

兼和はそれを持って、下鳥羽の陣所に行き、光秀に渡すと光秀は非常に感激したという。


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20181025.jpg



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山崎の戦い その16

『光秀、安土城を占拠』

本能寺の変から3日後の、6月5日に光秀は安土城に入った。

安土城には、日野の城主・蒲生賢秀が留守居をしていたが、賢秀は信長の家族を連れて去り、

他の者も多く離散していたので、城を明け渡さざるを得なかった。

安土城
az.安土城 002

このとき光秀は、賢秀やその子(氏郷)を味方につけようとして、近江半国の知行を与えるこ

とによって招いたが、賢秀父子は、これを固く拒み、日野城に拠り一向一揆を煽動して、光秀

にあたろうとしたという。

安土城に入城した光秀は、まず城内にあった金銀財宝を家臣に分配した。

その時、安土にいた耶蘇会の宣教師オルガンチノに頼んで、キリシタンの高山重友を説得させ、

これを味方につけようとしたが、これも失敗に終わっている。

また、6日に光秀は越後の上杉景勝に使者を遣わし、味方に求めている。

光秀はこのようなことで、安土に留まっていたが、6月7日になると、京都から吉田兼和(兼

見)が、勅使としてやって来て

「こんど事変にあたって、皇居の所在地である京都には、差しさわりのないように、よろしく

計らえ」

という勅命を伝えた。

これは、兼和が、光秀のことを朝廷に取りなしたためであった。

後に、兼和がこのことで神戸信孝に咎められたとき、そのことをまた朝廷に訴え、朝廷の取りな

しで、無事に解決したということであった。


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robin 20181024



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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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