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賤ヶ岳の戦い その16

『美濃衆』

秀吉は近江の横山城を修築して、ここに兵を入れ、柴田勝豊の長浜城を監視させ、また弟の羽

柴長秀に命じて、佐和山を守備させると、12月16日に美濃の大垣に入城した。

大垣城(大垣城登城記は「こちら」です。)
oo.大垣城 004-1

大垣は、美濃衆の氏家直通の居城だったが、直通はこのとき織田信孝に背いて、秀吉に味方し

ていた。

はやくから秀吉に内通していたのでしょう。

すると、清水の城主・稲葉一鉄、これも美濃衆ですが、やはり実子を人質に出して秀吉に降参

した。

秀吉は、北畠信雄に従うべきことを説いて、美濃衆の誘降に成功した。

金山城主・森長可もまた、このとき、信孝に背き、秀吉に味方したらしく、信孝の老臣となっ

ていた美濃衆の斎藤利堯を攻めた。



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                    <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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賤ヶ岳の戦い その15

『温情な秀吉』

近江出兵について、秀吉は諸将に与えた書状のなかで、織田信勝を京都に迎えるためだといっ

ているが、本当の目的は、柴田勝家の属城長浜を攻略するためであった。

長浜城
na.長浜城 010

秀吉は、12月11日、堀秀政の居城・佐和山に入り、長浜城を囲んだ。

この時の長浜城主は柴田勝豊であった。

勝豊は、養父の援兵が積雪のため長浜に来れないことを見越し、秀吉に降伏した。

これに対して、秀吉は寛大な処置をとり、依然として長浜城主たることを許したのは、勝豊が

病弱なせいでもあったらしい。

秀吉は、翌天正11年の3月、勝豊の病気が重くなると、洛中の名医・曲直瀬道三を長浜につ

かわし、勝豊を京都に迎え、治療させている。

講和の条件としては、勝豊およびその老臣の人質を徴する程度であったし、勝豊の老臣・木下

半右衛門や徳永寿昌などは、その後、秀吉に仕えて優遇されている。

一説によれば、勝豊は柴田勝家の養子ですが、勝家の下では、勝家の甥・佐久間盛政が権勢を

持っていたので、勝豊は心中おだやかでないものがあり、そのため秀吉に味方するようになっ

たといわれます。



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賤ヶ岳の戦い その14

『秀吉、近江に出兵』

講和の使者として、前田利家・不和勝光・金森長近らが、上洛してきた。

秀吉は11月3日、彼らと山崎の宝寺城で会見し、勝家の申し出を快諾し、

「将来ともに仲良くしたい」

と回答したが、誓詞を書くことは避けている。

金沢城の前田利家
ma.前田利家 002

使者らは大いに優待され、4日に京都をたち、越前に帰国したが、彼らはこの時を機会に、秀吉

に懐柔されたらしい。

秀吉の買収戦略の名手であった。

前田利家は、このとき秀吉から、吉光の脇差と虚堂の墨蹟を貰っている。

しかし、秀吉は2日後の11月5日(天正10年)には、近江に向かって兵を動かした。

大和の筒井順慶も、秀吉の命令で近江に出兵している。

秀吉自身は、10日に京都で丹波長秀と会見し、また12日に丹波からのぼった細川幽斎と会っ

ている。

12月4日、また京都で長秀と軍事を相談し、12月9日に兵を率いて近江に入っている。



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賤ヶ岳の戦い その13

『光秀の講和戦略』

一方の柴田方も、織田信孝と勝家と滝川一益とが協力して、対羽柴の戦備を整えた。

勝家は、10月6日付けで堀秀政に書状をおくり、秀吉が清洲の誓約に違背したことを責め、ま

た山崎に築城したことを非難し、そして信孝も10月18日付けで秀吉に書を与え、秀吉と勝家

が和睦することを勧告し、正義が信孝の方にあることを主張し、秀吉の出鼻をくじこうと試みて

いる。

吉川元春(1530-1586年)
ki.吉川元春

信孝は、なお11月1日付けで、毛利一族・吉川元春に書を送り、自己の立場を弁解し、秀吉の

態度を非難し、毛利がせめて中立的態度を持続することを要求している。

しかし、勝家は、その領国が越前であるし、その組下にある佐久間・前田らも加賀・能登などの

北国に居住し、冬季の間は積雪が深く、出兵に困難をきたしたため、信孝や一益と共同作戦を行

うなどが不可能であった。

そこで勝家は、信孝や一益と相談し、勝家の養子である近江長浜城主・柴田勝豊に命じて、秀吉

との和平を謀らせている。

つまり講和戦略を用いたのです。



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賤ヶ岳の戦い その12

『信長の葬儀』

当日の葬礼に際し、棺前には池田輝政、棺後には羽柴御次丸が従い、位牌は信長の八男・長丸

(織田信好)が持ち、秀吉は、その次に太刀を持って従い、ひつぎは美麗を尽くし、木造をこ

れに納め荼毘にしたという。

総見院
so.総見院 001

秀吉は、翌16日に信長のために大徳寺内に総見院を建立することとし、銀子千枚・銭1万貫・

米50百石、その他を寄進し、信長の実質者は自分をおいて他に人なきことを世に示している。

一方、このころ勝家に対する秀吉の戦備は、ほとんど完了していた。

秀吉は10月21日付けで、姫路の守将に書状を送っているが、それによると

「畿内においては、高山重友・中川清秀・筒井順慶・三好康長などの諸将から人質を納め、ま

た池田恒興とも親睦を重ね、近江においては丹波長秀もまた、秀吉の命令のまま動くことに

なっていし、長谷川秀一・山崎片家・池田孫三郎・山岡景隆らに対しては、それぞれその居城

の守備を堅固にすべきことを命じた」

と、報告している。

また、翌22日付けで本願寺顕如、教如父子に与えた書状にも、信孝の不法について述べ

「これに対抗して秀吉方は、信長公の御葬礼を行い、五畿内諸国を固めた」

と説明している。



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賤ヶ岳の戦い その11

『籠絡の甘言』

さらに秀吉は、播磨に出陣して以来の自分の戦功を自賛し、

「こんど、亡君の仇を報ずることができたのは、まったく秀吉自身の覚悟によるものだし、また

信孝様が美濃一国を所領することになったのも、この自分の尽力によるものである。また、近江

の長浜を柴田勝家に与え、坂本を丹波長秀に譲ったのも、自分の正義にもとづくものだ」

と、恩に着せている。

長浜城の秀吉
to.豊臣秀吉・三献の茶

それから、「信長公の御葬礼を大徳寺で施行したのも、だた、亡君の恩義に報いる誠心からであ

って、他意はない。このうえは、信孝様が立派に家督を相続され、行く末、信長公の御仏事が日

本の津々浦々で行われるようになったならば、この秀吉は、追腹十文字にかき切って果てたとて、

決して恨みとも思わぬ」

などと述べている。

しかし、秀吉は、亡君のために追腹を十文字にかき切るほどセンチメンタリストでは決してなく、

これは三男・信孝の歓心を買い、これをまんまと籠絡するための甘言に過ぎなかったのです。



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賤ヶ岳の戦い その10

『勝家批判』

信長の葬礼の直後に、秀吉は信孝の家老・斎藤利堯、および岡本良勝に長文の披露書を送り、

柴田勝家が清洲会議の誓約に背き、争いごとをしていると責め

織田信孝(1558-1583年)
od.織田信孝 02

「亡君信長公の御在世中には、信孝様が、だれに対するよりも、一番、秀吉に好意を寄せられ

ていられたのに、今はこれに反し、他の者に肩を貸している」

と不満を訴え、信雄と信孝の家督相続争いのことを問題とし、

「三法師様を織田家の跡目と定め、その保護を信孝様に委託したのに、信孝様は、清洲会議の

ときの誓約にそむき、未だに三法師様を安土の城に移さないが、これはどうしたことか」

と非難し、

「御次丸は信長公の四男であるが、いったん、わが養子としたからには、絶対に織田家の後継

ぎにはしない」

などと、広言をはいている。



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robin 20181123



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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