お世話になりました
『今年もお世話になりました』
2018年も今日で終わります。
今年も拙いブログに遊びに来て戴き、本当にありがとうございました。
わが家のうさぎのtigger、今年迎えたトイプーのrobinも、元気に2018年を駆け抜けてくれました。

10月には2歳を迎え、日常会話はほぼ理解しているようです。

2月に生後3ヵ月で、わが家のやって来た頃のrobinです。

しつけ教室にも通い、やっと甘噛みも少なくなってきました。
こちらは、人間の言葉を100%理解し、冗談は言えない状況になってきました。

毎日、たくさんの方々に訪問をいただき、本当にありがとうございました。
くる年も、皆様にとって良き年となられますよう、お祈り申し上げます。
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賤ヶ岳の戦い その39
『佐久間盛政の方策』
行市山で柴田軍前線の指揮にあたっていた勝家の甥・佐久間盛政は、秀吉が麾下の将兵を率い
て美濃に攻め入ったことを知ると同時に、堂木山から投降してきた山路将監から、賤ケ岳と大
岩山の防備工事が十分でないとの報告を受けた。
佐久間盛政(1554-1584年)

そこで盛政は、大岩山一帯の羽柴方の砦の急襲を決意し、4月19日、弟の佐久間安政を連れ
て、内中尾山の本陣に柴田勝家を訪ねて、その方策を述べて賛意を求めた。
勝家は、はじめこれを危ぶみ同意しなかったが、ついに許可し、勝家自身は左禰山の堀秀政の
動向に備え、また、別所山にいた前田利家父子を茂山に移し、神明山の木村隼人、堂木山の木
下一元などに備えさせることにしたという。
勝家は、このとき盛政に対して
「くれぐれも、敵陣を撃破した後は、ただちに撤兵するように」
と戒めたという。
勝家としては、これによって敵を粉砕するのが目的でなく、秀吉を再び江北に呼び戻し、奔命
に疲れさせ、敵の士気をくじくにあったのです。
決戦は他日にまわし、それまでに敵を十分に疲労させ、戦意をなくさせるのが目的だったので
す。
だから敵の砦を撃砕したならば、ただちに撤退しなければならぬ。
もし敵の陣営に深入りした盛政が、撤退せずにそのまま強大なる敵勢の反撃を受けた場合、敵
に内応したり脱走したりする者がないとも限らない。
だから、この点、くれぐれも盛政に注意を与えたのだという。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
行市山で柴田軍前線の指揮にあたっていた勝家の甥・佐久間盛政は、秀吉が麾下の将兵を率い
て美濃に攻め入ったことを知ると同時に、堂木山から投降してきた山路将監から、賤ケ岳と大
岩山の防備工事が十分でないとの報告を受けた。
佐久間盛政(1554-1584年)

そこで盛政は、大岩山一帯の羽柴方の砦の急襲を決意し、4月19日、弟の佐久間安政を連れ
て、内中尾山の本陣に柴田勝家を訪ねて、その方策を述べて賛意を求めた。
勝家は、はじめこれを危ぶみ同意しなかったが、ついに許可し、勝家自身は左禰山の堀秀政の
動向に備え、また、別所山にいた前田利家父子を茂山に移し、神明山の木村隼人、堂木山の木
下一元などに備えさせることにしたという。
勝家は、このとき盛政に対して
「くれぐれも、敵陣を撃破した後は、ただちに撤兵するように」
と戒めたという。
勝家としては、これによって敵を粉砕するのが目的でなく、秀吉を再び江北に呼び戻し、奔命
に疲れさせ、敵の士気をくじくにあったのです。
決戦は他日にまわし、それまでに敵を十分に疲労させ、戦意をなくさせるのが目的だったので
す。
だから敵の砦を撃砕したならば、ただちに撤退しなければならぬ。
もし敵の陣営に深入りした盛政が、撤退せずにそのまま強大なる敵勢の反撃を受けた場合、敵
に内応したり脱走したりする者がないとも限らない。
だから、この点、くれぐれも盛政に注意を与えたのだという。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
賤ヶ岳の戦い その38
『秀吉、大垣城へ』
北伊勢方面では、滝川一益が秀吉の虚に乗じて、織田信雄の属城となっていた美濃の今尾を
攻めたので、美濃方面でも織田信孝がこれに呼応して兵を出し、秀吉方に属する稲葉一鉄の
清水城と氏家直道の大垣城の城下に火を放った。
大垣城

この急報を聞いた秀吉は激高し、さきに信孝が提出した人質の老母と息女を安土で殺害し、
信孝の違約と不信を宣伝し、4月16日、2万の軍勢を率いて大垣城に入り、岐阜城攻撃の
軍議を催した。
同日、秀吉が今尾の城主・吉村又吉郎に与えた書状では、秀吉は又吉郎の善戦を褒め、
「滝川左近(一益)を、その地に引き留めておくことができれば、秀吉みずから早速駆けつ
け、これを討ち果たしたい。そのために、別に軍勢をかくしている」
と述べている。
この秀吉の書状にそえて、近習の大谷吉継も吉村又吉郎に書信を送り、
「秀吉公は岐阜城を攻めるために、合渡まで馳せつけられたが、川が深くて渡ることができ
ず、まず大垣まで討ち入られた」
と報告している。
秀吉は、木曽川氾濫のため、数日、大垣に滞在していたらしいが、4月20日を期して岐阜城
を攻撃する命令を出していたという。
ところが、秀吉のこの計画は中止となった。
それは賤ケ岳において、柴田軍の先鋒・佐久間盛政が羽柴軍の大岩山の砦を陥れ、中川清秀が
討死したからであった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
北伊勢方面では、滝川一益が秀吉の虚に乗じて、織田信雄の属城となっていた美濃の今尾を
攻めたので、美濃方面でも織田信孝がこれに呼応して兵を出し、秀吉方に属する稲葉一鉄の
清水城と氏家直道の大垣城の城下に火を放った。
大垣城

この急報を聞いた秀吉は激高し、さきに信孝が提出した人質の老母と息女を安土で殺害し、
信孝の違約と不信を宣伝し、4月16日、2万の軍勢を率いて大垣城に入り、岐阜城攻撃の
軍議を催した。
同日、秀吉が今尾の城主・吉村又吉郎に与えた書状では、秀吉は又吉郎の善戦を褒め、
「滝川左近(一益)を、その地に引き留めておくことができれば、秀吉みずから早速駆けつ
け、これを討ち果たしたい。そのために、別に軍勢をかくしている」
と述べている。
この秀吉の書状にそえて、近習の大谷吉継も吉村又吉郎に書信を送り、
「秀吉公は岐阜城を攻めるために、合渡まで馳せつけられたが、川が深くて渡ることができ
ず、まず大垣まで討ち入られた」
と報告している。
秀吉は、木曽川氾濫のため、数日、大垣に滞在していたらしいが、4月20日を期して岐阜城
を攻撃する命令を出していたという。
ところが、秀吉のこの計画は中止となった。
それは賤ケ岳において、柴田軍の先鋒・佐久間盛政が羽柴軍の大岩山の砦を陥れ、中川清秀が
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賤ヶ岳の戦い その37
『勝家の思惑』
4月5日の朝、勝家は兵を進め、勝家自身も金の馬標をたて、堀秀政が陣する左禰山の砦に迫
ってきた。
柴田勝家(1522-1583年)

秀政は、これを迎え撃ち両軍が激しく鉄砲の撃ち合いをしたが、午後になって勝家は柳ヶ瀬方
面に退却した。
この戦いで、勝家方の死傷者が数百であったと、秀政は報告している。
勝家のこの日の行動は、なにが目的であったか判明しないが、秀吉方の陣地の入れ替えなどの
混乱に乗じたのかもしれないし、あるいは勝家に内通している長浜衆に対する秀吉方の注意を、
他にそらすための偽装的行動であったのかもしれません。
ともかく勝家は、秀吉の兵力を賤ケ岳方面に牽制し、織田信孝と滝川一益の行動を活発にさせ
ようとし、このような積極的行動に出る必要があったのでしょう。
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4月5日の朝、勝家は兵を進め、勝家自身も金の馬標をたて、堀秀政が陣する左禰山の砦に迫
ってきた。
柴田勝家(1522-1583年)

秀政は、これを迎え撃ち両軍が激しく鉄砲の撃ち合いをしたが、午後になって勝家は柳ヶ瀬方
面に退却した。
この戦いで、勝家方の死傷者が数百であったと、秀政は報告している。
勝家のこの日の行動は、なにが目的であったか判明しないが、秀吉方の陣地の入れ替えなどの
混乱に乗じたのかもしれないし、あるいは勝家に内通している長浜衆に対する秀吉方の注意を、
他にそらすための偽装的行動であったのかもしれません。
ともかく勝家は、秀吉の兵力を賤ケ岳方面に牽制し、織田信孝と滝川一益の行動を活発にさせ
ようとし、このような積極的行動に出る必要があったのでしょう。
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賤ヶ岳の戦い その36
『長浜衆離反?』
秀吉と勝家は、江北の木ノ本と柳ヶ瀬にそれぞれ本陣を構え、備えを固くして相対峙していた
が、秀吉は情勢が急変しないと判断し、羽柴長秀を彼に代わって木ノ本の本陣に置き、秀吉自
身は、3月28日に長浜城に入って休息している。
ついで筒井順慶などに帰国を命じ、順慶は4月4日に大和に帰った。
長浜城

そのころ、柴田勝豊の部下・山路将監・大金藤八郎らが、勝家に反応するという風説が流れた
ので、秀吉は堀尾吉晴・木村隼人祐・木下昌利などを神明山の砦に入れ、神明山にいた山路大
金を、その外構えの堂木山の砦に移し、木下一元と同陣させた。
4月4日になって、柴田勢が明神山に対して攻撃を開始してきた。
これはおそらく勝家が、反応の約束を交わしていた山路と大金が、まだこの砦にいると思った
からなのでしょう。
柴田勢はまもなく引き揚げている。
この日の夜、堀秀政は木下昌利を堂木山の砦に入れて、木下一元・山路将監・大金藤八郎など
と同陣させている。
これは秀吉から、長浜衆(柴田勝豊の部下)の態度に不審な点があることを再三いってきたか
らであるという。
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秀吉と勝家は、江北の木ノ本と柳ヶ瀬にそれぞれ本陣を構え、備えを固くして相対峙していた
が、秀吉は情勢が急変しないと判断し、羽柴長秀を彼に代わって木ノ本の本陣に置き、秀吉自
身は、3月28日に長浜城に入って休息している。
ついで筒井順慶などに帰国を命じ、順慶は4月4日に大和に帰った。
長浜城

そのころ、柴田勝豊の部下・山路将監・大金藤八郎らが、勝家に反応するという風説が流れた
ので、秀吉は堀尾吉晴・木村隼人祐・木下昌利などを神明山の砦に入れ、神明山にいた山路大
金を、その外構えの堂木山の砦に移し、木下一元と同陣させた。
4月4日になって、柴田勢が明神山に対して攻撃を開始してきた。
これはおそらく勝家が、反応の約束を交わしていた山路と大金が、まだこの砦にいると思った
からなのでしょう。
柴田勢はまもなく引き揚げている。
この日の夜、堀秀政は木下昌利を堂木山の砦に入れて、木下一元・山路将監・大金藤八郎など
と同陣させている。
これは秀吉から、長浜衆(柴田勝豊の部下)の態度に不審な点があることを再三いってきたか
らであるという。
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賤ヶ岳の戦い その35
『秀吉本陣は木ノ本』
第二線としては、街道の西側、余呉湖東方の大岩山に中川清秀を置き、その北方約700mの
岩崎山に高山重友を置いて、北国街道の交通を確保させた。
賤ケ岳かた見る余呉湖

また、大岩山の後方、南西約1kmの賤ケ岳には、余呉湖を前にして、丹羽長秀の部将・桑山
重晴を置き、これに羽柴秀長の部将・羽田長門守らを加え、左背からの敵の迂回に備えさせた。
さらに街道の東側には、木ノ本部落の北方約1.5kmの田上山に羽柴秀長を陣させ、秀吉自
身は、木ノ本に本陣を構え、蜂須賀・神子田・生駒・小寺・赤松・明石・一柳など、部将が率
いる大部隊を控えさせ、いざという時の突撃に備えていた。
別に琵琶湖の西北端、敦賀街道の要衝の海津方面には丹羽長秀を置いて、警護にあたらせると
ともに、細川忠興を帰国させ、丹後方面から水軍をもって、越前の沿岸に放火させ、勝家の後
方かく乱を策した。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
第二線としては、街道の西側、余呉湖東方の大岩山に中川清秀を置き、その北方約700mの
岩崎山に高山重友を置いて、北国街道の交通を確保させた。
賤ケ岳かた見る余呉湖

また、大岩山の後方、南西約1kmの賤ケ岳には、余呉湖を前にして、丹羽長秀の部将・桑山
重晴を置き、これに羽柴秀長の部将・羽田長門守らを加え、左背からの敵の迂回に備えさせた。
さらに街道の東側には、木ノ本部落の北方約1.5kmの田上山に羽柴秀長を陣させ、秀吉自
身は、木ノ本に本陣を構え、蜂須賀・神子田・生駒・小寺・赤松・明石・一柳など、部将が率
いる大部隊を控えさせ、いざという時の突撃に備えていた。
別に琵琶湖の西北端、敦賀街道の要衝の海津方面には丹羽長秀を置いて、警護にあたらせると
ともに、細川忠興を帰国させ、丹後方面から水軍をもって、越前の沿岸に放火させ、勝家の後
方かく乱を策した。
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