北陸平定 その6
『本能寺の変で本国は大丈夫か』
本能寺の変に接した織田軍の諸将は攻囲軍を解いて、それぞれ本国に急行した。
信長という偉大な統率者を突如として失った彼らは、今後どう対処したらいいか善後策を講じ
る必要があるのです。
織田信長(1534-1582年)

そしてなによりも先に、彼らの領地を守らなければならないのです。
それも自分たち自身の力で。
柴田勝家は北陸方面の総大将で、前田利家以下佐々などはその部将であるから、まったく彼ら
がバラバラに孤立した訳けではなかったのです。
しかし、信長亡き後も同じ団結が保たれるのか、外部からの攻撃に対して従来と同じように共
同防衛あるいは態勢をとることができるかどうか、だれも自信はなかったでしょう。
またその保証もなかったのです。
弱肉強食、骨肉相食むかつての乱世が再び展開されるようになるかも知れないという恐れが、
誰もが色濃く思ったに相違ありません。
そうあってはならない。
また、そうなった時には弱者として滅ばされてはならない。
そのためには、まず本国の守りを固め、富国強兵を図らなければならなかったのです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
本能寺の変に接した織田軍の諸将は攻囲軍を解いて、それぞれ本国に急行した。
信長という偉大な統率者を突如として失った彼らは、今後どう対処したらいいか善後策を講じ
る必要があるのです。
織田信長(1534-1582年)

そしてなによりも先に、彼らの領地を守らなければならないのです。
それも自分たち自身の力で。
柴田勝家は北陸方面の総大将で、前田利家以下佐々などはその部将であるから、まったく彼ら
がバラバラに孤立した訳けではなかったのです。
しかし、信長亡き後も同じ団結が保たれるのか、外部からの攻撃に対して従来と同じように共
同防衛あるいは態勢をとることができるかどうか、だれも自信はなかったでしょう。
またその保証もなかったのです。
弱肉強食、骨肉相食むかつての乱世が再び展開されるようになるかも知れないという恐れが、
誰もが色濃く思ったに相違ありません。
そうあってはならない。
また、そうなった時には弱者として滅ばされてはならない。
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北陸平定 その5
『能登・越中の状況』
こ能登は応永以来(15世紀初頭)の守護であった名門畠山氏が、天正5年(1577年)上
杉謙信に滅ぼされてからは、謙信に服した温井・三宅氏らと信長の庇護を求めた長氏らの旧重
臣同士の対立が激しかった。
春日山城の上杉謙信

9年8月に前田利家が信長の命によって、能登一国の主として、越前府中から七尾に入ったも
のの、いつ上杉軍の攻撃を受けるかわからない危険な状態にあった。
また越中は、天正8年に佐々成政が富山城主として赴いたものの、国内にはまだ有力な一向一
揆の中心勢力である瑞泉寺や上杉方の土豪勢力が活躍していて、まさに織田方と越後勢との勢
力争奪の戦闘場であった。
本能寺の変があった天正10年も、残雪の残るころから両軍の兵が動き出し、一時は上杉軍の
ために富山城まで奪われた。
佐々盛政をはじめ柴田勝家・前田利家は驚いて急遽兵力を増強して富山城から上杉の部将を追
い、これを魚津・松倉の両城に追い詰めて猛攻撃を加えた。
これを救おうとして謙信の没後を継いだ上杉景勝が、みずから越後・春日山城を発して越中に
侵入した。
しかし、織田方の諸将が魚津城を落としたのが、本能寺の変の当日、6月2日のことであった。
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こ能登は応永以来(15世紀初頭)の守護であった名門畠山氏が、天正5年(1577年)上
杉謙信に滅ぼされてからは、謙信に服した温井・三宅氏らと信長の庇護を求めた長氏らの旧重
臣同士の対立が激しかった。
春日山城の上杉謙信

9年8月に前田利家が信長の命によって、能登一国の主として、越前府中から七尾に入ったも
のの、いつ上杉軍の攻撃を受けるかわからない危険な状態にあった。
また越中は、天正8年に佐々成政が富山城主として赴いたものの、国内にはまだ有力な一向一
揆の中心勢力である瑞泉寺や上杉方の土豪勢力が活躍していて、まさに織田方と越後勢との勢
力争奪の戦闘場であった。
本能寺の変があった天正10年も、残雪の残るころから両軍の兵が動き出し、一時は上杉軍の
ために富山城まで奪われた。
佐々盛政をはじめ柴田勝家・前田利家は驚いて急遽兵力を増強して富山城から上杉の部将を追
い、これを魚津・松倉の両城に追い詰めて猛攻撃を加えた。
これを救おうとして謙信の没後を継いだ上杉景勝が、みずから越後・春日山城を発して越中に
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北陸平定 その4
『北陸は勝家の指揮下にあった』
佐々成政が越中に入ったのは天正7年(1579年)、織田信長が越前の朝倉氏を滅ぼし、つづ
いて長享2年(1488年)以来100年に渡る本願寺王国を誇っていた加賀に一向一揆を粉砕
して、その兵馬を越中にまで進めている時であった。
柴田勝家(1522ー1582年)

北陸方面の総大将として、信長は清洲時代以来の織田家の宿老である柴田勝家を配して、越前北
ノ庄城に封じた。
そして勝家の指揮下に入る武将として越前府中(武雄市)の城主に前田利長を、加賀大聖寺の城
主に拝郷家嘉を、小松の城主に村上頼勝、松任の城主に徳山則秀、尾山(金沢市)城主に佐久間
盛政、能登の七尾城主に前田利家、越中には富山城主に佐々盛政を守将として、配置して万全の
策を講じていた。
この中で越前は、朝倉氏が信長に滅亡させられたのは10年前の天正元年(1573年)であり、
残党整理に若干の日時は要したが、総大将・柴田勝家がみずから鎮圧していただけに比較的平穏
であった。
しかし、越前から北は、加賀は天正8年に一向一揆が潰滅し、本拠地尾山城が佐久間盛政に占拠
されたとはいうものの、まだ一揆の残党は僻地に潜んでいる有様であった。
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して、その兵馬を越中にまで進めている時であった。
柴田勝家(1522ー1582年)

北陸方面の総大将として、信長は清洲時代以来の織田家の宿老である柴田勝家を配して、越前北
ノ庄城に封じた。
そして勝家の指揮下に入る武将として越前府中(武雄市)の城主に前田利長を、加賀大聖寺の城
主に拝郷家嘉を、小松の城主に村上頼勝、松任の城主に徳山則秀、尾山(金沢市)城主に佐久間
盛政、能登の七尾城主に前田利家、越中には富山城主に佐々盛政を守将として、配置して万全の
策を講じていた。
この中で越前は、朝倉氏が信長に滅亡させられたのは10年前の天正元年(1573年)であり、
残党整理に若干の日時は要したが、総大将・柴田勝家がみずから鎮圧していただけに比較的平穏
であった。
しかし、越前から北は、加賀は天正8年に一向一揆が潰滅し、本拠地尾山城が佐久間盛政に占拠
されたとはいうものの、まだ一揆の残党は僻地に潜んでいる有様であった。
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北陸平定 その3
『北ノ庄城の落城』
24日午前4時、夜明けともに秀吉は本丸の攻撃を開始した。
本丸の石垣は高く、その上に九重の天守がそびえ、城は容易に落ちなかったが、午後5時頃、
もはやこれまでと思い定めた勝家は、お市をはじめ一族の子女を次々と刺殺したのち、侍臣の
中村文荷斎の介錯で切腹した。
北ノ庄城天守(模型)

そのあと、文荷斎はあらかじめ用意してあった火薬に火を投じ、勝家の死骸は天守もろとも猛
火の中に消えた。
ときに勝家62歳、お市は37歳だったという。
賤ケ岳の合戦後、3日目ですでに越前を手中にした秀吉は、息もつかずに25日、加賀に馬を
進めた。
大聖寺はすでに城主・拝郷家嘉が討死しているので、小松付近に陣を張った。
小松城主・村上頼勝は無条件で城を明け渡す。
またたく間に松任に進出したが、尾山城に留守を守っていた佐久間盛政の部将も、進んで降を
乞うてきたという。
加賀に入ってから3日間と要しないうちに、一兵も損ずることもなく秀吉はこれを支配下にいれ
ることができたのです。
能登は、領主・利家がすでに秀吉に降っているのであるから、改めて征服する必要はなかった。
秀吉は、これで悠々と尾山城に入ることができたのです。
残るは、越中の佐々成政のみであった。
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もはやこれまでと思い定めた勝家は、お市をはじめ一族の子女を次々と刺殺したのち、侍臣の
中村文荷斎の介錯で切腹した。
北ノ庄城天守(模型)

そのあと、文荷斎はあらかじめ用意してあった火薬に火を投じ、勝家の死骸は天守もろとも猛
火の中に消えた。
ときに勝家62歳、お市は37歳だったという。
賤ケ岳の合戦後、3日目ですでに越前を手中にした秀吉は、息もつかずに25日、加賀に馬を
進めた。
大聖寺はすでに城主・拝郷家嘉が討死しているので、小松付近に陣を張った。
小松城主・村上頼勝は無条件で城を明け渡す。
またたく間に松任に進出したが、尾山城に留守を守っていた佐久間盛政の部将も、進んで降を
乞うてきたという。
加賀に入ってから3日間と要しないうちに、一兵も損ずることもなく秀吉はこれを支配下にいれ
ることができたのです。
能登は、領主・利家がすでに秀吉に降っているのであるから、改めて征服する必要はなかった。
秀吉は、これで悠々と尾山城に入ることができたのです。
残るは、越中の佐々成政のみであった。
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北陸平定 その2
『お市の方』
4月22日、前田利家・利長父子を自己の陣営に加えた秀吉は、府中に来会していた加賀松任
城主・徳山則秀などの降を容れ、翌日から柴田勝家が籠る北ノ庄に総攻撃を加えた。
北ノ庄城址のお市の方像(北ノ庄城登城記は「こちら」です。)

夜に入り、城内では勝家と妻子および家臣70余人が天守閣に集まり、落城を前にして名残り
の酒宴をひらいていた。
勝家の傍には、妻のお市の方がいる。
お市は、勝家や秀吉の旧主・織田信長の妹で、戦国随一の美貌といたわれた女性だったという。
さきに近江の浅井長政のもとに嫁いで、小谷落城のさい3人の娘とともに夫と死別し、いま勝
家のもとに嫁いで1年もたたないうちに、再び落城の憂き目をみることになったのです。
勝家はお市に、浅井長政の遺児である3人の娘を連れて城から出るように勧めたが、お市は夫
とともに死ぬことを望んで、城から出ることを最後まで拒み続けたという。
結局、3人の娘だけが、城から秀吉のもとに送り出された。
その長女が17歳のお茶々、のちの秀吉の寵愛を一身に受けた淀君である。
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北ノ庄城址のお市の方像(北ノ庄城登城記は「こちら」です。)

夜に入り、城内では勝家と妻子および家臣70余人が天守閣に集まり、落城を前にして名残り
の酒宴をひらいていた。
勝家の傍には、妻のお市の方がいる。
お市は、勝家や秀吉の旧主・織田信長の妹で、戦国随一の美貌といたわれた女性だったという。
さきに近江の浅井長政のもとに嫁いで、小谷落城のさい3人の娘とともに夫と死別し、いま勝
家のもとに嫁いで1年もたたないうちに、再び落城の憂き目をみることになったのです。
勝家はお市に、浅井長政の遺児である3人の娘を連れて城から出るように勧めたが、お市は夫
とともに死ぬことを望んで、城から出ることを最後まで拒み続けたという。
結局、3人の娘だけが、城から秀吉のもとに送り出された。
その長女が17歳のお茶々、のちの秀吉の寵愛を一身に受けた淀君である。
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北陸平定 その1
『前田利家との友情』
天正11年(1583年)4月21日、賤ケ岳で柴田勝家を破った羽柴秀吉は、敗走する柴田
勢を追って、翌22日には早くもその雄姿を前田利家の拠る府中城外に現わした。
前田利家(1539-1999年)

後には加賀百万石の威勢を誇った前田家ではあるが、当時はまだ小大名のひとつにしかすぎない。
秀吉にはこれを踏み潰すぐらいなことは簡単なことであった。
それだけに前田家にとっては最大の危機であった。
とともに、越中以南の旧織田軍の諸将は、賤ケ岳の戦いにはすべて勝家に属していた。
だから、秀吉が最初にぶつかった敗軍の将にはどのような態度を示すかを、不安と畏怖の思い
を込めてじっと見つめていたに違いなかったでしょう。
そして彼らはみな、一年前までは秀吉と同僚であったのです。
この辺の機微に気がつかない秀吉ではない。
軍勢を遠くに控えさせたままで、単騎で城門に近づいた秀吉は、あたかも狩りの途中に旧友の
家に立ち寄ったかのような振る舞いで城内に入り、利家父子と歓談し湯漬けを所望するなど、
少しも敵のは敗将に対する気配はなかったという。
秀吉と利家は、木下藤吉郎・前田犬千代の時代から仲の良い友人であったのです。
加えて利家夫人のお松の方は女丈夫であり、秀吉とその妻のおねの方とも親しかった。
この時、お松の方は秀吉と利家両者の間を大いに斡旋したという。
前田家の危機は、両者の友情もさることながら、お松の方の至情で救われたといっても過言で
はなかったのでしょう。
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tiggerとrobin一緒に公園で遊んできました。
無視中のtiggerです。

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天正11年(1583年)4月21日、賤ケ岳で柴田勝家を破った羽柴秀吉は、敗走する柴田
勢を追って、翌22日には早くもその雄姿を前田利家の拠る府中城外に現わした。
前田利家(1539-1999年)

後には加賀百万石の威勢を誇った前田家ではあるが、当時はまだ小大名のひとつにしかすぎない。
秀吉にはこれを踏み潰すぐらいなことは簡単なことであった。
それだけに前田家にとっては最大の危機であった。
とともに、越中以南の旧織田軍の諸将は、賤ケ岳の戦いにはすべて勝家に属していた。
だから、秀吉が最初にぶつかった敗軍の将にはどのような態度を示すかを、不安と畏怖の思い
を込めてじっと見つめていたに違いなかったでしょう。
そして彼らはみな、一年前までは秀吉と同僚であったのです。
この辺の機微に気がつかない秀吉ではない。
軍勢を遠くに控えさせたままで、単騎で城門に近づいた秀吉は、あたかも狩りの途中に旧友の
家に立ち寄ったかのような振る舞いで城内に入り、利家父子と歓談し湯漬けを所望するなど、
少しも敵のは敗将に対する気配はなかったという。
秀吉と利家は、木下藤吉郎・前田犬千代の時代から仲の良い友人であったのです。
加えて利家夫人のお松の方は女丈夫であり、秀吉とその妻のおねの方とも親しかった。
この時、お松の方は秀吉と利家両者の間を大いに斡旋したという。
前田家の危機は、両者の友情もさることながら、お松の方の至情で救われたといっても過言で
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
百里基地 その5
『F-15(イーグル) その2』
7機のイーグルを見送った後は、イーグルの着陸ラッシュです。
イーグルの後ろに、また、イーグルが・・・

このイーグルは、戦闘による撃墜の記録はないそうですね。(by Wikipedia)

これは複座席ですから、練習用イーグルでしょうか。

2座席ありますね。


迫力は、やはり離陸ですね。

おっと! ブレーキ板(?)を格納して離陸です。
タッチアンドゴーの練習です。

ここから、迫力あるイーグルに変身しています。


風圧で耳が飛んでいきそうです。 違うでしょう!!

12時30分から15時まで撮影しましたが、常に離発着をしていましたので、退屈することなく
楽しむことができました。
次回は、良いレンズを携えて来たいものです。
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イーグルの後ろに、また、イーグルが・・・

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2座席ありますね。


迫力は、やはり離陸ですね。

おっと! ブレーキ板(?)を格納して離陸です。
タッチアンドゴーの練習です。

ここから、迫力あるイーグルに変身しています。


風圧で耳が飛んでいきそうです。 違うでしょう!!

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楽しむことができました。
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