小牧・長久手の戦い その8
『先見の目がない北条氏政』
このころ相模の北条氏政は、すでに家康と講和を結び姻戚関係にあったから、家康は氏政に対
して援助を請うた。
ところが氏政は、関東方面に多くの兵を出しているので、もはや余裕がないという理由で、体
裁よく断ってきた。
北条氏政(1538-1590年)

そこで家康も北条氏を疑い、常陸の佐竹義重と結び氏政を牽制すると同時に、越後の上杉景勝
にもあたらせようとした。
しかし、秀吉もまた佐竹義重と結び、景勝とともに、家康にあたらせようとしていたため、重
義は有利な立場に立ったが、これがかえって後のわざわいになったようです。
北条氏政が姻戚関係にありながら、家康の頼みを拒否したことは、家康としても意外だったで
しょう。
氏政としては、多少むりをしても数千の援兵くらいは出しておくべきだったのでしょう。
しかし、武田信玄でさえ援兵をおくったにもかかわらず、上洛に失敗したのだから、この際、
無駄は避けるべきと氏政は考えたのでしょうか。
家康に信玄以上の実力があることを見抜けなかったが、氏政の不明であったのです。
その後、6年経って、秀吉が小田原遠征を敢行したとき、氏政はせつに家康に援助を求めたが、
家康は、にべもなくこれを拒否している。
あきらかに小牧の戦いの時に、氏政が家康の依頼を拒絶したことに対する報復であったのでし
ょう。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
このころ相模の北条氏政は、すでに家康と講和を結び姻戚関係にあったから、家康は氏政に対
して援助を請うた。
ところが氏政は、関東方面に多くの兵を出しているので、もはや余裕がないという理由で、体
裁よく断ってきた。
北条氏政(1538-1590年)

そこで家康も北条氏を疑い、常陸の佐竹義重と結び氏政を牽制すると同時に、越後の上杉景勝
にもあたらせようとした。
しかし、秀吉もまた佐竹義重と結び、景勝とともに、家康にあたらせようとしていたため、重
義は有利な立場に立ったが、これがかえって後のわざわいになったようです。
北条氏政が姻戚関係にありながら、家康の頼みを拒否したことは、家康としても意外だったで
しょう。
氏政としては、多少むりをしても数千の援兵くらいは出しておくべきだったのでしょう。
しかし、武田信玄でさえ援兵をおくったにもかかわらず、上洛に失敗したのだから、この際、
無駄は避けるべきと氏政は考えたのでしょうか。
家康に信玄以上の実力があることを見抜けなかったが、氏政の不明であったのです。
その後、6年経って、秀吉が小田原遠征を敢行したとき、氏政はせつに家康に援助を求めたが、
家康は、にべもなくこれを拒否している。
あきらかに小牧の戦いの時に、氏政が家康の依頼を拒絶したことに対する報復であったのでし
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小牧・長久手の戦い その7
『家康の大包囲作戦』
家康は、大義名分のうえから、信長の死後における秀吉の非業を列挙して、これを責め、北畠
(織田)信雄と家康の行動が、天人ともに憎むところの凶徒を討つことにあることを宣伝し、
諸大名の共感を誘い、秀吉に精神的打撃を与えると同時に、越中の佐々成政を誘って、秀吉か
たの領国となっている加賀・越前を衝かせ、また、四国の長宗我部元親に依頼して、淡路島か
ら進んで、秀吉がたの本拠・大坂を討たせようとした。
徳川家康(1543-1616年)

さらに、紀州根来・雑賀一揆の棟梁である寒川行兼に命じて、和泉・河内方面から大坂を衝か
せようと画策した。
それから、当時、加賀における本願寺の旧領が、秀吉に味方した前田利家のために失われ、ま
た、大坂が秀吉の占有に帰している事実を指摘し、
「もし、本願寺門徒が家康と同盟するときには、家康の力で本願寺領であった加賀国と大坂を
挽回してやろう」
といっている。
これは、かつて武田信玄が織田信長に対して行ったのと同様な、秀吉に対する大包囲作戦とい
ってよいのでしょう。
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家康は、大義名分のうえから、信長の死後における秀吉の非業を列挙して、これを責め、北畠
(織田)信雄と家康の行動が、天人ともに憎むところの凶徒を討つことにあることを宣伝し、
諸大名の共感を誘い、秀吉に精神的打撃を与えると同時に、越中の佐々成政を誘って、秀吉か
たの領国となっている加賀・越前を衝かせ、また、四国の長宗我部元親に依頼して、淡路島か
ら進んで、秀吉がたの本拠・大坂を討たせようとした。
徳川家康(1543-1616年)

さらに、紀州根来・雑賀一揆の棟梁である寒川行兼に命じて、和泉・河内方面から大坂を衝か
せようと画策した。
それから、当時、加賀における本願寺の旧領が、秀吉に味方した前田利家のために失われ、ま
た、大坂が秀吉の占有に帰している事実を指摘し、
「もし、本願寺門徒が家康と同盟するときには、家康の力で本願寺領であった加賀国と大坂を
挽回してやろう」
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これは、かつて武田信玄が織田信長に対して行ったのと同様な、秀吉に対する大包囲作戦とい
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小牧・長久手の戦い その6
『外交戦略』
北畠(織田)信雄と徳川家康は、秀吉と戦うにあたって、自分たちの立場を有利に導くため、秀
吉に反感を持ち、これに敵対しようと考えている者を集めよと全力をつくした。
長宗我部元親(1539-1599年)

戦闘以前の外交戦略を行ったのです。
信雄は、かねて秀吉に対して敵対行為をとっていた四国の長宗我部元親に、秀吉と断交すること
を報告し、
「東方では、家康が関東を固め、信雄の援助に乗り出すことになったし、北国においては、越前・
越中・能登の国々も、信雄の心次第である故、元親は淡路に出兵し、秀吉の背後を衝いてほしい」
と述べて、元親の助力を求めた。
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北畠(織田)信雄と徳川家康は、秀吉と戦うにあたって、自分たちの立場を有利に導くため、秀
吉に反感を持ち、これに敵対しようと考えている者を集めよと全力をつくした。
長宗我部元親(1539-1599年)

戦闘以前の外交戦略を行ったのです。
信雄は、かねて秀吉に対して敵対行為をとっていた四国の長宗我部元親に、秀吉と断交すること
を報告し、
「東方では、家康が関東を固め、信雄の援助に乗り出すことになったし、北国においては、越前・
越中・能登の国々も、信雄の心次第である故、元親は淡路に出兵し、秀吉の背後を衝いてほしい」
と述べて、元親の助力を求めた。
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小牧・長久手の戦い その5
『信雄と家康の連合』
天正12年正月、秀吉が近江にやってきたので、北畠(織田)信雄は3家老を伴って三井寺で
秀吉と会見した。
三井寺(大津市)

その席上、秀吉は
「故なくして、信雄様に疑われるのは、はなはだその意を得ない」
と訴えた。
信雄は、その場に3家老を置き去りにして、伊勢の長島に帰ってしまった。
秀吉は3家老と膝を交えて懇談し、利をもって、これを誘ったが、3家老は否といって秀吉の
家臣に殺されるのを恐れ、当座のいい逃れに、これを承諾したという。
ほどなく、このことが信雄の耳にはいり、信雄はその善後策を徳川家康にはかった。
2月になって、徳川の密使・酒井重忠が長島にやってきて、家康の意向を伝えた。
その結果、3月6日に信雄は3家老を長島に招き、これを暗殺し、秀吉と断交した。
信雄が、秀吉と断交し敵対するにあたって、家康の助力を求めたことはいうまでもないことで
しょう。
家康としても信雄を助け、秀吉と戦う意思があったからこそ、信雄にすすめて3家老を成敗し、
信雄と家康は協力して秀吉という大敵にあたろうということになった。
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天正12年正月、秀吉が近江にやってきたので、北畠(織田)信雄は3家老を伴って三井寺で
秀吉と会見した。
三井寺(大津市)

その席上、秀吉は
「故なくして、信雄様に疑われるのは、はなはだその意を得ない」
と訴えた。
信雄は、その場に3家老を置き去りにして、伊勢の長島に帰ってしまった。
秀吉は3家老と膝を交えて懇談し、利をもって、これを誘ったが、3家老は否といって秀吉の
家臣に殺されるのを恐れ、当座のいい逃れに、これを承諾したという。
ほどなく、このことが信雄の耳にはいり、信雄はその善後策を徳川家康にはかった。
2月になって、徳川の密使・酒井重忠が長島にやってきて、家康の意向を伝えた。
その結果、3月6日に信雄は3家老を長島に招き、これを暗殺し、秀吉と断交した。
信雄が、秀吉と断交し敵対するにあたって、家康の助力を求めたことはいうまでもないことで
しょう。
家康としても信雄を助け、秀吉と戦う意思があったからこそ、信雄にすすめて3家老を成敗し、
信雄と家康は協力して秀吉という大敵にあたろうということになった。
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小牧・長久手の戦い その4
『秀吉と信雄の確執』
秀吉は、表面では北畠(織田)信雄を立てていたが、内心は無気力な信雄を軽蔑し、これを利
用することを考えていたという。
しかし、もう利用価値がないとわかると、急に信雄が邪魔になってきた。
大坂城

この秀吉の気持ちが、自然と信雄にも通じ、信雄も秀吉のことを嫉視し、その行動を非難する
ようになってきた。
この両者の確執が表面に現れたのは、信孝切腹の翌年、天正12年(1584年)の正月のこ
とであったという。
秀吉は、その前年の8月から、摂津の大坂、石山本願寺の跡に、大城郭を営み、大坂城と号し
たが、ここを全国統一のための政治的拠点とし、その12月、諸国の大名に新年の祝賀のため
の上洛出仕を求めた。
これは信長の安土城参勤の前例にならったものですが、秀吉は当時三法師(信長の嫡孫)を守
って安土城にいた信雄に対しても、それを求めたという。
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用することを考えていたという。
しかし、もう利用価値がないとわかると、急に信雄が邪魔になってきた。
大坂城

この秀吉の気持ちが、自然と信雄にも通じ、信雄も秀吉のことを嫉視し、その行動を非難する
ようになってきた。
この両者の確執が表面に現れたのは、信孝切腹の翌年、天正12年(1584年)の正月のこ
とであったという。
秀吉は、その前年の8月から、摂津の大坂、石山本願寺の跡に、大城郭を営み、大坂城と号し
たが、ここを全国統一のための政治的拠点とし、その12月、諸国の大名に新年の祝賀のため
の上洛出仕を求めた。
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って安土城にいた信雄に対しても、それを求めたという。
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小牧・長久手の戦い その4
『後の祭り』
実力から見ても、人望からいっても、信長の次に天下の政権を握るのは、徳川家康であったの
でしょう。
それは自他ともに認めるところであったのかも知れません。
それなのに家康は、明智退治のチャンスを逃したばかりに、足軽からの成り上がり者の秀吉に、
天下を横取りしようとされている。
北畠(織田)信雄

家康はひそかに、秀吉と決戦を交える機会を狙っていたのでしょう。
そこへ、秀吉と北畠(織田)信雄との確執が起こった。
信雄はなんといっても、亡君・信長の次男であるから、秀吉は信雄を粗末に扱うことはできな
かった。
そこで柴田勝家滅亡の後も、秀吉は信雄に尾張・伊勢・伊賀の3ヵ国を進め、長島城に居らせ
尊敬の意を表していた。
ただ、秀吉は勝家と協力して秀吉に敵対していた神戸信孝(信長の3男)を自害されるのに、
信孝と仲が悪かった信雄を利用したことは事実で、信雄も弟を切腹させてから、はじめて秀吉
に利用されていることの気がついたという。
しかし、それは後の祭りだったのです。
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実力から見ても、人望からいっても、信長の次に天下の政権を握るのは、徳川家康であったの
でしょう。
それは自他ともに認めるところであったのかも知れません。
それなのに家康は、明智退治のチャンスを逃したばかりに、足軽からの成り上がり者の秀吉に、
天下を横取りしようとされている。
北畠(織田)信雄

家康はひそかに、秀吉と決戦を交える機会を狙っていたのでしょう。
そこへ、秀吉と北畠(織田)信雄との確執が起こった。
信雄はなんといっても、亡君・信長の次男であるから、秀吉は信雄を粗末に扱うことはできな
かった。
そこで柴田勝家滅亡の後も、秀吉は信雄に尾張・伊勢・伊賀の3ヵ国を進め、長島城に居らせ
尊敬の意を表していた。
ただ、秀吉は勝家と協力して秀吉に敵対していた神戸信孝(信長の3男)を自害されるのに、
信孝と仲が悪かった信雄を利用したことは事実で、信雄も弟を切腹させてから、はじめて秀吉
に利用されていることの気がついたという。
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小牧・長久手の戦い その3
『秀吉の反対派』
秀吉の反対派は、まだ残っていた。
織田家の残存勢力の動きは、侮りがたいものがあった。
尾張の北畠信雄(信長の次男)・越中の佐々成政・三河の徳川家康などです。
徳川家康

このうち、とくに信雄は事実上、信長の遺領の主要部分を相続した人物だから、天下を我が物に
しようとする秀吉にとって、目の上のタンコブも同然であった。
しかし、本当にけむたいのは、亡君信長の盟友である徳川家康であった。
家康は、本能寺の変が勃発したとき、運悪く堺の町で遊んでいたばかりに、明智討ちのチャンス
を逃し、秀吉に先鞭をつけられていたのです。
家康は、秀吉の功績を認め、その行動を黙殺していた。
そうして、家康自身は、武田の旧領であった甲斐と信濃を経略せんとし、相模の北条氏政と甲斐
の若神子で対陣したが、まもなく講和を結び、甲斐と信濃の大半を、その勢力圏内に収めた。
そうして、秀吉が柴田勝家を江北の賤ケ岳でやぶり、これを越前の北ノ庄城に討ち滅ぼしたとき
には、秀吉の戦勝を祝ったほどであった。
が、その直後に、秀吉が信長の3男・神戸信孝を謀殺したことを知ると、秀吉の野望を明らかに
見抜き、いつかは、秀吉と衝突するかも知れぬと、それを茫然と予測し、秀吉の行動を監視して
いたという。
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秀吉の反対派は、まだ残っていた。
織田家の残存勢力の動きは、侮りがたいものがあった。
尾張の北畠信雄(信長の次男)・越中の佐々成政・三河の徳川家康などです。
徳川家康

このうち、とくに信雄は事実上、信長の遺領の主要部分を相続した人物だから、天下を我が物に
しようとする秀吉にとって、目の上のタンコブも同然であった。
しかし、本当にけむたいのは、亡君信長の盟友である徳川家康であった。
家康は、本能寺の変が勃発したとき、運悪く堺の町で遊んでいたばかりに、明智討ちのチャンス
を逃し、秀吉に先鞭をつけられていたのです。
家康は、秀吉の功績を認め、その行動を黙殺していた。
そうして、家康自身は、武田の旧領であった甲斐と信濃を経略せんとし、相模の北条氏政と甲斐
の若神子で対陣したが、まもなく講和を結び、甲斐と信濃の大半を、その勢力圏内に収めた。
そうして、秀吉が柴田勝家を江北の賤ケ岳でやぶり、これを越前の北ノ庄城に討ち滅ぼしたとき
には、秀吉の戦勝を祝ったほどであった。
が、その直後に、秀吉が信長の3男・神戸信孝を謀殺したことを知ると、秀吉の野望を明らかに
見抜き、いつかは、秀吉と衝突するかも知れぬと、それを茫然と予測し、秀吉の行動を監視して
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