四国平定 その8
『北陸平定で忙しい秀吉』
秀吉は四国征伐の期日を、またまた延期し、6月16日と定め諸将に命令を発した。
5日には常陸(茨城)の佐竹義宜に手紙を出して
佐竹義宜(1570-1633年)

「四国に乱入し、過半はすでに本意にまかせた。近日長曾我部の首をはねるのも案の内だ(考え
ている通りになる)」
と、勝ったような宣伝をしているのも、秀吉らしいところです。
とにかく秀吉は、佐々成政に対しなければならないので、弟・秀長を四国征伐の総大将に任じて
四国を三方から攻撃することとし、戦いの指揮一切をまかせた。
もっとも秀吉は、7月3日には出馬するからといって、石井与次兵衛・梶原弥介に命じて、船を
明石に集結するようにいっているので、自分では渡海して一戦を交えるつもりでいたのでしょう。
それはともかく、秀長は紀伊・大和・和泉を主とする畿内の兵3万を率いて、6月16日、堺よ
り船を出して淡路の洲本に着き、三好秀次は摂津・近江・丹波の兵3万余を従えて、明石より海
を渡って淡路の岩屋に着き、さらに福良に至った。
ここで秀長の軍と合流し、大小船舶8百隻に分乗して鳴門海峡に漕ぎ出した。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉は四国征伐の期日を、またまた延期し、6月16日と定め諸将に命令を発した。
5日には常陸(茨城)の佐竹義宜に手紙を出して
佐竹義宜(1570-1633年)

「四国に乱入し、過半はすでに本意にまかせた。近日長曾我部の首をはねるのも案の内だ(考え
ている通りになる)」
と、勝ったような宣伝をしているのも、秀吉らしいところです。
とにかく秀吉は、佐々成政に対しなければならないので、弟・秀長を四国征伐の総大将に任じて
四国を三方から攻撃することとし、戦いの指揮一切をまかせた。
もっとも秀吉は、7月3日には出馬するからといって、石井与次兵衛・梶原弥介に命じて、船を
明石に集結するようにいっているので、自分では渡海して一戦を交えるつもりでいたのでしょう。
それはともかく、秀長は紀伊・大和・和泉を主とする畿内の兵3万を率いて、6月16日、堺よ
り船を出して淡路の洲本に着き、三好秀次は摂津・近江・丹波の兵3万余を従えて、明石より海
を渡って淡路の岩屋に着き、さらに福良に至った。
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四国平定 その7
『秀吉の四国渡海は延期が続く』
秀吉は5月25日に四国へ渡海すると小早川隆景に申し送ったが、やがて6月3日に出陣、さら
に10日に変更している。
このころ秀吉は、北陸で越中の佐々成政の軍と対峙していたので、自分で渡海するということが
できなかったのでしょう。
『太閤四国御発向並北国御動座記』に、四国渡海にあたり「このごろ又北国御動座あるべきの由
之を定む。人数を分かって残し置く者也」と書かれてあるように、兵力をさいて、佐々成政の軍に
あてねばならなかったのです。
大阪城の豊臣秀吉

そのうえ、近江の坂本で病気になり、5月24日には諸社寺で平癒祈願が行われているありさま
で、誠仁親王も秀吉が四国へ出馬することを止められている。
そのため秀吉は直接出向いて四国討伐を指揮することは困難であった。
しかし、病気の方は間もなくよくなり、6月15日には坂本から大坂に帰った。
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秀吉は5月25日に四国へ渡海すると小早川隆景に申し送ったが、やがて6月3日に出陣、さら
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このころ秀吉は、北陸で越中の佐々成政の軍と対峙していたので、自分で渡海するということが
できなかったのでしょう。
『太閤四国御発向並北国御動座記』に、四国渡海にあたり「このごろ又北国御動座あるべきの由
之を定む。人数を分かって残し置く者也」と書かれてあるように、兵力をさいて、佐々成政の軍に
あてねばならなかったのです。
大阪城の豊臣秀吉

そのうえ、近江の坂本で病気になり、5月24日には諸社寺で平癒祈願が行われているありさま
で、誠仁親王も秀吉が四国へ出馬することを止められている。
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四国平定 その6
『元親決死の言葉』
東伊予方面の毛利軍に対しては、同盟者・金子元宅の金子・高尾の城や、石川氏の高峠城を
中心として、石川配下の軍勢をこれにあて、機に応じて土佐から加番に兵を送ることにした。
長宗我部元親

そして長宗我部元親みずからは麾下の精鋭8千を率いて要衝白地を本営とし、全軍4万とい
われる各方面の将兵を岩倉・植田・金子の諸城とも連絡をとり、臨機応変の防衛体制を整え、
敵を難所に引きつけて各個撃破しようとする内戦作戦を展開しようとしたのです。
4月から5月はじめにかけて、以上のような準備が整うを待って、元親は戦場に赴くことと
なった。
出立に先立って北谷の瑞応寺(南国市)に詣でて、亡父・国親と祖先の墓前に赴き
「元親不肖に候へども父祖の偉業を継ぎ、弓矢を取りて四州を手に握る事、天道の冥慮に叶ひ、
武門の誉れ何事か是に如(し)かん。然るに此度天下の勢を受くる事、武士の本望にては候へ
共、又家の安否、此時極り候ひぬ。凡(およ)そ戦場に出づる者、豈(あに)帰国を思ひ候は
んや。依って御暇乞ひに参りて候」
と決死の言葉を述べ、長宗我部の興亡をかけた対戦にむけ、岡豊をあとに白地に向かって出
発した。
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一年前のrobin

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東伊予方面の毛利軍に対しては、同盟者・金子元宅の金子・高尾の城や、石川氏の高峠城を
中心として、石川配下の軍勢をこれにあて、機に応じて土佐から加番に兵を送ることにした。
長宗我部元親

そして長宗我部元親みずからは麾下の精鋭8千を率いて要衝白地を本営とし、全軍4万とい
われる各方面の将兵を岩倉・植田・金子の諸城とも連絡をとり、臨機応変の防衛体制を整え、
敵を難所に引きつけて各個撃破しようとする内戦作戦を展開しようとしたのです。
4月から5月はじめにかけて、以上のような準備が整うを待って、元親は戦場に赴くことと
なった。
出立に先立って北谷の瑞応寺(南国市)に詣でて、亡父・国親と祖先の墓前に赴き
「元親不肖に候へども父祖の偉業を継ぎ、弓矢を取りて四州を手に握る事、天道の冥慮に叶ひ、
武門の誉れ何事か是に如(し)かん。然るに此度天下の勢を受くる事、武士の本望にては候へ
共、又家の安否、此時極り候ひぬ。凡(およ)そ戦場に出づる者、豈(あに)帰国を思ひ候は
んや。依って御暇乞ひに参りて候」
と決死の言葉を述べ、長宗我部の興亡をかけた対戦にむけ、岡豊をあとに白地に向かって出
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四国平定 その5
『長宗我部氏の前線』
長宗我部元親も秀吉の攻撃に対し、防御の対策を立てた。
阿波・讃岐・伊予の3方面の防備が同時にできる戦略を立てる必要があったが、特に阿波は攻撃
の矢面にたつことが予想されるので、主力をここに投入した。
徳島城(徳島城登城記は「こちら」です。)

まず、東条関兵衛を木津城に配して鳴門・撫養方面を守らせ、渭山城(徳島城)には吉田孫左衛
門をおき、一宮城(名東)の北の本丸には、江村親俊をおいて、徳島平野の警戒にあたらせ、こ
れを助けても南の砦には谷忠忠澄を配し、とくに長宗我部軍の精鋭をここに置いた。
東部の牛岐城(富岡)には、弟・香宗我部親泰を配し、那賀川流域から海岸筋を警備させ、もし
海側に敵が侵入した時は、ただちに土佐にある信親の出兵ができるように配慮した。
吉野川筋の岩倉城には一族の長宗我部掃部助を、脇城には同新左衛門をそれぞれ配し、阿波・讃
岐の国境清水越え険を扼して、讃岐の植田に築いた新城とも連絡がとれるように気を配った。
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阿波・讃岐・伊予の3方面の防備が同時にできる戦略を立てる必要があったが、特に阿波は攻撃
の矢面にたつことが予想されるので、主力をここに投入した。
徳島城(徳島城登城記は「こちら」です。)

まず、東条関兵衛を木津城に配して鳴門・撫養方面を守らせ、渭山城(徳島城)には吉田孫左衛
門をおき、一宮城(名東)の北の本丸には、江村親俊をおいて、徳島平野の警戒にあたらせ、こ
れを助けても南の砦には谷忠忠澄を配し、とくに長宗我部軍の精鋭をここに置いた。
東部の牛岐城(富岡)には、弟・香宗我部親泰を配し、那賀川流域から海岸筋を警備させ、もし
海側に敵が侵入した時は、ただちに土佐にある信親の出兵ができるように配慮した。
吉野川筋の岩倉城には一族の長宗我部掃部助を、脇城には同新左衛門をそれぞれ配し、阿波・讃
岐の国境清水越え険を扼して、讃岐の植田に築いた新城とも連絡がとれるように気を配った。
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四国平定 その4
『毛利家も出馬』
秀吉から四国征伐の要請を受けた毛利家では、4月17日、一族が協議して出兵を協議したが、
同日、毛利輝元は部将・湯浅将宗に準備させ、児玉就光には船の用意を命じている。
毛利輝元(1553-1625年)

吉川元春は子の元長に出雲・伯耆・石見の将士を率いて従軍させることとし、5月1日には湯
原・小川らの部将に出陣の準備をさせている。
秀吉は、4月21日、出陣のため兵の整備を命じ、6月3日を四国へ出馬する日と定めため、
5月4日には黒田孝高(官兵衛)を淡路に渡航させ、一柳末安を明石に待機させている。
さらに5月8日には弟・秀長に四国への出馬を命じて、和泉・紀伊の船を徴発しており、小早
川隆景も出陣の準備を急ぐというように、5月に入って秀吉方の動きは活発になってきた。
こうしたあわただしい動きは長宗我部の方にも聞こえてきた。
土佐物語には「諸方より岡豊へ注進櫛の歯を引くが如し。事既に大事に及びぬと、四国の騒動
斜ならず。武士東西馳せ違ひ、男女南北に逃げ迷ふ」
と、書いてあるといいますが、まさにその通りであったのでしょう。
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毛利輝元(1553-1625年)

吉川元春は子の元長に出雲・伯耆・石見の将士を率いて従軍させることとし、5月1日には湯
原・小川らの部将に出陣の準備をさせている。
秀吉は、4月21日、出陣のため兵の整備を命じ、6月3日を四国へ出馬する日と定めため、
5月4日には黒田孝高(官兵衛)を淡路に渡航させ、一柳末安を明石に待機させている。
さらに5月8日には弟・秀長に四国への出馬を命じて、和泉・紀伊の船を徴発しており、小早
川隆景も出陣の準備を急ぐというように、5月に入って秀吉方の動きは活発になってきた。
こうしたあわただしい動きは長宗我部の方にも聞こえてきた。
土佐物語には「諸方より岡豊へ注進櫛の歯を引くが如し。事既に大事に及びぬと、四国の騒動
斜ならず。武士東西馳せ違ひ、男女南北に逃げ迷ふ」
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四国平定 その3
『四国へ出馬』
天正13年3月21日、秀吉は10万の兵を率いて紀伊に入り、根来・雑賀を攻めて根来寺を焼
き、さらに畠山貞政を敗走させ。
小早川隆景(1533-1597年)

その後、雑賀一揆を討ち、熊野を攻めたが、4月に入って太田城を水攻めにして22日、これを
陥れ、25日、大坂に凱旋した。
これより先、秀吉は小早川隆景に、次の手紙を出して和泉・紀伊平定を告げ、近く四国へ出馬す
る覚悟を述べています。
去る3日の書状委細本望に候。仍て此の儀先書に度々申す如く、
泉・紀伊両国残す所なく存分に任せ、隙明き候。
然れば不日四国に至り出馬せしむべき覚悟に候。
様子に於いては尚是より申すべき候。 謹言
卯月14日 秀吉(花押)
小早川左衛門佐殿 (小早川文書)
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天正13年3月21日、秀吉は10万の兵を率いて紀伊に入り、根来・雑賀を攻めて根来寺を焼
き、さらに畠山貞政を敗走させ。
小早川隆景(1533-1597年)

その後、雑賀一揆を討ち、熊野を攻めたが、4月に入って太田城を水攻めにして22日、これを
陥れ、25日、大坂に凱旋した。
これより先、秀吉は小早川隆景に、次の手紙を出して和泉・紀伊平定を告げ、近く四国へ出馬す
る覚悟を述べています。
去る3日の書状委細本望に候。仍て此の儀先書に度々申す如く、
泉・紀伊両国残す所なく存分に任せ、隙明き候。
然れば不日四国に至り出馬せしむべき覚悟に候。
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四国平定 その2
『秀吉に対抗』
小牧・長久手の役が終わり、秀吉と家康のあいだに講和が成立してからは、長宗我部元親として
は秀吉への対策を急いで講じなければならなくなった。
長宗我部元親

天正11年(1583年)11月、秀吉の御伽衆の大村由己が書いた『柴田退治記』には
「四国においては、十河・安富等は秀吉の幕下なり。土佐国・長宗我部元親懇望を致すといえで
も、許容を成さず。彼の国を取り、当忠の侍にあてがう由之を定む」
と書かれていて、秀吉は柴田勝家との戦いの時、すでに四国征伐を決意していたのです。
元親も柴田勝家だけでなく、天正12年には織田信勝・徳川家康と結び、紀伊の根来・雑賀の一
揆や高野山の衆徒とも連絡して秀吉に対抗しようとしていた。
特に根来・雑賀は、小牧の役を援助するため、紀伊の畠山貞政を奉じて、紀伊水道を隔てた近距
離の長宗我部元親と通じて大坂を襲撃しようとした。
そのため秀吉は、岸和田城に中村一氏をおいて防御させたが、小牧・長久手の役が終わると紀州
征伐を企てた。
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小牧・長久手の役が終わり、秀吉と家康のあいだに講和が成立してからは、長宗我部元親として
は秀吉への対策を急いで講じなければならなくなった。
長宗我部元親

天正11年(1583年)11月、秀吉の御伽衆の大村由己が書いた『柴田退治記』には
「四国においては、十河・安富等は秀吉の幕下なり。土佐国・長宗我部元親懇望を致すといえで
も、許容を成さず。彼の国を取り、当忠の侍にあてがう由之を定む」
と書かれていて、秀吉は柴田勝家との戦いの時、すでに四国征伐を決意していたのです。
元親も柴田勝家だけでなく、天正12年には織田信勝・徳川家康と結び、紀伊の根来・雑賀の一
揆や高野山の衆徒とも連絡して秀吉に対抗しようとしていた。
特に根来・雑賀は、小牧の役を援助するため、紀伊の畠山貞政を奉じて、紀伊水道を隔てた近距
離の長宗我部元親と通じて大坂を襲撃しようとした。
そのため秀吉は、岸和田城に中村一氏をおいて防御させたが、小牧・長久手の役が終わると紀州
征伐を企てた。
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