四国平定 その35
『長宗我部元親和議へ』
秀吉軍の攻勢の前に、阿波・讃岐・伊予の長宗我部軍は相次いで敗れ、元親は秀吉の軍を支え
ることができないことを悟り、秀長との間に和睦を講ずることになった。
長宗我部元親初陣の像

この両軍の間に介して斡旋を務めたのは、一宮城の守将であった谷忠澄であった。
『元親記』や『土佐物語』『長宗我部覚書』などには、秀長が和睦を勧告し、これを忠澄が一
応了解して、元親を説得したところ、元親は大いに怒り
「西国にて名を知れたる元親が、一戦もせず闇々(あんあん)無事せん事、屍(しかばね)の
上の恥辱なり。それ程の不覚者とは思はず城を預けたるこそ落度なれ。急ぎ一宮へ帰りて腹を
切れ」
大声で叱りつけが、忠澄は家臣と相談して、その賛同を得て一同で元親を説得したところ
「大将の誉は士卒の功に依る。元親如何程(いかほど)思ふとも、方々がそれ程腰を抜かす上
は力及ばぬ事なり。此上は如何様にても汝等が所存に任すべし」(土佐物語)
と負け惜しみを言って和議を承諾したという。
これは元親の勇ましい風貌を伝えるために誇張したものでしょうが、上方の勢力を結集した秀
吉の大軍との対戦は、いろいろな意味で元親の肝にめいじて考えさせる問題を含んでいるよう
な気がします。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉軍の攻勢の前に、阿波・讃岐・伊予の長宗我部軍は相次いで敗れ、元親は秀吉の軍を支え
ることができないことを悟り、秀長との間に和睦を講ずることになった。
長宗我部元親初陣の像

この両軍の間に介して斡旋を務めたのは、一宮城の守将であった谷忠澄であった。
『元親記』や『土佐物語』『長宗我部覚書』などには、秀長が和睦を勧告し、これを忠澄が一
応了解して、元親を説得したところ、元親は大いに怒り
「西国にて名を知れたる元親が、一戦もせず闇々(あんあん)無事せん事、屍(しかばね)の
上の恥辱なり。それ程の不覚者とは思はず城を預けたるこそ落度なれ。急ぎ一宮へ帰りて腹を
切れ」
大声で叱りつけが、忠澄は家臣と相談して、その賛同を得て一同で元親を説得したところ
「大将の誉は士卒の功に依る。元親如何程(いかほど)思ふとも、方々がそれ程腰を抜かす上
は力及ばぬ事なり。此上は如何様にても汝等が所存に任すべし」(土佐物語)
と負け惜しみを言って和議を承諾したという。
これは元親の勇ましい風貌を伝えるために誇張したものでしょうが、上方の勢力を結集した秀
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四国平定 その34
『軍師・官兵衛』
羽柴秀次は、岩倉方面へ向かったが、岩倉城は秀次の養父・康長の旧城であったので、秀次は
特にこの攻撃に力をいれた。
黒田官兵衛(1546-1604年)

ちょうど智将の黒田官兵衛が秀次の軍に加わり補佐したので、秀次は軍師としての官兵衛の意
見に従い、材木を集め城中の櫓よりも高く大きな井桜(せいろう)を組み上げた。
そのため城中を一目で見渡すことができるようになり、鬨の声をあげて方々から鉄砲をうちか
け、4万の大軍で城を囲んだ。
天険によった勇将・長宗我部掃部助(かもんのすけ)もついに降伏し、城を明け渡して土佐に
帰った。
岩倉城の陥落で脇城も孤立した。
秀次は小早川隆景に書状を送り
「当表(おもて)の事、木津・牛岐を始め落城に付て、抽子事、去る15日当脇城へ押詰め、
山下追破り、翌日より仕寄等丈夫に申付くる躰(てい)に候。是れ又(また)一着に数日を懸
くべからざる儀に候間、様子御気遺有る間敷(まじ)候。 (小早川文書)といっている。
こうして脇城主・長宗我部新左衛門も、城を保つことができずに南に去ったので、秀吉の軍は
やがて元親の本営・白地まで迫ろうとする形勢になってきた。
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ちょうど智将の黒田官兵衛が秀次の軍に加わり補佐したので、秀次は軍師としての官兵衛の意
見に従い、材木を集め城中の櫓よりも高く大きな井桜(せいろう)を組み上げた。
そのため城中を一目で見渡すことができるようになり、鬨の声をあげて方々から鉄砲をうちか
け、4万の大軍で城を囲んだ。
天険によった勇将・長宗我部掃部助(かもんのすけ)もついに降伏し、城を明け渡して土佐に
帰った。
岩倉城の陥落で脇城も孤立した。
秀次は小早川隆景に書状を送り
「当表(おもて)の事、木津・牛岐を始め落城に付て、抽子事、去る15日当脇城へ押詰め、
山下追破り、翌日より仕寄等丈夫に申付くる躰(てい)に候。是れ又(また)一着に数日を懸
くべからざる儀に候間、様子御気遺有る間敷(まじ)候。 (小早川文書)といっている。
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やがて元親の本営・白地まで迫ろうとする形勢になってきた。
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四国平定 その33
『一宮城落城』
羽柴秀長は焦燥のうちに日を過ごしたという。
そこで、山ノ上・大里の出城をけちらして進撃してきた藤堂高虎に東側からの攻撃を命じた。
高虎の軍はしだいに肉薄していったが、この方面は知勇と剛胆の聞こえの高い谷忠兵衛と土佐
の精兵が守っていたため、高虎はひとつの砦すら陥れることはできなかった。
一宮城本丸石垣

それだけでなく、城兵の横山隼人は、身を挺して塀を飛び越え、城から出でて高虎めがけて突
進し、高虎の胸に槍を突きつけた。
寄せ手は隼人を囲んで討ち取ろうとしたが、隼人は難なく囲みを脱して城内に引きあげるとい
う勇猛ぶりを発揮したという。
秀長は部将を励まし持久戦を続け、降伏を勧めたが応じないので、一計を案じ、坑道を掘って
城中に潜入する戦略を立て、坑夫2千名を集めて穴掘り作業を始めた。
たまたま蜂須賀の配下に久米義昌という者がいたが、彼は一宮の地理に詳しく、水路を断つこ
とを献策した。
秀長は、この策をいれて部将の明石元知に2千の兵を与え、義昌の先導のもと、夜中に屋那谷
(梁谷)を南に登り、東竜王山の東側の山腹に出て水路を断った。
また、渡辺勘兵衛は鉄砲組にまじって本丸と二ノ丸との間に潜入して通路を断ち切り、そのう
え出城も出火したので、ついに一宮城は落城した。
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羽柴秀長は焦燥のうちに日を過ごしたという。
そこで、山ノ上・大里の出城をけちらして進撃してきた藤堂高虎に東側からの攻撃を命じた。
高虎の軍はしだいに肉薄していったが、この方面は知勇と剛胆の聞こえの高い谷忠兵衛と土佐
の精兵が守っていたため、高虎はひとつの砦すら陥れることはできなかった。
一宮城本丸石垣

それだけでなく、城兵の横山隼人は、身を挺して塀を飛び越え、城から出でて高虎めがけて突
進し、高虎の胸に槍を突きつけた。
寄せ手は隼人を囲んで討ち取ろうとしたが、隼人は難なく囲みを脱して城内に引きあげるとい
う勇猛ぶりを発揮したという。
秀長は部将を励まし持久戦を続け、降伏を勧めたが応じないので、一計を案じ、坑道を掘って
城中に潜入する戦略を立て、坑夫2千名を集めて穴掘り作業を始めた。
たまたま蜂須賀の配下に久米義昌という者がいたが、彼は一宮の地理に詳しく、水路を断つこ
とを献策した。
秀長は、この策をいれて部将の明石元知に2千の兵を与え、義昌の先導のもと、夜中に屋那谷
(梁谷)を南に登り、東竜王山の東側の山腹に出て水路を断った。
また、渡辺勘兵衛は鉄砲組にまじって本丸と二ノ丸との間に潜入して通路を断ち切り、そのう
え出城も出火したので、ついに一宮城は落城した。
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四国平定 その33
『一宮城攻撃』
一宮城の攻撃に参加した秀吉方の軍勢は5万の大軍であったというが、増田長盛・蜂須賀正勝
らを将とする羽柴秀長らの主力は、鮎喰川の西岸を早淵という国府付近から南進して鹿野・海
見方面に進み、一宮城の正面をめざした。
藤堂高虎(1556-1630年)

一手は藤堂高虎らが中心となって眉山の南北両道を西南下して下町をめざし、一宮城の右翼を
衝こうとした。
一宮城は北の本丸を江村親俊が、南を谷忠兵衛がそれぞれ守将としてかためたが、その兵力は
5千であったという。
秀長は辰ヶ山に本営を置き、鮎喰川を挟んで南方の一宮城と対峙し、藤堂・増田・蜂須賀の諸
軍で城を包囲する隊形をとった。
秀長の命令一下、力攻めが開始されたが、自然の堀の役目をはたす鮎喰川が障害となり、城兵
も頑強に抵抗したので攻略は容易でなかった。
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見方面に進み、一宮城の正面をめざした。
藤堂高虎(1556-1630年)

一手は藤堂高虎らが中心となって眉山の南北両道を西南下して下町をめざし、一宮城の右翼を
衝こうとした。
一宮城は北の本丸を江村親俊が、南を谷忠兵衛がそれぞれ守将としてかためたが、その兵力は
5千であったという。
秀長は辰ヶ山に本営を置き、鮎喰川を挟んで南方の一宮城と対峙し、藤堂・増田・蜂須賀の諸
軍で城を包囲する隊形をとった。
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四国平定 その32
『秀吉の細かな指示』
岩倉へは羽柴秀次が、一宮へは羽柴秀長がそれぞれ将として攻撃に向かうこととなった。
秀吉は一宮城攻撃に参加していた秀長の先鋒の将である筒井定次・伊藤掃部助に、7月10日付
けで次のような書状を送って、一宮城攻撃の指示を与えています。
大坂城の秀吉

態(わざわざ)申遺(つかわし)候。仍て一宮城取巻き、仕寄以下厳敷申付けるに依り、三の丸
明け退くに付て、追手の水手相留め候由聞届候。同じく西の丸の水急度(きつと)相留むべきの
旨尤(もっとも)に候。何(いずれ)の城々責取り候共、陣取りの面々由断(ゆだん)あるべか
ず候。大軍と存ぜられ、心を緩(ゆるがせ)にする於ては、おびいる之在り、味方の人数を敵と、
下々臆病者は見なしの物、之有る由、青表紙面に之在る旨聞入れ申し候条、其の意を得、夜中に
馬など取放し候はぬやうに念を入れ申付けらるべき者也。(伊藤文書)
この手紙にみえるように、秀吉は水を断つ処理や、味方を敵と見誤るような臆病者への注意、夜
中に馬を取り逃すなといったこまごまとした注意を与えているのです。
秀吉の性格と戦争指揮の一端がみえて興味深い手紙です。
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けで次のような書状を送って、一宮城攻撃の指示を与えています。
大坂城の秀吉

態(わざわざ)申遺(つかわし)候。仍て一宮城取巻き、仕寄以下厳敷申付けるに依り、三の丸
明け退くに付て、追手の水手相留め候由聞届候。同じく西の丸の水急度(きつと)相留むべきの
旨尤(もっとも)に候。何(いずれ)の城々責取り候共、陣取りの面々由断(ゆだん)あるべか
ず候。大軍と存ぜられ、心を緩(ゆるがせ)にする於ては、おびいる之在り、味方の人数を敵と、
下々臆病者は見なしの物、之有る由、青表紙面に之在る旨聞入れ申し候条、其の意を得、夜中に
馬など取放し候はぬやうに念を入れ申付けらるべき者也。(伊藤文書)
この手紙にみえるように、秀吉は水を断つ処理や、味方を敵と見誤るような臆病者への注意、夜
中に馬を取り逃すなといったこまごまとした注意を与えているのです。
秀吉の性格と戦争指揮の一端がみえて興味深い手紙です。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
四国平定 その31
『上方勢にしっぽを巻く?』
羽柴秀長は7月15日、兵を3手に分けて、海部、一宮、岩倉方面へそれぞれ向かわせ、阿波の
内部に侵入し始めた。
長宗我部元親

ところが牛岐城にいた香宗我部親泰は、徳島城を守っていた吉田孫左衛門と協議して、軍略を考
えようとしたが、木津の落城を聞き、寄せ手の軍に形ばかり抵抗した後、早々に土佐に引きあげ
てしまった。
そのため吉田孫左衛門も致し方なく土佐へ帰ってしまうという状態になり、東部の海岸地方の防
備は崩れてしまった。
この親泰らの行動は卑怯な振る舞いと非難されているが、長宗我部元親の四国統一戦争が行われ
ている最中に、元親の代理として織田・柴田・徳川らと、つねに外交上・軍事上の折衝を行って
きた身としては、おそらく上方勢の優秀な軍備と経済力の豊かさを感じ取り、抵抗することの無
益なことを知って、たとえ元親に休戦を進めても聞き入れないだろうと判断し、土佐へ帰ったの
ではないのでしょうか。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
羽柴秀長は7月15日、兵を3手に分けて、海部、一宮、岩倉方面へそれぞれ向かわせ、阿波の
内部に侵入し始めた。
長宗我部元親

ところが牛岐城にいた香宗我部親泰は、徳島城を守っていた吉田孫左衛門と協議して、軍略を考
えようとしたが、木津の落城を聞き、寄せ手の軍に形ばかり抵抗した後、早々に土佐に引きあげ
てしまった。
そのため吉田孫左衛門も致し方なく土佐へ帰ってしまうという状態になり、東部の海岸地方の防
備は崩れてしまった。
この親泰らの行動は卑怯な振る舞いと非難されているが、長宗我部元親の四国統一戦争が行われ
ている最中に、元親の代理として織田・柴田・徳川らと、つねに外交上・軍事上の折衝を行って
きた身としては、おそらく上方勢の優秀な軍備と経済力の豊かさを感じ取り、抵抗することの無
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四国平定 その30
『秀吉も四国へ?』
木津城以外の他の諸城は容易に落ちなかったので、秀吉はみずから四国へ渡ろうとし、先鋒は
7月3日に淡路に到着した。
羽柴秀吉

秀吉は木津城の攻撃軍に加わっていた伊藤掃部助(かもんのすけ)に、7月6日付けで次の手
紙を出している。
一、 秀吉出馬の事外聞候間、遠慮すべき由、美濃守(秀長)度々申越すに依って相延し候。
何時によらず左右次第渡候。木津城落着候間、国中の城未だ明けざる迄、長宗我部取巻はば、
5日の逗留(とうりゅう)にて我々出馬申付くべく候事。
一、 多人数にて木津一城取巻く事如何かと候間、一宮取巻き申すべき候。但し各(おのおの)
相談見はからい申付くべき旨、秀長に申遣し候事。
一、 其方事、木津城後巻諸手申付け候間、備前衆居陣の城に之有り、越度(おつど)無き様に
肝要に候。委細森兵吉申すべく候也。
7月6日 秀吉
伊藤掃部助殿 (伊藤文書)
すなわち、7月初めに木津城は落城したようですが、秀吉は多人数で、木津城だけを取巻くよう
な策のないことをせず、一宮城へもとりかかれといっているのです。
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木津城以外の他の諸城は容易に落ちなかったので、秀吉はみずから四国へ渡ろうとし、先鋒は
7月3日に淡路に到着した。
羽柴秀吉

秀吉は木津城の攻撃軍に加わっていた伊藤掃部助(かもんのすけ)に、7月6日付けで次の手
紙を出している。
一、 秀吉出馬の事外聞候間、遠慮すべき由、美濃守(秀長)度々申越すに依って相延し候。
何時によらず左右次第渡候。木津城落着候間、国中の城未だ明けざる迄、長宗我部取巻はば、
5日の逗留(とうりゅう)にて我々出馬申付くべく候事。
一、 多人数にて木津一城取巻く事如何かと候間、一宮取巻き申すべき候。但し各(おのおの)
相談見はからい申付くべき旨、秀長に申遣し候事。
一、 其方事、木津城後巻諸手申付け候間、備前衆居陣の城に之有り、越度(おつど)無き様に
肝要に候。委細森兵吉申すべく候也。
7月6日 秀吉
伊藤掃部助殿 (伊藤文書)
すなわち、7月初めに木津城は落城したようですが、秀吉は多人数で、木津城だけを取巻くよう
な策のないことをせず、一宮城へもとりかかれといっているのです。
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