smart center kyoto,the garden
『日本で唯一のsmart専売店』
smart center kyoto,the gardenは日本初のスマート専売店で、smartの魅力を発信されており
ますので、smartの魅力に取りつかれている者のひとりとして、ぜひ、立ち寄りたいスポットです。

建物も古民家を利用されているので、趣のある建物です。
駐車場の入口には、試乗車が3台も用意されていました。

smartだらけです。
ここに販売員さんが出てこられたので、ペットがお店に入れるのか確認すると、
店内にカフェを併設しているので、NGとのこと

tiggerとrobinは車中でこんな状態で、お留守番です。
もちろん、エアコンは稼働しています。

店内に入ると、ここでしか見られないsmartがいっぱい並んでいます。
ミッキーとのコラボ車

ノリ(木梨憲武)さんが落書きしたsmart

fortwo BRABAS cabrioに特注のレザーシートをおごっているので、なんと
450万円越えです。

今後、smartは電気自動車化へシフトしていくようですが、初代smartに比べるとエッジがとれて
だんだんと円やかになっています。
わが家のこの車、可愛がりながら、ながく乗っていきたいものです。
smartグッズを何点か購入し、和歌山に向け移動を開始しました。

申し訳ございませんでした。
京都で立ち寄ったところは、ここだけでしたけど、マニアック過ぎて分かる筈がないですよね。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
smart center kyoto,the gardenは日本初のスマート専売店で、smartの魅力を発信されており
ますので、smartの魅力に取りつかれている者のひとりとして、ぜひ、立ち寄りたいスポットです。

建物も古民家を利用されているので、趣のある建物です。
駐車場の入口には、試乗車が3台も用意されていました。

smartだらけです。
ここに販売員さんが出てこられたので、ペットがお店に入れるのか確認すると、
店内にカフェを併設しているので、NGとのこと

tiggerとrobinは車中でこんな状態で、お留守番です。
もちろん、エアコンは稼働しています。

店内に入ると、ここでしか見られないsmartがいっぱい並んでいます。
ミッキーとのコラボ車

ノリ(木梨憲武)さんが落書きしたsmart

fortwo BRABAS cabrioに特注のレザーシートをおごっているので、なんと
450万円越えです。

今後、smartは電気自動車化へシフトしていくようですが、初代smartに比べるとエッジがとれて
だんだんと円やかになっています。
わが家のこの車、可愛がりながら、ながく乗っていきたいものです。
smartグッズを何点か購入し、和歌山に向け移動を開始しました。

申し訳ございませんでした。
京都で立ち寄ったところは、ここだけでしたけど、マニアック過ぎて分かる筈がないですよね。
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関西への旅 その1
『京都 宝が池公園』
先日、国立京都国際会館で開催されたセミナーに参加するため、京都に行ってきました。
今回は、tiggerとrobinが同行しているため、早々に会場を抜け出し近くの「宝が池公園」で遊び
ました。

ボクは、車にたくさん乗ったので、疲れましたよ!
そうだね。
東京を16:00に出発し、大津SAで仮眠し、8:00には京都入りしました。

tiggerは元気だね~

ん、ボクは元気です。
よく眠りましたから、、、 キミは夜中にコソコソしてたでしょう。

おねちゃんたちが、準備体操をしてますよ。
ボクも仲間に入れて貰いかな~
ここ、宝が池公園はジョギングする人たちが多く、大人の人たちも池の周回コースを走られて
いました。

近寄って行ったtiggerをおねえちゃん達が見つけて、駆け寄ってきました。
チョットはずかしいですから・・・。

今回の旅は、ペット同室の宿を探すのがたいへんでしたので、ペットも同乗できるキャンピングカー
での旅になりました。

京都は、ペットと一緒に観光できる場所は限らてしまいますので、京都に行ったらどうしても
立ち寄りた場所に一カ所だけ立ち寄りました。
日本では京都だけにしかありません。
さあ、何処に向かったのでしょう!
過去に記事にしている内容に関係があります^^
おわかりになった方、また、そう思われた方も、コメント欄で投票されてください。
ランキングに参加しています

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先日、国立京都国際会館で開催されたセミナーに参加するため、京都に行ってきました。
今回は、tiggerとrobinが同行しているため、早々に会場を抜け出し近くの「宝が池公園」で遊び
ました。

ボクは、車にたくさん乗ったので、疲れましたよ!
そうだね。
東京を16:00に出発し、大津SAで仮眠し、8:00には京都入りしました。

tiggerは元気だね~

ん、ボクは元気です。
よく眠りましたから、、、 キミは夜中にコソコソしてたでしょう。

おねちゃんたちが、準備体操をしてますよ。
ボクも仲間に入れて貰いかな~
ここ、宝が池公園はジョギングする人たちが多く、大人の人たちも池の周回コースを走られて
いました。

近寄って行ったtiggerをおねえちゃん達が見つけて、駆け寄ってきました。
チョットはずかしいですから・・・。

今回の旅は、ペット同室の宿を探すのがたいへんでしたので、ペットも同乗できるキャンピングカー
での旅になりました。

京都は、ペットと一緒に観光できる場所は限らてしまいますので、京都に行ったらどうしても
立ち寄りた場所に一カ所だけ立ち寄りました。
日本では京都だけにしかありません。
さあ、何処に向かったのでしょう!
過去に記事にしている内容に関係があります^^
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九州平定 その21
『九州へ出兵』
天正14年6月、肥後八代に攻め入った島津氏の軍は、島津忠長・伊集院忠棟を先鋒として築
後の高良山に進み、ここを陣営とし、7月には忠棟は筑前に入って筑紫広門の五箇山城を攻め
落した。
長宗我部元親(1539-1599年)

忠長は築前高鳥居城を陥れて城を守っていた筑紫左衛門佐を斬り、五箇山城を秋草種実にやり、
高鳥居城を星野鎮豊に与えた。
この間、大友宗麟は6月に家督を義統に譲って政務から離れ、家令の形をもって国政に参与し
た。
義統は島津氏の攻勢を知らせて、しきりに秀吉の征西を請い、7月に入って秀吉の内書を得た。
その内書が実現されたのは9月に入ってからのことであった。
土佐の長宗我部元親とその子信親に四国の兵を率いて先鋒となって豊後に渡らせ、仙石秀久を
監察使として同行させた。
また、中国の毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に兵を率いて豊前に渡らせ、黒田官兵衛・宮木
宗賦をこれにつけた。
四国・中国の将兵に、秀吉の直臣をつけた点は秀吉の軍隊編成の常套手段であったのです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
天正14年6月、肥後八代に攻め入った島津氏の軍は、島津忠長・伊集院忠棟を先鋒として築
後の高良山に進み、ここを陣営とし、7月には忠棟は筑前に入って筑紫広門の五箇山城を攻め
落した。
長宗我部元親(1539-1599年)

忠長は築前高鳥居城を陥れて城を守っていた筑紫左衛門佐を斬り、五箇山城を秋草種実にやり、
高鳥居城を星野鎮豊に与えた。
この間、大友宗麟は6月に家督を義統に譲って政務から離れ、家令の形をもって国政に参与し
た。
義統は島津氏の攻勢を知らせて、しきりに秀吉の征西を請い、7月に入って秀吉の内書を得た。
その内書が実現されたのは9月に入ってからのことであった。
土佐の長宗我部元親とその子信親に四国の兵を率いて先鋒となって豊後に渡らせ、仙石秀久を
監察使として同行させた。
また、中国の毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に兵を率いて豊前に渡らせ、黒田官兵衛・宮木
宗賦をこれにつけた。
四国・中国の将兵に、秀吉の直臣をつけた点は秀吉の軍隊編成の常套手段であったのです。
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九州平定 その20
『島津氏への宣戦布告』
天正13年10月2日、島津氏の降伏をすすめた千利休・細川幽斎の書状に対する島津義久の
返事は、14年、使者・鎌田政広によって大坂にもたらされた。
秀吉は政広を大坂城に引見し、肥後・豊前(福岡・大分県)の半国、筑後(福岡県)を大友氏
に、肥前(佐賀・長崎県)を毛利氏に渡し、博多を含む筑前(福岡県)は秀吉自身の直轄地と
することを申し渡した。
仙石秀久(1552-1614年)

これは秀吉の島津氏に対する事実上の宣戦布告だったのです。
その後、大友宗麟の場合と同様に、自分で案内にたって政広に天守をはじめ城内を見せてやり、
その富強を誇示して心理的圧迫を加えた。
秀吉の九州国分けの方針に対して、もちろん島津氏はこれを拒否した。
秀吉としては予定どおりの処置であった。
こうして9月に入り、中国の毛利・小早川・吉川、四国の長宗我部の諸氏を先鋒とし、これに
直臣の黒田官兵衛・仙石秀久・小西行長らを付けて九州に渡らせた。
秀吉の九州経略の先導を引き受けた毛利輝元は、瀬戸内海の海賊衆を統率している小早川隆景
の力によって中国地方を平定したのです。
いまや中国地方を掌握している毛利一族を先頭に立て、堺・博多の商人がその後押しすれば、
これで九州征伐の準備は終わったも同然であった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
天正13年10月2日、島津氏の降伏をすすめた千利休・細川幽斎の書状に対する島津義久の
返事は、14年、使者・鎌田政広によって大坂にもたらされた。
秀吉は政広を大坂城に引見し、肥後・豊前(福岡・大分県)の半国、筑後(福岡県)を大友氏
に、肥前(佐賀・長崎県)を毛利氏に渡し、博多を含む筑前(福岡県)は秀吉自身の直轄地と
することを申し渡した。
仙石秀久(1552-1614年)

これは秀吉の島津氏に対する事実上の宣戦布告だったのです。
その後、大友宗麟の場合と同様に、自分で案内にたって政広に天守をはじめ城内を見せてやり、
その富強を誇示して心理的圧迫を加えた。
秀吉の九州国分けの方針に対して、もちろん島津氏はこれを拒否した。
秀吉としては予定どおりの処置であった。
こうして9月に入り、中国の毛利・小早川・吉川、四国の長宗我部の諸氏を先鋒とし、これに
直臣の黒田官兵衛・仙石秀久・小西行長らを付けて九州に渡らせた。
秀吉の九州経略の先導を引き受けた毛利輝元は、瀬戸内海の海賊衆を統率している小早川隆景
の力によって中国地方を平定したのです。
いまや中国地方を掌握している毛利一族を先頭に立て、堺・博多の商人がその後押しすれば、
これで九州征伐の準備は終わったも同然であった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
九州平定 その19
『戦をすれば商人が潤う』
秀吉自身が大軍を率いて九州遠征を決行するとなると、大軍の輸送のほか大量の武器・兵糧の
調達と輸送とが必要である。
このために当時、海上輸送貿易に慣れ、国内の商品の生産と流通を支配していた堺・博多の商
人の力を借りることが絶対に必要となる。
島井宗室(1539-1615年)

また全国統一事業を進めつつある秀吉に対して、これら商人の側からも進んで近づこうとして
いたという。
戦争による武器・兵糧の売り込みはもちろん、輸送によって莫大な利益を獲得することができ
るし、ことに勝者の側についておれば西国平定によって市場の拡大が予想されるし、さらに大
陸貿易へも新しい展開が期待できるのです。
そうした堺商人の代弁者として秀吉の側近に仕えたいたのが千利休であった。
利休は博多の豪商・島井宗室とも親交があったので、また博多商人との仲介役であったようで
す。
その証拠として、天正11年6月、利休はわざわざ島井宗室に書簡を送って、秀吉が宗室に会
見する希望を持っていることを伝えています。
秀吉は境の商人を通じ、博多商人とも深い関係を結びつつあったのです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉自身が大軍を率いて九州遠征を決行するとなると、大軍の輸送のほか大量の武器・兵糧の
調達と輸送とが必要である。
このために当時、海上輸送貿易に慣れ、国内の商品の生産と流通を支配していた堺・博多の商
人の力を借りることが絶対に必要となる。
島井宗室(1539-1615年)

また全国統一事業を進めつつある秀吉に対して、これら商人の側からも進んで近づこうとして
いたという。
戦争による武器・兵糧の売り込みはもちろん、輸送によって莫大な利益を獲得することができ
るし、ことに勝者の側についておれば西国平定によって市場の拡大が予想されるし、さらに大
陸貿易へも新しい展開が期待できるのです。
そうした堺商人の代弁者として秀吉の側近に仕えたいたのが千利休であった。
利休は博多の豪商・島井宗室とも親交があったので、また博多商人との仲介役であったようで
す。
その証拠として、天正11年6月、利休はわざわざ島井宗室に書簡を送って、秀吉が宗室に会
見する希望を持っていることを伝えています。
秀吉は境の商人を通じ、博多商人とも深い関係を結びつつあったのです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
九州平定 その18
九州平定 その17
『島津氏の圧迫』
大友宗麟が豊後に帰国した後も、九州における島津氏の九州諸国侵略の勢いは弱まっていなか
った。
天正14年(1586年)4月、肥後隈府(菊池市)の隈部親水は島津氏に圧迫されて救いを
豊後に求めた。
大友義統(1558-1610年)

大友義統は日田・玖珠両軍の兵をやって肥後境におき島津軍の進入に備えた。
秀吉はすでに天正10年以来、大友氏のほか竜造寺の家臣・鍋島直茂からも救援を求める書状
を受け取っており、12年には直茂は成富成安を使者として秀吉に面会させ、秀吉の九州征伐
には、そのさきがけになることを願い出ている。
こうして秀吉は、天正15年3月を九州遠征の期と定め、毛利・大友和議成立の14年4月、
毛利に命じて島津氏に属する豊前・日向の諸城を攻撃させた。
また、輝元はわずかに形ばかりの兵70騎を豊後に遣わし、義統はこれを2つに分け、50騎を
豊後・日向境の守兵に加え、20騎を筑前立花城の援軍にしている。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
大友宗麟が豊後に帰国した後も、九州における島津氏の九州諸国侵略の勢いは弱まっていなか
った。
天正14年(1586年)4月、肥後隈府(菊池市)の隈部親水は島津氏に圧迫されて救いを
豊後に求めた。
大友義統(1558-1610年)

大友義統は日田・玖珠両軍の兵をやって肥後境におき島津軍の進入に備えた。
秀吉はすでに天正10年以来、大友氏のほか竜造寺の家臣・鍋島直茂からも救援を求める書状
を受け取っており、12年には直茂は成富成安を使者として秀吉に面会させ、秀吉の九州征伐
には、そのさきがけになることを願い出ている。
こうして秀吉は、天正15年3月を九州遠征の期と定め、毛利・大友和議成立の14年4月、
毛利に命じて島津氏に属する豊前・日向の諸城を攻撃させた。
また、輝元はわずかに形ばかりの兵70騎を豊後に遣わし、義統はこれを2つに分け、50騎を
豊後・日向境の守兵に加え、20騎を筑前立花城の援軍にしている。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>