九州平定 その40
『肥後一揆起こる』
北野茶会もわずか一日で中止をせざるに得ない事態が起こった。
それは肥後において佐々成政に対する国衆の一揆が勃発したからであった。
佐々成政(1536-1588年)

肥後では守護の菊池氏が滅亡した後、肥後の国侍は52人衆といわれ、本領を保有して独立の
形をとっていた。
したがって秀吉は成政に対して検地を実施しないように指令を与えていた。
ところが成政は、越中富山から隈本(熊本)に入城はしたものの、検地しなければ肥後の土地
を家臣に与えることもできない。
成政の検地実施に反対して、早くも7月には隈府の隈部親永が兵をあげ、これが肥後北半部全
体の一揆に拡大した。
9月7日、成政は筑後の立花宗茂に救援軍を求め、同日このことが大坂の秀吉の耳に達したの
です。
12日、秀吉は黒田・毛利・安国寺らを肥後に遣わし南方島津氏をも動員させた。
こうして一揆は鎮圧されたが、九州の対外的地位の重要さから、5畿内同然に考えていた秀吉
にとってこれは容易ならぬ事件であったという。
翌、天正16年(1588年)4月、成政は摂津尼ヶ崎で切腹を命じられ、肥後北半分に加藤
清正、南半分に小西行長を封じた。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
北野茶会もわずか一日で中止をせざるに得ない事態が起こった。
それは肥後において佐々成政に対する国衆の一揆が勃発したからであった。
佐々成政(1536-1588年)

肥後では守護の菊池氏が滅亡した後、肥後の国侍は52人衆といわれ、本領を保有して独立の
形をとっていた。
したがって秀吉は成政に対して検地を実施しないように指令を与えていた。
ところが成政は、越中富山から隈本(熊本)に入城はしたものの、検地しなければ肥後の土地
を家臣に与えることもできない。
成政の検地実施に反対して、早くも7月には隈府の隈部親永が兵をあげ、これが肥後北半部全
体の一揆に拡大した。
9月7日、成政は筑後の立花宗茂に救援軍を求め、同日このことが大坂の秀吉の耳に達したの
です。
12日、秀吉は黒田・毛利・安国寺らを肥後に遣わし南方島津氏をも動員させた。
こうして一揆は鎮圧されたが、九州の対外的地位の重要さから、5畿内同然に考えていた秀吉
にとってこれは容易ならぬ事件であったという。
翌、天正16年(1588年)4月、成政は摂津尼ヶ崎で切腹を命じられ、肥後北半分に加藤
清正、南半分に小西行長を封じた。
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九州平定 その39
『バテレン追放』
秀吉は九州に自分自身で渡り、キリスト教を信仰する諸大名を直接に見、教会領となっていた
長崎の状況をも詳察し、教会の勢力の性格について把握した。
秀吉のバテレン追放令

天正15年6月18日付耶蘇教取締り法令によると、日本は神国であるのでキリシタンより邪
法を授けるのははなはだ不埒(ふらち)であるとして、20日の間にバテレンは用意を整えて
帰国すべきことなどを決めている。
天正14年3月、耶蘇会日本副管区長コエリヨが大坂に来たときは、秀吉みずから城中を案内
したほどであったのに、九州の軍事以後、秀吉の対キリスト教策は急変した。
彼の全国統一者としての態度が確立したことが推察されます。
秀吉は帰ってまもない10月1日から10日間、京都北野で大茶会を開くという高札を京都・
大坂・堺に立てさせた。
九州平定記念の祝賀大茶会であるとともに、疲れを癒す慰安会でもあったのです。
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秀吉は九州に自分自身で渡り、キリスト教を信仰する諸大名を直接に見、教会領となっていた
長崎の状況をも詳察し、教会の勢力の性格について把握した。
秀吉のバテレン追放令

天正15年6月18日付耶蘇教取締り法令によると、日本は神国であるのでキリシタンより邪
法を授けるのははなはだ不埒(ふらち)であるとして、20日の間にバテレンは用意を整えて
帰国すべきことなどを決めている。
天正14年3月、耶蘇会日本副管区長コエリヨが大坂に来たときは、秀吉みずから城中を案内
したほどであったのに、九州の軍事以後、秀吉の対キリスト教策は急変した。
彼の全国統一者としての態度が確立したことが推察されます。
秀吉は帰ってまもない10月1日から10日間、京都北野で大茶会を開くという高札を京都・
大坂・堺に立てさせた。
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九州平定 その38
『秀吉の九州戦略』
秀吉は予定の行動として、博多に20日近くとどまり、筥崎八幡宮の屋敷に住み戦後の経営を行
った。
博多の町の復興経営事業の世話役として黒田官兵衛、奉行として石田三成らを命じ、6月11日
から町の差図をかかせ12日から町割りを行った。
筥崎八幡宮

秀吉は大明・南蛮の諸国の船のつく港として交通上の要地である博多を高く評価し、ここを根拠
に朝鮮に軍隊を差し向けようと考えていたのです。
筑前・肥前両国に対する経営として一部は腹心の小早川隆景に与え、一部はほとんどその旧領を
安堵したのも、この地方が海諸国経営の要衝にあたっているから、とくに考慮したものでしょう。
神谷宗湛・島井宗室ら博多の町年寄りを呼び出して故実を正し、町を10町四方に区切り、縦横
に小路を割り付け、また防備のために堀を掘った。
荒廃した町割りを復興するのは困難な事業であったというが、復興の途上にたった博多の町に楽
市楽座の制をしき商業を保護した。
26日、宮崎の津田宗久の茶室で、秀吉を中心とする連歌会が行われ、博多の豪商と秀吉の結び
つきはいっそう強化されたという。
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から町の差図をかかせ12日から町割りを行った。
筥崎八幡宮

秀吉は大明・南蛮の諸国の船のつく港として交通上の要地である博多を高く評価し、ここを根拠
に朝鮮に軍隊を差し向けようと考えていたのです。
筑前・肥前両国に対する経営として一部は腹心の小早川隆景に与え、一部はほとんどその旧領を
安堵したのも、この地方が海諸国経営の要衝にあたっているから、とくに考慮したものでしょう。
神谷宗湛・島井宗室ら博多の町年寄りを呼び出して故実を正し、町を10町四方に区切り、縦横
に小路を割り付け、また防備のために堀を掘った。
荒廃した町割りを復興するのは困難な事業であったというが、復興の途上にたった博多の町に楽
市楽座の制をしき商業を保護した。
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つきはいっそう強化されたという。
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九州平定 その37
『九州諸大名の配置』
5月13日、秀吉は九州成敗の条項数件をしたため朱印を加えて秀長に渡した。
しかし、この14ヵ条の計画は実行されることがなかった。
佐々成政(1536-1588年)

秀吉は再び肥後隈本に帰り、6月2日、佐々成政を越中から移して肥後一国を与えた。
4日南関、5日高良山、6日大宰府安楽寺・岩屋城、7日筑前の筥崎に社参、ここで九州の諸大
名の領地を定めた。
小早川隆景に筑前および筑後2郡および肥前2郡を、その弟・毛利秀包に筑後3郡を、黒田官兵
衛に豊前6郡を、毛利勝信に同2郡を与え、在地豪族に対しては秀吉の直臣となった立花宗成に
筑後3郡を、筑紫広門に同1郡を与え、竜造寺政家には旧領のほか島原神代村を与えた。
しかし、筑前怡土郡高祖の城主・原田信種、遠賀郡花尾の城主・麻生氏家、宗像大宮司などはこ
れまでの本領を失って小早川隆景の家臣となった。
このような北九州に重点をおいた秀吉の手による九州全体の諸大名配置は、秀吉政権下における
社会の安定を図ったものですが、新興勢力と旧勢力の交替がめだって表われており、時代の推移
をはっきりと打ち出したものであった。
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しかし、この14ヵ条の計画は実行されることがなかった。
佐々成政(1536-1588年)

秀吉は再び肥後隈本に帰り、6月2日、佐々成政を越中から移して肥後一国を与えた。
4日南関、5日高良山、6日大宰府安楽寺・岩屋城、7日筑前の筥崎に社参、ここで九州の諸大
名の領地を定めた。
小早川隆景に筑前および筑後2郡および肥前2郡を、その弟・毛利秀包に筑後3郡を、黒田官兵
衛に豊前6郡を、毛利勝信に同2郡を与え、在地豪族に対しては秀吉の直臣となった立花宗成に
筑後3郡を、筑紫広門に同1郡を与え、竜造寺政家には旧領のほか島原神代村を与えた。
しかし、筑前怡土郡高祖の城主・原田信種、遠賀郡花尾の城主・麻生氏家、宗像大宮司などはこ
れまでの本領を失って小早川隆景の家臣となった。
このような北九州に重点をおいた秀吉の手による九州全体の諸大名配置は、秀吉政権下における
社会の安定を図ったものですが、新興勢力と旧勢力の交替がめだって表われており、時代の推移
をはっきりと打ち出したものであった。
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九州平定 その36
『島津氏の降伏』
薩摩方では退却の途中、和戦いずれを選ぶかを議したが容易には決しなかったという。
日向方面においては、先鋒・秀長の軍が進撃し、4月21日、伊集院忠棟は島津義久らの罪を陳
謝して秀長陣に来た。
鶴丸城(鹿児島城) (鶴丸城登城記は「こちら」です。)

秀吉は5月3日、義久の使者・河野通貞の降伏を申し出をも聞いて受け入れたので、5月8日義
久は剃髪僧衣を身に着け竜伯と号して、降伏して大平寺において会見し、義弘・歳久・家久らも
またそれぞれ人質を献じ、秀吉は一人残らず首をはねるというようなことはせず、9日にはあっ
さりと島津氏の薩摩・大隅・日向の領有を認め、日向のうち那賀郡を伊東祐平に与えることとし、
ここに九州の平定が成っています。
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わたしが見えますか?

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薩摩方では退却の途中、和戦いずれを選ぶかを議したが容易には決しなかったという。
日向方面においては、先鋒・秀長の軍が進撃し、4月21日、伊集院忠棟は島津義久らの罪を陳
謝して秀長陣に来た。
鶴丸城(鹿児島城) (鶴丸城登城記は「こちら」です。)

秀吉は5月3日、義久の使者・河野通貞の降伏を申し出をも聞いて受け入れたので、5月8日義
久は剃髪僧衣を身に着け竜伯と号して、降伏して大平寺において会見し、義弘・歳久・家久らも
またそれぞれ人質を献じ、秀吉は一人残らず首をはねるというようなことはせず、9日にはあっ
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九州平定 その35
九州平定 その34
『島津軍の撤退』
3月15日、羽柴秀長・蜂須賀家政・黒田官兵衛・毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・宇喜多秀
家の軍は豊後兵とともに、夜雨と乗じて逃げ去る島津軍を府内から駆逐し、大野郡松尾山などを
要撃した。
府内城 (府内城登城記は「こちら」です。)

27日には島津家久の軍が兵を引いて薩摩に帰り、28日には秀吉みずから小倉城に兵をすすめ、
29日豊前馬嶽に陣し、兵5万をもって秋月種実・種長を攻めた。
九州征伐の手はじめということで蒲生氏郷・前田利長も参戦し、大勝した。
機動戦の訓練をよく積み、足軽にも鉄砲を持たせるほどに装備のよい秀吉方の大軍は、戦術にも
勝れていたから、九州の武将では歯がたたなかったという。
秋月種実は楢柴の小壺を献じ、剃髪僧衣をつけて降服した。
この日、秀吉は秋月城に移り、京都の右大臣・菊亭晴季・大納言・勧修寺晴豊・中山親綱に書を
呈して征西の事を奏上した。
このときすでに、豊前・豊後・肥前・筑前の北九州4ヵ国において、草木をなぎ伏す如く敵する
ものはいなくなっていた。
島津氏は秀吉の武威に怖れ、兵を引いて薩摩に退却することとなった。
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3月15日、羽柴秀長・蜂須賀家政・黒田官兵衛・毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・宇喜多秀
家の軍は豊後兵とともに、夜雨と乗じて逃げ去る島津軍を府内から駆逐し、大野郡松尾山などを
要撃した。
府内城 (府内城登城記は「こちら」です。)

27日には島津家久の軍が兵を引いて薩摩に帰り、28日には秀吉みずから小倉城に兵をすすめ、
29日豊前馬嶽に陣し、兵5万をもって秋月種実・種長を攻めた。
九州征伐の手はじめということで蒲生氏郷・前田利長も参戦し、大勝した。
機動戦の訓練をよく積み、足軽にも鉄砲を持たせるほどに装備のよい秀吉方の大軍は、戦術にも
勝れていたから、九州の武将では歯がたたなかったという。
秋月種実は楢柴の小壺を献じ、剃髪僧衣をつけて降服した。
この日、秀吉は秋月城に移り、京都の右大臣・菊亭晴季・大納言・勧修寺晴豊・中山親綱に書を
呈して征西の事を奏上した。
このときすでに、豊前・豊後・肥前・筑前の北九州4ヵ国において、草木をなぎ伏す如く敵する
ものはいなくなっていた。
島津氏は秀吉の武威に怖れ、兵を引いて薩摩に退却することとなった。
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