小田原平定 その33
『あっぱれ!韮山城は500人で死守』
別動隊の堀秀政らも、その予定どおりに日金山を越え、根府川の要害を撃破し、早川方面より
小田原城に迫った。
韮山城・・・この富士山を見ながら、氏規は韮山城を死守したのでしょうか。
(韮山城登城記は「こちら」です。)

韮山城に向かった織田信雄らは、4万余りの軍兵で早雲以来の要害を攻めたが、守将・氏規は
防戦よく、なかなか攻略できなかった。
そこで秀吉は、韮山城を持久包囲することにして、主力を小田原に招き、韮山城は蜂須賀家政
・福島正則らのみを残すことにした。
それにしても氏規はわずか500人に満たない兵力で4万余の大軍に包囲されながら、ついに
落城することもなく6月24日に至って開城したことは、北条一家中の傑物であった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
別動隊の堀秀政らも、その予定どおりに日金山を越え、根府川の要害を撃破し、早川方面より
小田原城に迫った。
韮山城・・・この富士山を見ながら、氏規は韮山城を死守したのでしょうか。
(韮山城登城記は「こちら」です。)

韮山城に向かった織田信雄らは、4万余りの軍兵で早雲以来の要害を攻めたが、守将・氏規は
防戦よく、なかなか攻略できなかった。
そこで秀吉は、韮山城を持久包囲することにして、主力を小田原に招き、韮山城は蜂須賀家政
・福島正則らのみを残すことにした。
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落城することもなく6月24日に至って開城したことは、北条一家中の傑物であった。
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小田原平定 その32
『山中城半日で落城』
韮崎城攻略の総大将は織田信雄、しれに蜂須賀家政・福島正則・蒲生氏郷・仙石秀久・森忠政
・細川忠興らが従った。
羽柴秀次(1568-1595年)

山中城攻略の総大将は羽柴秀次、これに中村一氏・田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末
らが従った。
なお、別動隊として山中城の南方から伊豆日金方面に堀秀政・丹波長重らが向かい、山中城北
方から箱根に向けて家康の軍勢が進撃することになった。
合戦は3月29日に正午には終わった。
山中城の守将・松田康長は戦死し、北条方の敗兵は箱根・小田原に退いた。
家康は、箱根でこの敗走兵を討ち、鷹巣城を攻略して宮城野方面に進撃した。
氏政・氏直らが頼みとした山中城は、たった半日にして氏政方の敗北に終わった。
秀吉は、この山中城の緒戦の勝利を、つぎのように諸将に報告している。
きつと筆を染め候。中納言(秀次)山中城へ今日29午刻取り懸り、即時に乗り崩す。城主(
康長)の事は申すに及ばず、首千余討ち捕り、そのほか追い討ち数を知らず候。しからば明日
朔日(ついたち)、箱根山峠へ陣取りをなし、小田原面(おもて)に至り、手遺りせしぬべく
候条、落居程あるべからず。なほよき左右、申し聞かすべく候。
3月29日 (秀吉朱印)
羽柴新庄侍従どのへ
秀吉の得意顔が見えるような一文です。
秀次・秀吉の軍兵は、4月1日には箱根に入り、4月6日には湯本に入り、北条氏の菩提寺であ
る早雲寺を本陣とした。
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・細川忠興らが従った。
羽柴秀次(1568-1595年)

山中城攻略の総大将は羽柴秀次、これに中村一氏・田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末
らが従った。
なお、別動隊として山中城の南方から伊豆日金方面に堀秀政・丹波長重らが向かい、山中城北
方から箱根に向けて家康の軍勢が進撃することになった。
合戦は3月29日に正午には終わった。
山中城の守将・松田康長は戦死し、北条方の敗兵は箱根・小田原に退いた。
家康は、箱根でこの敗走兵を討ち、鷹巣城を攻略して宮城野方面に進撃した。
氏政・氏直らが頼みとした山中城は、たった半日にして氏政方の敗北に終わった。
秀吉は、この山中城の緒戦の勝利を、つぎのように諸将に報告している。
きつと筆を染め候。中納言(秀次)山中城へ今日29午刻取り懸り、即時に乗り崩す。城主(
康長)の事は申すに及ばず、首千余討ち捕り、そのほか追い討ち数を知らず候。しからば明日
朔日(ついたち)、箱根山峠へ陣取りをなし、小田原面(おもて)に至り、手遺りせしぬべく
候条、落居程あるべからず。なほよき左右、申し聞かすべく候。
3月29日 (秀吉朱印)
羽柴新庄侍従どのへ
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秀次・秀吉の軍兵は、4月1日には箱根に入り、4月6日には湯本に入り、北条氏の菩提寺であ
る早雲寺を本陣とした。
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小田原平定 その31
『山中城』
山中城は、三島の東北8km、箱根町の西南6kmの地点にあった。
本丸・二ノ丸・三ノ丸の曲輪があり、城南に岱崎(たいざき)という出丸があった。
山中城 (山中城登場記は「こちら」です。)

北条氏政らは、天正14年(1586年)ごろから、この築城をはじめていた。
秀吉は沼津に着いた翌日(3月28日)、家康とともに山中城西方の高地にのぼって、山中城
の地形を視察した。
そして家康の長久保城に入って戦略を討議したという。
秀吉はいう
「北条方は、山中と韮崎の両城で、箱根の険を扼し、主力は出戦する模様がない。こころみに
この両城を攻めてみたらどうか」
家康は、この秀吉の作戦に賛成し、全軍を4つに分けて、山中・韮崎両城を攻略することにし
た。
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山中城 (山中城登場記は「こちら」です。)

北条氏政らは、天正14年(1586年)ごろから、この築城をはじめていた。
秀吉は沼津に着いた翌日(3月28日)、家康とともに山中城西方の高地にのぼって、山中城
の地形を視察した。
そして家康の長久保城に入って戦略を討議したという。
秀吉はいう
「北条方は、山中と韮崎の両城で、箱根の険を扼し、主力は出戦する模様がない。こころみに
この両城を攻めてみたらどうか」
家康は、この秀吉の作戦に賛成し、全軍を4つに分けて、山中・韮崎両城を攻略することにし
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小田原平定 その30
『後北条氏の防衛線』
後北条氏の分国の西境は駿河で、駿河は家康の分国であった。
この家康の分国内に侵入して、秀吉の東征軍を迎え撃つことは、家康の縁者である氏政父子に
は、とうてい考えられない策であった。
山中城

<クリックで拡大します>
このために氏政らは、秀吉の東征軍を防ぐ場所として、箱根と伊豆の自領内の諸城の構築と修
補に重点をおかざるをえなかった。
とりわけ後北条氏が重要視した城は、山中・足柄・韮山の3城であった。
氏政らは、天正17年(1589年)12月8日、旗本衆に対して出陣命令を出した。
それは
「明春(天正18年)正月の3ヵ日過ぎたら、4日には各在所を出発して、小田原に参集せよ」
というものであった。
小田原城以外の各支城も、だいたいこの本城と歩調をあわせていた。
この参集した軍兵を、氏政らは伊豆・箱根方面に配置した。
韮山城には北条氏規、獅子浜城は大石直久、安良里城は梶原景宗と三浦茂信ら、田子城は山本
常任らが守った。
また下田城の守将は、清水康英であった。
箱根方面では、山中城に老臣・松田憲秀が派遣され、玉縄城主・北条氏勝らが従った。
足柄城には佐野氏忠、新庄城には遠山景政が派遣されたという。
北条氏方の軍兵配備の正確な史料は、後北条氏が滅亡したこともあり、残っていません。
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は、とうてい考えられない策であった。
山中城

<クリックで拡大します>
このために氏政らは、秀吉の東征軍を防ぐ場所として、箱根と伊豆の自領内の諸城の構築と修
補に重点をおかざるをえなかった。
とりわけ後北条氏が重要視した城は、山中・足柄・韮山の3城であった。
氏政らは、天正17年(1589年)12月8日、旗本衆に対して出陣命令を出した。
それは
「明春(天正18年)正月の3ヵ日過ぎたら、4日には各在所を出発して、小田原に参集せよ」
というものであった。
小田原城以外の各支城も、だいたいこの本城と歩調をあわせていた。
この参集した軍兵を、氏政らは伊豆・箱根方面に配置した。
韮山城には北条氏規、獅子浜城は大石直久、安良里城は梶原景宗と三浦茂信ら、田子城は山本
常任らが守った。
また下田城の守将は、清水康英であった。
箱根方面では、山中城に老臣・松田憲秀が派遣され、玉縄城主・北条氏勝らが従った。
足柄城には佐野氏忠、新庄城には遠山景政が派遣されたという。
北条氏方の軍兵配備の正確な史料は、後北条氏が滅亡したこともあり、残っていません。
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小田原平定 その29
『後北条氏の誤算』
天正16年(1588年)に、刀狩りを終えて、鉄砲と大筒という近代兵器とその戦術によって、
十分に訓練された秀吉の武士と農民の実情を、不幸にしも北条氏政と氏直は理解することが出来
なかった。
北条氏政(1538-1590年)

それに加えて氏政らは、家康の人間とその領国政策をも十分理解していなかった。
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5ヵ国の東海の大名となった家康が、ここ数か年の間に、いか
に領国支配の確立に専念したかも、さらには、その家康でさえ秀吉と妥協してこそ自立の道があ
ることを悟っていたことも、氏政らには認識することができなかった。
これらの点に、氏政・氏直らの誤算があった。
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なかった。
北条氏政(1538-1590年)

それに加えて氏政らは、家康の人間とその領国政策をも十分理解していなかった。
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5ヵ国の東海の大名となった家康が、ここ数か年の間に、いか
に領国支配の確立に専念したかも、さらには、その家康でさえ秀吉と妥協してこそ自立の道があ
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小田原平定 その28
『後北条氏の準備』
北条氏政と氏直は、すでに佐竹義重が秀吉と連絡しはじめた、天正10年(1582年)の頃か
ら、秀吉の東征を予測し始めてという。
小田原城馬出

諸城を修築し、兵を集め、武器を造らせて、兵力補充の策を準備していたのも、そのためであっ
た。
特に関東の各社寺の梵鐘を徴発したり、15歳より70歳までの男子の総動員計画を発表(天正
15年)、小田原に鋳物師を集めて、大磯の土を運んで、鉄砲の玉や大筒の鋳造を命じたりした。
氏政らは、たとえ秀吉の東征軍が北上してこようとも、後北条氏には5代に渡る武士と農民の堅
い結びつきがあり、かつ箱根山という天下一の天然の要害があるから、十分これにできると考え
ていたのです。
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小田原城馬出

諸城を修築し、兵を集め、武器を造らせて、兵力補充の策を準備していたのも、そのためであっ
た。
特に関東の各社寺の梵鐘を徴発したり、15歳より70歳までの男子の総動員計画を発表(天正
15年)、小田原に鋳物師を集めて、大磯の土を運んで、鉄砲の玉や大筒の鋳造を命じたりした。
氏政らは、たとえ秀吉の東征軍が北上してこようとも、後北条氏には5代に渡る武士と農民の堅
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小田原平定 その27
『家康逆心の流言』
秀吉は、進発の日は大津に泊まり、近江八幡(3日)・柏原(4日)・大垣(5日)・清洲(6
日)・吉田(10日)をへて、3月19日には駿府城に入った。
家康は20日、駿府城に秀吉を訪ねて饗応し、22日には、ふたたび長久保城に帰った。
秀吉は清見寺(3月23日)・吉原(3月26日)を通って、3月27日沼津の三枚橋城に入っ
た。
三枚橋城址(沼津城址)

この城は、沼津駅の南方に位置し、狩野川にのぞんだ北豆の要害であった。
家康は、秀吉が三枚橋城に着いたときには、織田信雄とともに秀吉を出迎えたという。
このころ家康と信雄が、秀吉を殺そうとしているという流言が飛んだという。
そのために家康と信雄が秀吉を出迎えると、秀吉は馬から降りるなり、太刀に手をかけ
「信雄と家康とに逆心ありときく、一太刀参ろうぞ」
と、叫んだという。
信雄は驚いたが、家康は少しもあわてず、左右の者ども
「関白殿が、合戦はじめに御太刀に手をかけられたことは、誠にめでたいことである。お祝い申
し上げよ」
と、笑って受け流したので、秀吉も安心したという話が伝わります。
家康の周辺には、督姫の存在のためか、小田原合戦の対陣中も家康謀反の流言が、しばしば流布
したという。
秀吉も少しは、この流言を気にしていたのでしょう。
翌28日、秀吉は家康とともに、山中城の地形を巡視した。
こうして北条討伐の緒戦は、目の前に迫ったのです。
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日)・吉田(10日)をへて、3月19日には駿府城に入った。
家康は20日、駿府城に秀吉を訪ねて饗応し、22日には、ふたたび長久保城に帰った。
秀吉は清見寺(3月23日)・吉原(3月26日)を通って、3月27日沼津の三枚橋城に入っ
た。
三枚橋城址(沼津城址)

この城は、沼津駅の南方に位置し、狩野川にのぞんだ北豆の要害であった。
家康は、秀吉が三枚橋城に着いたときには、織田信雄とともに秀吉を出迎えたという。
このころ家康と信雄が、秀吉を殺そうとしているという流言が飛んだという。
そのために家康と信雄が秀吉を出迎えると、秀吉は馬から降りるなり、太刀に手をかけ
「信雄と家康とに逆心ありときく、一太刀参ろうぞ」
と、叫んだという。
信雄は驚いたが、家康は少しもあわてず、左右の者ども
「関白殿が、合戦はじめに御太刀に手をかけられたことは、誠にめでたいことである。お祝い申
し上げよ」
と、笑って受け流したので、秀吉も安心したという話が伝わります。
家康の周辺には、督姫の存在のためか、小田原合戦の対陣中も家康謀反の流言が、しばしば流布
したという。
秀吉も少しは、この流言を気にしていたのでしょう。
翌28日、秀吉は家康とともに、山中城の地形を巡視した。
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