奥州仕置 その8
『秀吉の会津入り』
7月5日に小田原城は落城し、8月9日、秀吉は会津に入り興徳寺に落ち着いた。
そうして奥羽諸大名の仕置を決定し、8月13日、会津を出発、帰途についた。
豊臣秀次(1568-1595年)

秀吉の会津下向には、徳川家康・豊臣秀次・前田利家をはじめ、天下の有力な部将が随行し、
それに佐竹・上杉・伊達らの東北地方の大名軍も付き、総兵力は20万人といわれ、たとえ戦闘
はなくとも、天下統一の武威を誇示するには十分であったという。
東北の歴史にとっては、源頼朝の平泉征伐以来の重大なできごとであったのでしょう。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
7月5日に小田原城は落城し、8月9日、秀吉は会津に入り興徳寺に落ち着いた。
そうして奥羽諸大名の仕置を決定し、8月13日、会津を出発、帰途についた。
豊臣秀次(1568-1595年)

秀吉の会津下向には、徳川家康・豊臣秀次・前田利家をはじめ、天下の有力な部将が随行し、
それに佐竹・上杉・伊達らの東北地方の大名軍も付き、総兵力は20万人といわれ、たとえ戦闘
はなくとも、天下統一の武威を誇示するには十分であったという。
東北の歴史にとっては、源頼朝の平泉征伐以来の重大なできごとであったのでしょう。
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奥州仕置 その7
奥州仕置 その6
『政宗、小田原に参陣』
天正18年(1590年)2月に入り、東征の諸軍はすでに出発し、3月朔日、秀吉も京都を出
発し東に向かったので、政宗としても決意を迫られる時がきた。
金沢城の前田利家

前田利家・浅野長政・木村清久・和久宗是らからは参陣の催促があり、軍議を重ねた結果、3月
26日、小田原へ出発と決めた。
しかし、北方の大崎氏・東の相馬氏・南の佐竹氏が兵を動かす気配を示し、加えて4月5日には
生母・最上氏が、弟・小次郎の擁立を計り、政宗を毒殺しようとする事件が発生した。
東征軍の外圧により、伊達領は内部から崩壊する危険を生じたのです。
一方、小田原の落城も近づいたので、5月9日、政宗は片倉景綱らを従えて出発、越後・信濃を
廻って6月5日、小田原に到着した。
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天正18年(1590年)2月に入り、東征の諸軍はすでに出発し、3月朔日、秀吉も京都を出
発し東に向かったので、政宗としても決意を迫られる時がきた。
金沢城の前田利家

前田利家・浅野長政・木村清久・和久宗是らからは参陣の催促があり、軍議を重ねた結果、3月
26日、小田原へ出発と決めた。
しかし、北方の大崎氏・東の相馬氏・南の佐竹氏が兵を動かす気配を示し、加えて4月5日には
生母・最上氏が、弟・小次郎の擁立を計り、政宗を毒殺しようとする事件が発生した。
東征軍の外圧により、伊達領は内部から崩壊する危険を生じたのです。
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奥州仕置 その5
『攻略あるのみの政宗』
伊達政宗は、表面は恭順の意を示しているにもかかわらず、天正17年に会津に攻め入り、芦名
氏を滅ぼしたのですから、秀吉の立腹を買ったのは当然であった。
青葉城の政宗

7月3日には秀吉の使者が会津に到着、13日には前田利家らから情報がもたらされた。
政宗は使者を上京させ、浅井長政に会って弁解を行ったが、11月に至り、浅野長政・木村清久
らは政宗に書を送り、自身上洛して秀吉に陳謝すべしと勧めた。
しかし、一方では、この頃、政宗は北条氏の使者を迎え、連絡を密にしていたから、小田原の役
を目前にしての政宗の立場は複雑であった。
天正17年末における政宗の心境は、奥羽の他の大名のように、一日も早く上洛したいというの
ではなく、18年の初頭を期して、年来の宿敵・佐竹氏を討ち、返す刃で相馬氏を滅亡させよう
と計画していたのです。
北条氏との好みも、佐竹氏討伐のための布石で、政宗としては秀吉の東征軍が出発しないうちに、
できるだけ広く領土を拡大したいと考えていたのです。
当時24歳の政宗にとって、攻略はあっても帰服という文字は存在しなかったのでしょう。
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伊達政宗は、表面は恭順の意を示しているにもかかわらず、天正17年に会津に攻め入り、芦名
氏を滅ぼしたのですから、秀吉の立腹を買ったのは当然であった。
青葉城の政宗

7月3日には秀吉の使者が会津に到着、13日には前田利家らから情報がもたらされた。
政宗は使者を上京させ、浅井長政に会って弁解を行ったが、11月に至り、浅野長政・木村清久
らは政宗に書を送り、自身上洛して秀吉に陳謝すべしと勧めた。
しかし、一方では、この頃、政宗は北条氏の使者を迎え、連絡を密にしていたから、小田原の役
を目前にしての政宗の立場は複雑であった。
天正17年末における政宗の心境は、奥羽の他の大名のように、一日も早く上洛したいというの
ではなく、18年の初頭を期して、年来の宿敵・佐竹氏を討ち、返す刃で相馬氏を滅亡させよう
と計画していたのです。
北条氏との好みも、佐竹氏討伐のための布石で、政宗としては秀吉の東征軍が出発しないうちに、
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当時24歳の政宗にとって、攻略はあっても帰服という文字は存在しなかったのでしょう。
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奥州仕置 その4
『上洛しない政宗』
伊達政宗は天正12年(1584年)に18歳で家督を継いだが、当時はすでに信長は亡く、秀吉の
時代になっていた。
伊達政宗(1567-1637年)

秀吉は天正14年6月、田村清顕に意を通じ、伊達・芦名・田村3家の争いをやめ、すみやかに上
洛するよう勧告している。
同15年9月、政宗は秀吉に馬を献じ、同16年の初めにも使者を遣わし、9月には秀吉から上洛の
催促があり、鷹を献上している。
10月には、徳川家康が秀吉の意を受けて、政宗が近隣諸国と争うことを止めるよう忠告した
という。
このころの政宗は家康にも物を贈り、好みを通じたという。
天正17年3月、秀吉はまたまた上洛を促し、政宗は使者を送り、鷹を献上しています。
このように政宗も一応は秀吉に使者を送り、物を献じ、秀吉も17年6月には太刀を贈って志を賞した
ほどであった。
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時代になっていた。
伊達政宗(1567-1637年)

秀吉は天正14年6月、田村清顕に意を通じ、伊達・芦名・田村3家の争いをやめ、すみやかに上
洛するよう勧告している。
同15年9月、政宗は秀吉に馬を献じ、同16年の初めにも使者を遣わし、9月には秀吉から上洛の
催促があり、鷹を献上している。
10月には、徳川家康が秀吉の意を受けて、政宗が近隣諸国と争うことを止めるよう忠告した
という。
このころの政宗は家康にも物を贈り、好みを通じたという。
天正17年3月、秀吉はまたまた上洛を促し、政宗は使者を送り、鷹を献上しています。
このように政宗も一応は秀吉に使者を送り、物を献じ、秀吉も17年6月には太刀を贈って志を賞した
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奥州仕置 その3
『東北の諸大名も小田原征伐の参陣』
東北の諸大名も、大なり小なり中央の情勢には関心を持っていたから、秀吉が小田原征伐に参陣
を求めると、最上義光・津軽為信・秋田実季・小野寺義道・南部信直・戸沢盛安・羽州由利党の
諸氏などは、いち早く小田原に駆けつけ、また常陸の佐竹義宜・奥州街道筋の岩城常隆・相馬義
胤も、北条氏の領内を通過して参陣した。
津軽為信(1550-1608年)

このようななか問題は、奥州最大の実力者・伊達政宗の去就にかかっていた。
伊達政宗の父・輝宗は、織田信長に物を贈り好みを通じていた。
伊達氏の先代は足利将軍に参謁してへん諱を受けるのが例であり、東北の諸大名の中では、むし
ろ最も早くから中央と連絡を取ってきた大名であった。
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モグラではありません! tiggerです。

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東北の諸大名も、大なり小なり中央の情勢には関心を持っていたから、秀吉が小田原征伐に参陣
を求めると、最上義光・津軽為信・秋田実季・小野寺義道・南部信直・戸沢盛安・羽州由利党の
諸氏などは、いち早く小田原に駆けつけ、また常陸の佐竹義宜・奥州街道筋の岩城常隆・相馬義
胤も、北条氏の領内を通過して参陣した。
津軽為信(1550-1608年)

このようななか問題は、奥州最大の実力者・伊達政宗の去就にかかっていた。
伊達政宗の父・輝宗は、織田信長に物を贈り好みを通じていた。
伊達氏の先代は足利将軍に参謁してへん諱を受けるのが例であり、東北の諸大名の中では、むし
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奥州仕置 その2
『奥州の大名たち』
一方、津軽為信はもと大浦氏を称し、南部氏の家臣であったが、独立して津軽を独占した。
最上義光(1546-1614年)

当時の南部氏の津軽郡代は南部信直の父・髙信であり、為信と信直はいわば仇敵の間柄であった
が、彼も自分の地位を中央政権によって保証してもらうために、天正17年(1589年)に使
者を秀吉のもとに送り、馬や鷹を献上し臣従を誓った。
同18年(1590年)2月には、同盟者・最上義光の勧めによって、従者18人を連れて京都
に上り、3月27日、東海道・沼津宿で秀吉の謁し、宿願の所領安堵を得た。
為信の不義を陳情しようとした南部信直は、ひと足先を越されて目的を達成することができなか
った。
最上義光も上杉氏と庄内の領有を争ったことから、徳川家康を通じて天正17年以来、秀吉と接
近しており、中央情勢には敏感な大名のひとりであった。
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一方、津軽為信はもと大浦氏を称し、南部氏の家臣であったが、独立して津軽を独占した。
最上義光(1546-1614年)

当時の南部氏の津軽郡代は南部信直の父・髙信であり、為信と信直はいわば仇敵の間柄であった
が、彼も自分の地位を中央政権によって保証してもらうために、天正17年(1589年)に使
者を秀吉のもとに送り、馬や鷹を献上し臣従を誓った。
同18年(1590年)2月には、同盟者・最上義光の勧めによって、従者18人を連れて京都
に上り、3月27日、東海道・沼津宿で秀吉の謁し、宿願の所領安堵を得た。
為信の不義を陳情しようとした南部信直は、ひと足先を越されて目的を達成することができなか
った。
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