奥州仕置 その32
『南部信直局面打開できず』
『南部史要』によると、攻撃を開始したのは、当主・南部信直の方で、天正19年(1591年)
正月17日に、世子利直・南康義・七戸直勝・東重政らを率い、大挙して九戸政実の宮野城を攻
めた。
南部信直(1546-1599年)

しかし攻撃は失敗して三戸に帰ると、今度は政実かたの櫛引清長が南盛義の清水城を攻め、3月
13日には九戸政実みずから将となり、櫛引清長・七戸家国らの軍を率いて出陣、又重・苫米地
・浄法寺・島森などの城堡をめぐって攻防戦を展開したが、政実かたの一戸城は信直の軍隊を引
き寄せて頑強に死守したから、形勢はようやく持久態勢となり、領内の有力な家臣の動向も微妙
になってきた。
根城の八戸氏・剣吉城の北氏・名久井城の東氏・野田城の野田氏などは信直かたであったが、鹿
角・閉伊・志波方面の館主らは政実に味方し、または態度を保留する者が多く、信直としては、
この局面を打開するためには、中央の援軍を求めるほかに打つ手がなかった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
『南部史要』によると、攻撃を開始したのは、当主・南部信直の方で、天正19年(1591年)
正月17日に、世子利直・南康義・七戸直勝・東重政らを率い、大挙して九戸政実の宮野城を攻
めた。
南部信直(1546-1599年)

しかし攻撃は失敗して三戸に帰ると、今度は政実かたの櫛引清長が南盛義の清水城を攻め、3月
13日には九戸政実みずから将となり、櫛引清長・七戸家国らの軍を率いて出陣、又重・苫米地
・浄法寺・島森などの城堡をめぐって攻防戦を展開したが、政実かたの一戸城は信直の軍隊を引
き寄せて頑強に死守したから、形勢はようやく持久態勢となり、領内の有力な家臣の動向も微妙
になってきた。
根城の八戸氏・剣吉城の北氏・名久井城の東氏・野田城の野田氏などは信直かたであったが、鹿
角・閉伊・志波方面の館主らは政実に味方し、または態度を保留する者が多く、信直としては、
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奥州仕置 その31
『政治の空白を狙う』
九戸政実は南部氏内の実力者で、当主・信直が家督を継いだ時も、領内は政実派と信直派に分
かれて対立し、大勢はむしろ政実に有利であったのを、北信愛(きたのぶちか)が強硬に信直
を推して、信直の家督相続が決定していたのです。
九戸城

従って、この頃から信直と政実は反目しており、政実はその手腕力量によって南部氏が津軽問
題で失敗したのも両者の対立が原因となっている。
しかし、信直はすでに秀吉にも参謁し、南部の領主として認可を受けているから、政実がいか
に内部で実力があっても、信直に反逆することはすなわち天下の勢力に反抗することになり、
反乱の烙印をおされることになるのです。
そのような危険をおかして政実が一揆を起こしたのは、両者の対立がとうてい和解しえないほ
ど悪化していたこと、秀吉の第1回仕置は大崎・葛西一揆の発生で、事実上崩壊し、第2回仕
置を行なわなければならない状態であったから、この際に信直を倒せば、南部家を乗っ取るこ
とができると判断したこと、などの理由から政実は、大崎・葛西一揆の後、伊達政宗も上洛し、
中央軍も撤退して、一時、奥州の政治が空白になった時期を狙い、反旗をひるがえしたのでし
ょう。
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九戸政実は南部氏内の実力者で、当主・信直が家督を継いだ時も、領内は政実派と信直派に分
かれて対立し、大勢はむしろ政実に有利であったのを、北信愛(きたのぶちか)が強硬に信直
を推して、信直の家督相続が決定していたのです。
九戸城

従って、この頃から信直と政実は反目しており、政実はその手腕力量によって南部氏が津軽問
題で失敗したのも両者の対立が原因となっている。
しかし、信直はすでに秀吉にも参謁し、南部の領主として認可を受けているから、政実がいか
に内部で実力があっても、信直に反逆することはすなわち天下の勢力に反抗することになり、
反乱の烙印をおされることになるのです。
そのような危険をおかして政実が一揆を起こしたのは、両者の対立がとうてい和解しえないほ
ど悪化していたこと、秀吉の第1回仕置は大崎・葛西一揆の発生で、事実上崩壊し、第2回仕
置を行なわなければならない状態であったから、この際に信直を倒せば、南部家を乗っ取るこ
とができると判断したこと、などの理由から政実は、大崎・葛西一揆の後、伊達政宗も上洛し、
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奥州仕置 その30
『土民の蜂起』
大崎・葛西一揆の勃発は、出羽方面にも波乱を生じさせ、天正18年(1590年)10月20
日、一揆発生後まもなく、庄内方面を仕置して帰還しようとする上杉景勝・大谷吉継に対し、土
民が蜂起して襲撃を行なった。
上杉景勝(1556-1623年)

庄内は上杉氏の所有で、景勝は大浦・大宝寺・藤島・東漸寺の各域に家臣を配置していたが、土
寇(どこう)は各地で一揆を起こし、上杉氏の家臣は大浦に集まって防ぎ、景勝も大浦に入り、
ようやく一揆を平定して11月、景勝は帰国した。
しかし、この時は大浦付近の一揆を破ったのみで、藤島方面の一揆はいぜん城を占領して対抗し、
上杉氏も手を焼いたという。
翌19年5月、直江兼続が庄内に入って藤島城を攻略し、大宝寺城の修築を行ない、はじめて庄
内の治安は復活した。
これは伊達政宗の宮崎・佐沼攻撃に先立つ1ヵ月であった。
しかし、葛西・大崎一揆の連鎖反応としても、もっとも重大な事件は南部領に発生した九戸政実
の反乱であった。
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日、一揆発生後まもなく、庄内方面を仕置して帰還しようとする上杉景勝・大谷吉継に対し、土
民が蜂起して襲撃を行なった。
上杉景勝(1556-1623年)

庄内は上杉氏の所有で、景勝は大浦・大宝寺・藤島・東漸寺の各域に家臣を配置していたが、土
寇(どこう)は各地で一揆を起こし、上杉氏の家臣は大浦に集まって防ぎ、景勝も大浦に入り、
ようやく一揆を平定して11月、景勝は帰国した。
しかし、この時は大浦付近の一揆を破ったのみで、藤島方面の一揆はいぜん城を占領して対抗し、
上杉氏も手を焼いたという。
翌19年5月、直江兼続が庄内に入って藤島城を攻略し、大宝寺城の修築を行ない、はじめて庄
内の治安は復活した。
これは伊達政宗の宮崎・佐沼攻撃に先立つ1ヵ月であった。
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スマート プラグ交換
『点検結果は大丈夫』
smat fortwoがわが家にやってきて2年が経過しましたので、未点検だった点火プラグの点検を
行ないました。
1年半前の車検の時は、大丈夫とのことでしたが・・・。

今回、用意したものは以下のとおりで、3気筒で600ccのエンジンながら点火プラグは6本
必要です。
中央のSST(ケーブルプーラー)は必至の工具です。

必須といえば、コンプレッサも絶対に必須のようです。
プラグ周りのゴミを飛ばさないと、プラグを抜くことができません。

スマートはRRですから、リアの狭い場所にエンジンを押し込んであります。
赤〇が上部側のプラグ3本です。

下側のプラグは、後部バンパーを外さないと顔をみせてくれません。
先輩諸氏のブログを参考にさせていただき、バンパーを外していきます。

下部プラグがやっと顔を出してくれました。

ケーブルプーラを使用して、上部側プラグコードを抜きました。
この工具は、プラグコードを差し込む時も利用できますので、重宝な工具です。
でも、簡単にできといる工具ですけど、安くなかったと思います。

下部側はコード類があるため、作業性が悪いです。

この車は、近所に買い物に行くくらいしか使用していませんので、プラグは殆ど摩耗
していませんでした。
上下のプラグとも、こんがりキツネ色に焼けていてエンジンのコンデションもいいよう
です。

焼き付き防止用のスレッドコンパウンドを塗って、再セットです。
プラグの寿命は3.5万kmとか、購入したプラグは、あと1万kmくらい走行したら交換しま
しょう^^

バンパーを付ける前に、エンジンをかけて異常ないかの確認です。

走行確認して、完了です。

もう、そろそろエンジンオイルの交換時期ですので、次回はオイル交換をします。
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今回、用意したものは以下のとおりで、3気筒で600ccのエンジンながら点火プラグは6本
必要です。
中央のSST(ケーブルプーラー)は必至の工具です。

必須といえば、コンプレッサも絶対に必須のようです。
プラグ周りのゴミを飛ばさないと、プラグを抜くことができません。

スマートはRRですから、リアの狭い場所にエンジンを押し込んであります。
赤〇が上部側のプラグ3本です。

下側のプラグは、後部バンパーを外さないと顔をみせてくれません。
先輩諸氏のブログを参考にさせていただき、バンパーを外していきます。

下部プラグがやっと顔を出してくれました。

ケーブルプーラを使用して、上部側プラグコードを抜きました。
この工具は、プラグコードを差し込む時も利用できますので、重宝な工具です。
でも、簡単にできといる工具ですけど、安くなかったと思います。

下部側はコード類があるため、作業性が悪いです。

この車は、近所に買い物に行くくらいしか使用していませんので、プラグは殆ど摩耗
していませんでした。
上下のプラグとも、こんがりキツネ色に焼けていてエンジンのコンデションもいいよう
です。

焼き付き防止用のスレッドコンパウンドを塗って、再セットです。
プラグの寿命は3.5万kmとか、購入したプラグは、あと1万kmくらい走行したら交換しま
しょう^^

バンパーを付ける前に、エンジンをかけて異常ないかの確認です。

走行確認して、完了です。

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奥州仕置 その29
『第2回仕置』
第2回の仕置には、豊臣秀次・徳川家康・上杉景勝のほかに、浅野長政・大谷吉継・石田三成
も従軍した。
石田三成(1560-1600年)

家康は9月に岩手沢・佐沼を巡見して、両城の縄張りをし、10月27日帰途についた。
石田三成は9月に江刺・気仙・東磐井方面に入って諸城を収め、大谷吉継もこの方面に出張し
ていたようです。
この乱に際し稗貫広忠は、胆沢郡平泉に入って一揆軍と対立したが、一揆軍のため攻め滅ぼさ
れ、稗貫氏独立の願望は達せられなかった。
葛西晴信は木村氏の治下においては、桃生方面に居住し。御家再興の運動をつづけたが、この
地方が伊達領となり、政宗もここを本拠とせざるえない立場になったので、晴信の存在も不安
定となり、間もなく金沢に移り、そこで没したらしい。
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第2回の仕置には、豊臣秀次・徳川家康・上杉景勝のほかに、浅野長政・大谷吉継・石田三成
も従軍した。
石田三成(1560-1600年)

家康は9月に岩手沢・佐沼を巡見して、両城の縄張りをし、10月27日帰途についた。
石田三成は9月に江刺・気仙・東磐井方面に入って諸城を収め、大谷吉継もこの方面に出張し
ていたようです。
この乱に際し稗貫広忠は、胆沢郡平泉に入って一揆軍と対立したが、一揆軍のため攻め滅ぼさ
れ、稗貫氏独立の願望は達せられなかった。
葛西晴信は木村氏の治下においては、桃生方面に居住し。御家再興の運動をつづけたが、この
地方が伊達領となり、政宗もここを本拠とせざるえない立場になったので、晴信の存在も不安
定となり、間もなく金沢に移り、そこで没したらしい。
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奥州仕置 その28
『政宗の移封』
8月6日、第2次仕置軍の総帥・豊臣秀次が、徳川家康とともに二本松に到着、浅野長政・蒲生
氏郷も参会し、政宗は一揆一掃の顛末を報告、9月23日、徳川家康の縄張りによる岩手沢城が
修築され、政宗は米沢からここに移った。
伊達政宗(1567-1636年)

米沢は伊達氏の故地であり、政宗はここを保有するためいろいろ運動したが、結局功を奏せず、
政宗の新領土は、葛西・大崎の旧領に、黒川・宮城・名取・柴田・伊具・亘理・宇多を加えた2
0郡となった。
一方、政宗から没収した置賜・伊達・信夫・安達・田村・刈田の6郡は蒲生氏郷の領土となり、
氏郷は奥羽最大の大名として睨みを効かすこととなった。
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いつもありがとうございます。
久しぶりに袖ケ浦海浜公園に行ってきました。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
8月6日、第2次仕置軍の総帥・豊臣秀次が、徳川家康とともに二本松に到着、浅野長政・蒲生
氏郷も参会し、政宗は一揆一掃の顛末を報告、9月23日、徳川家康の縄張りによる岩手沢城が
修築され、政宗は米沢からここに移った。
伊達政宗(1567-1636年)

米沢は伊達氏の故地であり、政宗はここを保有するためいろいろ運動したが、結局功を奏せず、
政宗の新領土は、葛西・大崎の旧領に、黒川・宮城・名取・柴田・伊具・亘理・宇多を加えた2
0郡となった。
一方、政宗から没収した置賜・伊達・信夫・安達・田村・刈田の6郡は蒲生氏郷の領土となり、
氏郷は奥羽最大の大名として睨みを効かすこととなった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
奥州仕置 その27
『政宗、一揆軍を掃討』
帰国した伊達政宗は6月11日、米沢を出陣し24日、笠原民部らが籠城する加美郡の宮崎城
を攻撃した。
城兵らはよく戦ったが、結局開城した。
片倉小十郎(1557-1615年)

政宗の大崎入りには、亘理元宗・留守政景・伊達成実・片倉景綱(小十郎)・鬼庭延元・原田
宗時・浜田景隆・後藤信康・中島宗求らの宿将らが従軍しており、伊達氏の精鋭たちであった。
6月27日、佐沼に進出、一揆は望んで降伏し、残りは全部佐沼城に集結したので、政宗は6
月28日から攻撃を開始した。
佐沼城は迫川に臨んだ要塞の地で、木村氏没落後一揆が占領し堅固に補修を加えていた。
政宗は西曲輪を西砂子山に陣を構え、鉄砲を揃えて撃ちかけ、7月3日、ついにこれを陥れた。
籠城の石川彦九郎兄弟をはじめ、殆ど全員が討死、政宗は前回の時とは異なり、徹底的な掃討
を加えたという。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
帰国した伊達政宗は6月11日、米沢を出陣し24日、笠原民部らが籠城する加美郡の宮崎城
を攻撃した。
城兵らはよく戦ったが、結局開城した。
片倉小十郎(1557-1615年)

政宗の大崎入りには、亘理元宗・留守政景・伊達成実・片倉景綱(小十郎)・鬼庭延元・原田
宗時・浜田景隆・後藤信康・中島宗求らの宿将らが従軍しており、伊達氏の精鋭たちであった。
6月27日、佐沼に進出、一揆は望んで降伏し、残りは全部佐沼城に集結したので、政宗は6
月28日から攻撃を開始した。
佐沼城は迫川に臨んだ要塞の地で、木村氏没落後一揆が占領し堅固に補修を加えていた。
政宗は西曲輪を西砂子山に陣を構え、鉄砲を揃えて撃ちかけ、7月3日、ついにこれを陥れた。
籠城の石川彦九郎兄弟をはじめ、殆ど全員が討死、政宗は前回の時とは異なり、徹底的な掃討
を加えたという。
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