厳島の戦い その10
『厳島』
厳島は広島湾の小島です。
広島市と岩国市の中間の大野から、大野瀬戸を隔てた海上4kmの対岸の島です。
厳島神社(厳島神社訪問記は「こちら」です。)

東西3.3km、南北10km、周囲およそ30km、西は安芸・周防の諸山に対し、東は厳
島海峡を隔てて能美島が見え、南ははるかに伊予を望む島です。
島の西北の弥山の麓に、平清盛が改築した厳島神社がある。
古くから瀬戸内海海上の要衝であって、戦国時代に入ると益々重要度を増していた。
毛利元就は、この厳島を戦場に選んでも陶晴賢が渡海するか心配であったという。
かつて大内の大軍が安芸へ出撃する場合には、岩国を出て、厳島を占領し、ここを根拠地とす
るのが順序であった。
晴賢が天文9年に、大内義隆の命によって、尼子軍に包囲されていた元就を救援したときも、
まず厳島へ渡った。
晴賢は先例に従って、必ず厳島を占領するに違いない。
59歳の元就は、吉田郡山城にいて、こう熟慮したという。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
厳島は広島湾の小島です。
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島海峡を隔てて能美島が見え、南ははるかに伊予を望む島です。
島の西北の弥山の麓に、平清盛が改築した厳島神社がある。
古くから瀬戸内海海上の要衝であって、戦国時代に入ると益々重要度を増していた。
毛利元就は、この厳島を戦場に選んでも陶晴賢が渡海するか心配であったという。
かつて大内の大軍が安芸へ出撃する場合には、岩国を出て、厳島を占領し、ここを根拠地とす
るのが順序であった。
晴賢が天文9年に、大内義隆の命によって、尼子軍に包囲されていた元就を救援したときも、
まず厳島へ渡った。
晴賢は先例に従って、必ず厳島を占領するに違いない。
59歳の元就は、吉田郡山城にいて、こう熟慮したという。
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厳島の戦い その9
『謀略戦は毛利の勝利』
それにしても江良房栄は本当に毛利に内応していたのであろうか、もし、内応が本当のもので
あれば、毛利の手で暗殺することができるからです。
それはともかく、房秀が殺され、陶晴賢はその右翼を削がれたことには間違いなかったのです。
房栄が殺されたのは、弘治元年(1555年)3月16日のことであった。
吉田郡山城の毛利元就

謀略戦は毛利元就が勝った。
江良房栄だけでなく、勇将・久芳賢重・久芳賢直・毛利与三も変心して元就に降ったのです。
陶晴賢がいらだったことは容易に想像できます。
この頃、晴賢の先鋒・弘中隆兼は、岩国に陣を布いて、いつ、芸・防の国境を突破して安芸に
攻め込むかわからない形勢であった.
元就ははじめ、廿日市の桜尾城を出て、岩国から攻めてくる陶の大軍を迎え撃つ考えであった
という。
しかし、少数の兵で大軍を破るには、せまい地点を戦場に選ぶのが、もっとも効果があがる戦
法であるとの考えに変わった。
その地点は、厳島であったのです。
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それにしても江良房栄は本当に毛利に内応していたのであろうか、もし、内応が本当のもので
あれば、毛利の手で暗殺することができるからです。
それはともかく、房秀が殺され、陶晴賢はその右翼を削がれたことには間違いなかったのです。
房栄が殺されたのは、弘治元年(1555年)3月16日のことであった。
吉田郡山城の毛利元就

謀略戦は毛利元就が勝った。
江良房栄だけでなく、勇将・久芳賢重・久芳賢直・毛利与三も変心して元就に降ったのです。
陶晴賢がいらだったことは容易に想像できます。
この頃、晴賢の先鋒・弘中隆兼は、岩国に陣を布いて、いつ、芸・防の国境を突破して安芸に
攻め込むかわからない形勢であった.
元就ははじめ、廿日市の桜尾城を出て、岩国から攻めてくる陶の大軍を迎え撃つ考えであった
という。
しかし、少数の兵で大軍を破るには、せまい地点を戦場に選ぶのが、もっとも効果があがる戦
法であるとの考えに変わった。
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厳島の戦い その8
『江良丹後守を殺害』
陶晴賢は江良丹後守を殺そうと考え、弘中隆兼に相談したところ、隆兼はきっぱり
「江良にかぎって、そんな野心はありませぬ。今しばらく、実否をただされますように」
と言った。
だが、高兼の諫言は、晴賢に通じなかった。
厳島

逆に隆兼は、晴賢の命によって、丹後守を殺すことになります。
晴賢が江良の筆跡と見たのは、元就が書がうまい者を選んで練習させ、江良の筆にせて書かせ
たものであったのです。
『吉田物語』には、晴賢の間者・慶安なる者を、元就が反対に利用したように書いていますが、
事実ではないようで、事実は以下のとおりだったようです。
江良房栄は、
「元就と敵対することは晴賢の滅亡である」
と考え、その旨を晴賢に進言したが、意見がいれられなかったので、元就に内応したのです。
元就は喜んで、房栄に300貫の領地を与えた。
ところが更に加増を要求してきた。
そこで隆元は、
「何たることぞ、毛利譜代の重臣でさえ300貫か400貫の地しか与えられていないのに、新
しく毛利についた江良や毛利世三に500貫や600貫がやれるか」
と怒った。
こうして、房栄の裏切りは、晴賢に密告され、とうとう殺害されたのです。
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陶晴賢は江良丹後守を殺そうと考え、弘中隆兼に相談したところ、隆兼はきっぱり
「江良にかぎって、そんな野心はありませぬ。今しばらく、実否をただされますように」
と言った。
だが、高兼の諫言は、晴賢に通じなかった。
厳島

逆に隆兼は、晴賢の命によって、丹後守を殺すことになります。
晴賢が江良の筆跡と見たのは、元就が書がうまい者を選んで練習させ、江良の筆にせて書かせ
たものであったのです。
『吉田物語』には、晴賢の間者・慶安なる者を、元就が反対に利用したように書いていますが、
事実ではないようで、事実は以下のとおりだったようです。
江良房栄は、
「元就と敵対することは晴賢の滅亡である」
と考え、その旨を晴賢に進言したが、意見がいれられなかったので、元就に内応したのです。
元就は喜んで、房栄に300貫の領地を与えた。
ところが更に加増を要求してきた。
そこで隆元は、
「何たることぞ、毛利譜代の重臣でさえ300貫か400貫の地しか与えられていないのに、新
しく毛利についた江良や毛利世三に500貫や600貫がやれるか」
と怒った。
こうして、房栄の裏切りは、晴賢に密告され、とうとう殺害されたのです。
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厳島の戦い その7
『情報戦』
毛利元就の間者は山口に潜伏し、
「江良丹後守は、陶晴賢が主君・大内義隆を殺害したことを嫌い、密かに元就と通じて、晴賢
を討とうとしている」
と、さかんにほのめかしたという。
山口城城門

この噂は、いつしか晴賢も伝え聞いたが
「どうして、そんなことがあろうか」
と、とりあわなかったという。
それでも不審に思っていたところ、丹後守が晴賢の行動をより諫言したので、
「これはあやしい」
と、本気に注意しだしたという。
その頃、山口の城内に一通の手紙が落ちて、これを晴賢の家臣が拾って見ると
「芸・防の境に於って、元就・晴賢一戦のみぎり、裏切りを仕り、ご本意を達し申すべく候段、
神文を以て申入れ候所に、披見(ひけん)をとげられ、防州一国を宛行わるべき趣、又ご誓書
を以て許し下され候、それがしの大望、此の事に候」
というようなことが書いてあったという。
この手紙は、晴賢に届けられた。
丹後守の筆に間違いなく、元就にあてたものであった。
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毛利元就の間者は山口に潜伏し、
「江良丹後守は、陶晴賢が主君・大内義隆を殺害したことを嫌い、密かに元就と通じて、晴賢
を討とうとしている」
と、さかんにほのめかしたという。
山口城城門

この噂は、いつしか晴賢も伝え聞いたが
「どうして、そんなことがあろうか」
と、とりあわなかったという。
それでも不審に思っていたところ、丹後守が晴賢の行動をより諫言したので、
「これはあやしい」
と、本気に注意しだしたという。
その頃、山口の城内に一通の手紙が落ちて、これを晴賢の家臣が拾って見ると
「芸・防の境に於って、元就・晴賢一戦のみぎり、裏切りを仕り、ご本意を達し申すべく候段、
神文を以て申入れ候所に、披見(ひけん)をとげられ、防州一国を宛行わるべき趣、又ご誓書
を以て許し下され候、それがしの大望、此の事に候」
というようなことが書いてあったという。
この手紙は、晴賢に届けられた。
丹後守の筆に間違いなく、元就にあてたものであった。
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厳島の戦い その6
『謀略戦』
先鋒が破られたという報を聞いた陶晴賢は、ひとまず山口に引きあげ、機会を待った。
毛利元就は、晴賢と決戦する前に、その勢力を削ることに苦心し、独特の謀略戦をひろげたと
いう。
毛利元就(1497-1571年)

謀略は元就だけの特許ではなく、晴賢も間者を放っているのです。
行商人、あるいは山伏、あるいは盲目の琵琶法師らの入り乱れる謀略の戦いは、乱世の冷たい
戦争だったのです。
毛利と陶との謀略戦は、どちらに凱歌があったのか、結果となって出て来るのでしょう。
陶方のなかで、元就がもっとも恐れていた武将がいたといわれます。
江良丹後守房栄です。
房栄は安芸進攻の先鋒をつとめる予定で、岩国に入り錦見の琥珀院に陣を据えていた。
元就の謀略は、この房栄へ伸びたという。
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毛利元就は、晴賢と決戦する前に、その勢力を削ることに苦心し、独特の謀略戦をひろげたと
いう。
毛利元就(1497-1571年)

謀略は元就だけの特許ではなく、晴賢も間者を放っているのです。
行商人、あるいは山伏、あるいは盲目の琵琶法師らの入り乱れる謀略の戦いは、乱世の冷たい
戦争だったのです。
毛利と陶との謀略戦は、どちらに凱歌があったのか、結果となって出て来るのでしょう。
陶方のなかで、元就がもっとも恐れていた武将がいたといわれます。
江良丹後守房栄です。
房栄は安芸進攻の先鋒をつとめる予定で、岩国に入り錦見の琥珀院に陣を据えていた。
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厳島の戦い その5
『厳島合戦の前奏』
宮川房長軍は一路南下して、毛利元就の拠点、甘日市桜尾城の四方にそびえる折敷山に陣を張
った。
桜尾城址

高さ365mのこの山に登ると、桜尾城は眼下に俯瞰できるところです。
毛利の全軍が出撃しようとしたとき、厳島神社から棚守房顕の使いが来て、御供米と祈祷の巻
数を進上したので、元就は
「これは瑞祥、厳島大明神の御威光によって、わが軍の勝利は明白である」
と土気を励ましたという。
9月15日正午、桜尾城を出た毛利軍は、作戦に従って宮川陣へ殺到した。
四面からの包囲攻撃であった。
宮川軍は勇戦したが、総帥・房長、副将・宮川彦五郎は戦死し、750余の首を毛利軍に挙げ
られて、全軍潰滅の悲運にみまわれた。
こうして、厳島合戦の前奏曲は終わった。
戦い勝った元就は、桜尾城に帰陣し、ついで銀山城に移り、間もなく郡山城に凱旋した。
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宮川房長軍は一路南下して、毛利元就の拠点、甘日市桜尾城の四方にそびえる折敷山に陣を張
った。
桜尾城址

高さ365mのこの山に登ると、桜尾城は眼下に俯瞰できるところです。
毛利の全軍が出撃しようとしたとき、厳島神社から棚守房顕の使いが来て、御供米と祈祷の巻
数を進上したので、元就は
「これは瑞祥、厳島大明神の御威光によって、わが軍の勝利は明白である」
と土気を励ましたという。
9月15日正午、桜尾城を出た毛利軍は、作戦に従って宮川陣へ殺到した。
四面からの包囲攻撃であった。
宮川軍は勇戦したが、総帥・房長、副将・宮川彦五郎は戦死し、750余の首を毛利軍に挙げ
られて、全軍潰滅の悲運にみまわれた。
こうして、厳島合戦の前奏曲は終わった。
戦い勝った元就は、桜尾城に帰陣し、ついで銀山城に移り、間もなく郡山城に凱旋した。
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厳島の戦い その4
『猛悪無道』
毛利元就の迅速な行動を耳にして、三本松城(津和野城)を攻めていた陶晴賢は
「毛利・小早川は、大内家の思恩を受けていながら、今度の悪逆は何事か。猛悪無道というほか
はない」
といって怒ったという。
三本松城(津和野城)(津和野城は、百名城を完結した城です。登城記は「こちら」です。)

晴賢が、大内氏のために行動しているように見せかけているから面白ところです。
電撃作戦を展開した元就は、また、一流の謀略戦を試み、大内義長と晴賢との間を疎隔させよう
とし、さらに周防の土豪に、懐柔の手をさしのべた。
そしてまた、小早川隆景が指揮する水軍は晴賢の居城・富田若山を脅威した。
心理作戦の展開です。
一方、三本松城はたやすく落ちそうにない。
それでも、8月下旬に講和が成立したので、武名の高い宮川房長に、3千ばかりの精兵をさずけ
て、安芸へ先発させた。
途中から人数が多くなり、7千余りになったという。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
毛利元就の迅速な行動を耳にして、三本松城(津和野城)を攻めていた陶晴賢は
「毛利・小早川は、大内家の思恩を受けていながら、今度の悪逆は何事か。猛悪無道というほか
はない」
といって怒ったという。
三本松城(津和野城)(津和野城は、百名城を完結した城です。登城記は「こちら」です。)

晴賢が、大内氏のために行動しているように見せかけているから面白ところです。
電撃作戦を展開した元就は、また、一流の謀略戦を試み、大内義長と晴賢との間を疎隔させよう
とし、さらに周防の土豪に、懐柔の手をさしのべた。
そしてまた、小早川隆景が指揮する水軍は晴賢の居城・富田若山を脅威した。
心理作戦の展開です。
一方、三本松城はたやすく落ちそうにない。
それでも、8月下旬に講和が成立したので、武名の高い宮川房長に、3千ばかりの精兵をさずけ
て、安芸へ先発させた。
途中から人数が多くなり、7千余りになったという。
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