月山富田城の戦い その9
『鹿と狼』
9月になり、毛利軍は、また富田城に戦いを挑んだ。
例の鹿と狼との一騎打ちの話は、この時の話です。
山中鹿介(幸盛)(1545-1578年)

毛利氏に従軍していた石見の益田藤包の家人に、品川大膳という荒武者がいた。
大膳は毛利勢のなかで、尼子の将・山中鹿介の勇名がもてはやされることが、不快でたまらなか
った。
そして
「今に見ていろ、鹿介を討ち取って、あっぱれ武名を天下に轟かせてやるわい」
と野心満々だった。
そこで
「鹿に勝つものは狼だ。また鹿を棫木(たらき)をくえば、その角を落とす」
といって、にわかに棫木狼之介勝盛と名を改め、機会を狙ったという。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
9月になり、毛利軍は、また富田城に戦いを挑んだ。
例の鹿と狼との一騎打ちの話は、この時の話です。
山中鹿介(幸盛)(1545-1578年)

毛利氏に従軍していた石見の益田藤包の家人に、品川大膳という荒武者がいた。
大膳は毛利勢のなかで、尼子の将・山中鹿介の勇名がもてはやされることが、不快でたまらなか
った。
そして
「今に見ていろ、鹿介を討ち取って、あっぱれ武名を天下に轟かせてやるわい」
と野心満々だった。
そこで
「鹿に勝つものは狼だ。また鹿を棫木(たらき)をくえば、その角を落とす」
といって、にわかに棫木狼之介勝盛と名を改め、機会を狙ったという。
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月山富田城の戦い その8
『毛利全軍が出陣』
毛利元就は、大内義隆の出雲遠征の大失敗から、月山富田城の攻撃は、兵糧攻め戦法をとった。
これが効果をあらわし、今では、わずかに但馬・因幡方面から、海路伯耆の弓ヶ浜(夜見ヶ浜)
を通ってくる糧道が、富田城への唯一のものとなった。
月山富田城遠景

しかし、これも毛利氏に知られ、多くの兵糧が略奪されたので、富田城は苦難にあえぐことと
なった。
そのうえ、永禄8年3月、毛利隆元の遺子・輝元が、洗合に参陣し、吉川元春の嫡子・元資(
後の元長)も同行し、毛利軍の全軍が出雲へ集中した。
やがて元就は、本営を星上山に移し、4月17日をもって、3方面から富田城の総攻撃を開始し
た。
この戦い模様を、『陰徳太平記』では、次のように批評しています。
「寄せ手は3万騎にて、しかも老功さかんなる元就父子なり。尼子は1万余にて、義久兄弟若
大将の、しかも勢ひ年々に衰へ、軍士月々に減じ、落日残月の有様にて、3倍したる寄せ手に
向かひ、3口ながら初度の合戦に利を得、終(つい)勝負とても、きのみ大敗には至らざりけ
る事、祖父・経久の余慶(よけい)、大勇の伝流する所といふ。相従ふ兵卒、また代々功名の
家の子なりけるが致す所なりと。今度の合戦にぞ、尼子家の将兵の名は、雪上に箱を加へたり
と、寄せ手の感称するのみならず、近国に伝へ聞えて、嘆美(たんび)せずはなかりけり」
慎重深い元就は、一挙に富田城を攻めることをやめ、全軍を星上山に引き上げさせ、4月28
日に、洗合の本陣へ帰った。
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毛利元就は、大内義隆の出雲遠征の大失敗から、月山富田城の攻撃は、兵糧攻め戦法をとった。
これが効果をあらわし、今では、わずかに但馬・因幡方面から、海路伯耆の弓ヶ浜(夜見ヶ浜)
を通ってくる糧道が、富田城への唯一のものとなった。
月山富田城遠景

しかし、これも毛利氏に知られ、多くの兵糧が略奪されたので、富田城は苦難にあえぐことと
なった。
そのうえ、永禄8年3月、毛利隆元の遺子・輝元が、洗合に参陣し、吉川元春の嫡子・元資(
後の元長)も同行し、毛利軍の全軍が出雲へ集中した。
やがて元就は、本営を星上山に移し、4月17日をもって、3方面から富田城の総攻撃を開始し
た。
この戦い模様を、『陰徳太平記』では、次のように批評しています。
「寄せ手は3万騎にて、しかも老功さかんなる元就父子なり。尼子は1万余にて、義久兄弟若
大将の、しかも勢ひ年々に衰へ、軍士月々に減じ、落日残月の有様にて、3倍したる寄せ手に
向かひ、3口ながら初度の合戦に利を得、終(つい)勝負とても、きのみ大敗には至らざりけ
る事、祖父・経久の余慶(よけい)、大勇の伝流する所といふ。相従ふ兵卒、また代々功名の
家の子なりけるが致す所なりと。今度の合戦にぞ、尼子家の将兵の名は、雪上に箱を加へたり
と、寄せ手の感称するのみならず、近国に伝へ聞えて、嘆美(たんび)せずはなかりけり」
慎重深い元就は、一挙に富田城を攻めることをやめ、全軍を星上山に引き上げさせ、4月28
日に、洗合の本陣へ帰った。
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月山富田城の戦い その7
『月山富田城』
富田城は、広瀬町の東方街はずれにそびえる海抜192mの月山にある。
月山という名は、城下から月を眺めると、いつもこの山の後ろから月が出るように見えたから
で、吐月峰という別名もあります。
月山富田城(月山富田城登城記は「こちら」です。)

富田川の清流にかかる富田橋を渡ると、御子守口に出る。
右手に岩倉寺という古刹があり、左側が太鼓壇とよばれる出丸跡、その谷あいの小路をのぼる
と、御殿平とよぶ台地に出る。
一面、畑地になっているが、尼子の屋敷跡だといい、見上げると月山がそびえ立つ。
山頂まで山道がくねり、頂上は平地で本丸および二ノ丸だが、山頂は2つの峰にわかれ、一ノ
平、二ノ平、三ノ平となっている。
富田城は平山城と山城をあわせた典型的な複郭式山城です。
頂上から眺めると、足元から中央の大手にあたる菅谷口、左側に塩谷、右に新宮谷と、切り取
ったような3つの谷が山裾を引いて、それぞれに出丸をつくり、規模壮大な尼子氏牙城のあと
を偲ばせています。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

<参考文献:戦国武将がよくわかる本(PHP文庫)>
富田城は、広瀬町の東方街はずれにそびえる海抜192mの月山にある。
月山という名は、城下から月を眺めると、いつもこの山の後ろから月が出るように見えたから
で、吐月峰という別名もあります。
月山富田城(月山富田城登城記は「こちら」です。)

富田川の清流にかかる富田橋を渡ると、御子守口に出る。
右手に岩倉寺という古刹があり、左側が太鼓壇とよばれる出丸跡、その谷あいの小路をのぼる
と、御殿平とよぶ台地に出る。
一面、畑地になっているが、尼子の屋敷跡だといい、見上げると月山がそびえ立つ。
山頂まで山道がくねり、頂上は平地で本丸および二ノ丸だが、山頂は2つの峰にわかれ、一ノ
平、二ノ平、三ノ平となっている。
富田城は平山城と山城をあわせた典型的な複郭式山城です。
頂上から眺めると、足元から中央の大手にあたる菅谷口、左側に塩谷、右に新宮谷と、切り取
ったような3つの谷が山裾を引いて、それぞれに出丸をつくり、規模壮大な尼子氏牙城のあと
を偲ばせています。
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月山富田城の戦い その6
『白鹿城攻防戦』
白鹿城は松江市街の北方4km余りにあり、標高154mの白鹿山上にあり、富田本城につい
で、出雲の重鎮であった。
白鹿城

攻めるのは、毛利の精兵1万5千余、守るのは豪将・松田誠保の手兵千人余と、牛尾久清が率
いる富田の援兵8百余人。
第一回の総攻めで小白鹿(二ノ城)が落ち、白鹿の外郭が敗れた。
ついで毛利元就は、石見銀山の鉱夫数百人を呼び寄せ、穴を掘って、城内の水を断とうとした。
これを知って城中からも、地下道をつくって迎え撃った。
地下戦の開始です。
白鹿は、よく守った。
しかし、兵糧も水もしだいに尽いてきた。
白鹿が危ない、との注進が富田城に届き、尼子義久は、弟の倫久を主将として、白鹿の急を救
わせたが、失敗に終わっている。
80日近くの籠城を続けた白鹿は、ついに10月29日に開城し、白鹿城の攻防戦は終わった。
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白鹿城は松江市街の北方4km余りにあり、標高154mの白鹿山上にあり、富田本城につい
で、出雲の重鎮であった。
白鹿城

攻めるのは、毛利の精兵1万5千余、守るのは豪将・松田誠保の手兵千人余と、牛尾久清が率
いる富田の援兵8百余人。
第一回の総攻めで小白鹿(二ノ城)が落ち、白鹿の外郭が敗れた。
ついで毛利元就は、石見銀山の鉱夫数百人を呼び寄せ、穴を掘って、城内の水を断とうとした。
これを知って城中からも、地下道をつくって迎え撃った。
地下戦の開始です。
白鹿は、よく守った。
しかし、兵糧も水もしだいに尽いてきた。
白鹿が危ない、との注進が富田城に届き、尼子義久は、弟の倫久を主将として、白鹿の急を救
わせたが、失敗に終わっている。
80日近くの籠城を続けた白鹿は、ついに10月29日に開城し、白鹿城の攻防戦は終わった。
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月山富田城の戦い その5
『元就の嫡男頓死』
永禄2年(1559年)以来、毛利氏は豊後の大友氏と対戦していた。
しかし、尼子氏を打倒するためには、毛利の全軍を集中する必要があった。
毛利隆元(1523-1563年)

そこで毛利元就は、講和戦略をとり、朝廷や幕府を利用して、永禄6年3月に和議を成立させ
た。
元就は防府出陣中の嫡子・隆元の来援を待って、白鹿城を攻めようとしたが、隆元は出発を前
に頓死してしまった。
41歳であった。毒殺されたとも伝わります。
隆元急逝の訃報が、洗合の本陣に伝わると、全軍は悲嘆にくれ、元就もまた、やや自暴自棄の
有様であったという。
それでも決意新たに
「中陰の弔い(49日の供養)として、白鹿城を切り崩せ」
と叫び、8月13日、白鹿城の総攻撃が始まった。
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永禄2年(1559年)以来、毛利氏は豊後の大友氏と対戦していた。
しかし、尼子氏を打倒するためには、毛利の全軍を集中する必要があった。
毛利隆元(1523-1563年)

そこで毛利元就は、講和戦略をとり、朝廷や幕府を利用して、永禄6年3月に和議を成立させ
た。
元就は防府出陣中の嫡子・隆元の来援を待って、白鹿城を攻めようとしたが、隆元は出発を前
に頓死してしまった。
41歳であった。毒殺されたとも伝わります。
隆元急逝の訃報が、洗合の本陣に伝わると、全軍は悲嘆にくれ、元就もまた、やや自暴自棄の
有様であったという。
それでも決意新たに
「中陰の弔い(49日の供養)として、白鹿城を切り崩せ」
と叫び、8月13日、白鹿城の総攻撃が始まった。
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月山富田城の戦い その4
『余裕の毛利軍』
石見をとった毛利元就は、永禄5年(1562年)7月、吉川元春、小早川隆景以下の諸軍、
1万5千余を率い、石見路から征雲の途につき、まず赤穴に着陣した。
吉川元春(1530-1586年)

ついで、洗合(松江市)に移陣し、富田城と、その最有力の支城、白鹿城(松江市)を絶ち、
長陣を張り、持久の戦法をとった。
元就の
「秋の月雲にやにほのはま千鳥」
とは、この頃の発句です。
また、元就は能楽を催し、将士を慰めたといいます。
そしてまた元春が『太平記』40巻を写したのも、この遠征中であったのです。
まさに英雄閑日月あり、といったところでしょうか。
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いつもありがとうございます。
試着しました
来年も着れそうです

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
石見をとった毛利元就は、永禄5年(1562年)7月、吉川元春、小早川隆景以下の諸軍、
1万5千余を率い、石見路から征雲の途につき、まず赤穴に着陣した。
吉川元春(1530-1586年)

ついで、洗合(松江市)に移陣し、富田城と、その最有力の支城、白鹿城(松江市)を絶ち、
長陣を張り、持久の戦法をとった。
元就の
「秋の月雲にやにほのはま千鳥」
とは、この頃の発句です。
また、元就は能楽を催し、将士を慰めたといいます。
そしてまた元春が『太平記』40巻を写したのも、この遠征中であったのです。
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月山富田城の戦い その3
『旗本同士で戦いたかった』
永禄3年(1560年)12月、尼子晴久は47歳で富田城中にて急死し、尼子氏も義久の時代
に移行した。
尼子晴久(1514-1561年)

晴久の死を聞いた、毛利元就は
「晴久死去においては、是非に及ばざる儀どもなり。晴久も存命の内、我等と一戦をとげ、雌雄
を決すべしと存ぜらるべく候。われらも天文9年以来、数度の取合ひ候へども、つひに、旗本と
旗本の勝負これなく、やがて雲州へ討ち入り、念願をはらすべき候ところに、残念の至りなり」
と悲しんだという。
おそらくこれは事実なのでしょう。
元就は、こんな人物だったといいます。
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永禄3年(1560年)12月、尼子晴久は47歳で富田城中にて急死し、尼子氏も義久の時代
に移行した。
尼子晴久(1514-1561年)

晴久の死を聞いた、毛利元就は
「晴久死去においては、是非に及ばざる儀どもなり。晴久も存命の内、我等と一戦をとげ、雌雄
を決すべしと存ぜらるべく候。われらも天文9年以来、数度の取合ひ候へども、つひに、旗本と
旗本の勝負これなく、やがて雲州へ討ち入り、念願をはらすべき候ところに、残念の至りなり」
と悲しんだという。
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