長宗我部元親の四国制覇 その6
『細川義賢の戦死』
細川持隆が殺された後、阿波は完全に三好氏に牛耳られることになった。
阿波国徳島城

『十河物語』には
「屋形(細川持隆)には御子一人もなかりき、さて屋形の御台を実体妻となし、この御腹に若君
ただ一人出来れり。長治と申す」
と書かれており、持隆には子供はなかったとしているが、実は真之(さねゆき)・祝英らの子が
あった。(『細川家記』)
とにかく義賢は簒奪の汚名をこうむるのに気が引けたのか、細川真之をいちおう主と仰ぐことと
したが、有名無実でもちろん実権は義賢の手にあった。
しかし、しだいに三好の反対者の活動も盛んとなり、義賢は弟・冬康が畠山隆政に攻められたの
を救うために、和泉に出兵したが、戦死してしまった。
そのため、義賢の後を長治が継いだ。
この長治の時代に、長宗我部元親の阿波への侵入が始まった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
細川持隆が殺された後、阿波は完全に三好氏に牛耳られることになった。
阿波国徳島城

『十河物語』には
「屋形(細川持隆)には御子一人もなかりき、さて屋形の御台を実体妻となし、この御腹に若君
ただ一人出来れり。長治と申す」
と書かれており、持隆には子供はなかったとしているが、実は真之(さねゆき)・祝英らの子が
あった。(『細川家記』)
とにかく義賢は簒奪の汚名をこうむるのに気が引けたのか、細川真之をいちおう主と仰ぐことと
したが、有名無実でもちろん実権は義賢の手にあった。
しかし、しだいに三好の反対者の活動も盛んとなり、義賢は弟・冬康が畠山隆政に攻められたの
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長宗我部元親の四国制覇 その5
『阿波細川家』
阿波細川家では、澄元が官領家を継いだので、弟の持之が相続した。
細川持之(1400-1442年)

その子に持隆がいたが、彼は上京して澄元の子・晴元を助けたが、間もなく阿波に帰っている。
たまたま、将軍・義稙の子・足利義冬は父と仲違いをして阿波屋形を頼って阿波に下ってきた。
義冬の母は細川成元の娘であるが、天文初年頃、義稙は妾に産ませた子に家督を継がせようと
しているとの噂が広がり、仲違いになったのだという。
細川持隆は、これを平島(那賀郡)において、12ヵ村千貫を与えて奉仕させた。
持隆は、義冬を擁立して細川家を再興しようとして家臣に計ったが、三好義賢だけは聞かぬふり
したという。
持隆は義賢の討伐を考えたが、義賢は権謀術数にもたけた人物で、かえって持隆を騙して、天文
21年(1552年)8月(天文22年2月の説もある)猟に誘い、遊宴の最中に殺してしまった。
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阿波細川家では、澄元が官領家を継いだので、弟の持之が相続した。
細川持之(1400-1442年)

その子に持隆がいたが、彼は上京して澄元の子・晴元を助けたが、間もなく阿波に帰っている。
たまたま、将軍・義稙の子・足利義冬は父と仲違いをして阿波屋形を頼って阿波に下ってきた。
義冬の母は細川成元の娘であるが、天文初年頃、義稙は妾に産ませた子に家督を継がせようと
しているとの噂が広がり、仲違いになったのだという。
細川持隆は、これを平島(那賀郡)において、12ヵ村千貫を与えて奉仕させた。
持隆は、義冬を擁立して細川家を再興しようとして家臣に計ったが、三好義賢だけは聞かぬふり
したという。
持隆は義賢の討伐を考えたが、義賢は権謀術数にもたけた人物で、かえって持隆を騙して、天文
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長宗我部元親の四国制覇 その4
『下克上』
応仁の乱後、細川氏の勢力は衰え、特に永正4年(1507年)、細川政元が殺され、養子・澄
元、澄之の対立は分裂をまねき、実験は三好氏の手に握られるようになった。
応仁の乱勢力図(水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲)

戦国の下克上のきわまった時代とはいえ、成り上がり者にとっては、やはり名門の伝統的権威に
は魅力があった。
三好氏もやはり、表面には細川氏を擁することを忘れなかったという。
三好氏はもと甲斐の武田氏の出で、小笠原長清が承久の乱後、阿波の守護となって阿波に移り、
子孫が三好郡を領したので三好氏と名乗るようになった。
守護の細川氏に属したが、長慶に至って主家の細川氏にとってかわることになったのです。
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応仁の乱後、細川氏の勢力は衰え、特に永正4年(1507年)、細川政元が殺され、養子・澄
元、澄之の対立は分裂をまねき、実験は三好氏の手に握られるようになった。
応仁の乱勢力図(水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲)

戦国の下克上のきわまった時代とはいえ、成り上がり者にとっては、やはり名門の伝統的権威に
は魅力があった。
三好氏もやはり、表面には細川氏を擁することを忘れなかったという。
三好氏はもと甲斐の武田氏の出で、小笠原長清が承久の乱後、阿波の守護となって阿波に移り、
子孫が三好郡を領したので三好氏と名乗るようになった。
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長宗我部元親の四国制覇 その3
『阿波の細川氏』
まず阿波の情勢は次のとおりであった。
阿波は、鎌倉時代以来、小笠原氏が守護として勢力を培っていたが、足利尊氏が建武3年(1
足利尊氏(1305-1358年)

336年)2月に京都から西走した時、細川和氏をはじめとする細川一族が踏み止まって防戦
の任務につき、四国の検断権や下部将兵への恩賞授与権を任されてから、細川氏は阿波・讃岐
を中心として、四国を守護国家にするようになっていた。
細川氏ははじめ、秋月に移し、阿波のみならず四国の経営にあたった。
勝瑞は阿波の政治の中心地として、また京都との交通上、地理的にも便利であり、しかも近く
に川や湿地があって要害の地でもあった。
この地は、長宗我部元親に壊されるまで、約220年間、阿波の中心地として栄えていたので
す。
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まず阿波の情勢は次のとおりであった。
阿波は、鎌倉時代以来、小笠原氏が守護として勢力を培っていたが、足利尊氏が建武3年(1
足利尊氏(1305-1358年)

336年)2月に京都から西走した時、細川和氏をはじめとする細川一族が踏み止まって防戦
の任務につき、四国の検断権や下部将兵への恩賞授与権を任されてから、細川氏は阿波・讃岐
を中心として、四国を守護国家にするようになっていた。
細川氏ははじめ、秋月に移し、阿波のみならず四国の経営にあたった。
勝瑞は阿波の政治の中心地として、また京都との交通上、地理的にも便利であり、しかも近く
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長宗我部元親の四国制覇 その2
『託宣』
天正3年(1575年)の春、元親は弓を射れば弦(つる)が切れ、射た矢はみじんに折れて
しまうという不吉な夢をみたので、岡豊八幡の神主・谷左近に夢判断をさせたところ、左近は
元親が戦勝祈願した岡豊別宮八幡宮

「扨(さて)も扨(さて)もよき御夢にて御座候。その子細は、弓強ければ弦きるる。矢役(や
く)しつれば矢損ず。ただ当年御馬を出されたらんには其矢さきまたり申間敷(もうすまじく)
」(『元親記』)
と答えたので、元親はこれを岡豊神社の御託宣(たくせん)と考え、おおいに喜んで出陣を決
意し、左近の献上した刀を八幡の利剣と称して陣中に帯びたという伝説があり、元親の勇気は
百倍したというが、阿波・讃岐・伊予ともに強敵が割拠しており、やすやすと攻略はできなか
った。
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天正3年(1575年)の春、元親は弓を射れば弦(つる)が切れ、射た矢はみじんに折れて
しまうという不吉な夢をみたので、岡豊八幡の神主・谷左近に夢判断をさせたところ、左近は
元親が戦勝祈願した岡豊別宮八幡宮

「扨(さて)も扨(さて)もよき御夢にて御座候。その子細は、弓強ければ弦きるる。矢役(や
く)しつれば矢損ず。ただ当年御馬を出されたらんには其矢さきまたり申間敷(もうすまじく)
」(『元親記』)
と答えたので、元親はこれを岡豊神社の御託宣(たくせん)と考え、おおいに喜んで出陣を決
意し、左近の献上した刀を八幡の利剣と称して陣中に帯びたという伝説があり、元親の勇気は
百倍したというが、阿波・讃岐・伊予ともに強敵が割拠しており、やすやすと攻略はできなか
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明智光秀 seasonⅡ その2
『不明な青年期』
さらに近江国出生説もあります。
江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』の記述から、土岐氏に背いた光秀の祖先が土岐氏に背
いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれたというのです。
十兵衛屋敷跡(多賀町)

同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所が
ある。
岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所も
あるといいます。
青年期の履歴は不明な点が多く、光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、土岐氏に代わって美濃
の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良
川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したという。
その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたともいわれます。
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昨日、天気がよかったので、庭で一緒に遊びました

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江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』の記述から、土岐氏に背いた光秀の祖先が土岐氏に背
いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれたというのです。
十兵衛屋敷跡(多賀町)

同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所が
ある。
岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所も
あるといいます。
青年期の履歴は不明な点が多く、光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、土岐氏に代わって美濃
の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良
川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したという。
その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたともいわれます。
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長宗我部元親の四国制覇 その1
『四国制覇の野望』
『土佐物語』に「われ諸士に賞禄を心のままに行なひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方
に発向して軍慮を廻らし」という。
長宗我部元親(1539-1599年)

のちになって元親が述懐した言葉を記してありますが、長宗我部元親の四国制覇の戦いの動機は、
この言葉のとおりであったのでしょうが、当時の戦国大名と同様に、元親もあわよくば天下に覇
を唱えようとの望みを抱いて、胸に沸き立ってくる衝動を禁ずることができまかったのでしょう。
元親は四国制覇の計画を密かに練った。
東部の安芸・香美2郡の兵をもって阿波に侵入させ、西武の高岡・幡多の兵を伊予に向かわせ、
長岡・土佐・吾川の中部3郡の兵を麾下に掌握して、戦局に応じて随時に出陣できる体制を整え
るともに、織田・宇喜多・毛利など四国に圧力を加える諸氏にも、用兵承認のための使者を送っ
て、外交上にも十分な方策をつくした。
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『土佐物語』に「われ諸士に賞禄を心のままに行なひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方
に発向して軍慮を廻らし」という。
長宗我部元親(1539-1599年)

のちになって元親が述懐した言葉を記してありますが、長宗我部元親の四国制覇の戦いの動機は、
この言葉のとおりであったのでしょうが、当時の戦国大名と同様に、元親もあわよくば天下に覇
を唱えようとの望みを抱いて、胸に沸き立ってくる衝動を禁ずることができまかったのでしょう。
元親は四国制覇の計画を密かに練った。
東部の安芸・香美2郡の兵をもって阿波に侵入させ、西武の高岡・幡多の兵を伊予に向かわせ、
長岡・土佐・吾川の中部3郡の兵を麾下に掌握して、戦局に応じて随時に出陣できる体制を整え
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