長宗我部元親の四国制覇 その28
『伊予へ侵入』
長宗我部元親は、高岡。幡多の2郡の兵をもって伊予にあてる作戦を立てていた。
白地城碑

東伊予では、阿波の白地を根拠として大西上野介の才覚によって、川之江・新居・宇摩・西条
方面に働きかけ、天正6年(1578年)河野氏の家臣であった妻鳥采女正友春・石川勝重・
金子元宅らの国侍をはじめ、馬立・新居・前川・曾我部の諸氏を降し、河野氏から分離させて
味方にすることに成功した。
元親はすでに永禄8年、一条氏の加勢として南予に兵を送っていたが、元亀年中から南予攻略
を計画して出兵を考え、久武内親信・吉良親貞を軍将としていたが、天正4年(1576年)
高岡・幡多の将兵は南伊予へ侵入した。
伊予の西南部地方は山々が重なり、西園寺・宇都宮氏に属する小豪族らは山間部に居城を構え
ていたが、これら小城が31もあったという。
元親は攻撃にあたって、毛利氏との関係を考えて河野氏への所領への手出しを禁じ、河野氏み
ずから、衰運に赴くのを待つ方針をとった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
長宗我部元親は、高岡。幡多の2郡の兵をもって伊予にあてる作戦を立てていた。
白地城碑

東伊予では、阿波の白地を根拠として大西上野介の才覚によって、川之江・新居・宇摩・西条
方面に働きかけ、天正6年(1578年)河野氏の家臣であった妻鳥采女正友春・石川勝重・
金子元宅らの国侍をはじめ、馬立・新居・前川・曾我部の諸氏を降し、河野氏から分離させて
味方にすることに成功した。
元親はすでに永禄8年、一条氏の加勢として南予に兵を送っていたが、元亀年中から南予攻略
を計画して出兵を考え、久武内親信・吉良親貞を軍将としていたが、天正4年(1576年)
高岡・幡多の将兵は南伊予へ侵入した。
伊予の西南部地方は山々が重なり、西園寺・宇都宮氏に属する小豪族らは山間部に居城を構え
ていたが、これら小城が31もあったという。
元親は攻撃にあたって、毛利氏との関係を考えて河野氏への所領への手出しを禁じ、河野氏み
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長宗我部元親の四国制覇 その27
『伊予の情勢』
大友宗麟は、さらに河野傘下にあった伊予水軍を収め、瀬戸内海西部の制海権を握ろうと暗躍
した。
大分駅前の宗麟公

また、たまたま起こった土佐の一条兼定と西園寺公広との紛争を利用して、大友氏の軍は南予
へ侵入したので、公広は驚き、宗麟と和睦した。
ときに、元亀3年(1572年)のことでした。
これより先、河野氏は大友氏の勢力が衰えてきた状況をみて、大友氏と結ぶことが有利である
と判断し、大友氏に近づいた。
河野氏にせよ、西園寺氏にせよ、しょせん地方権力者である限り、自主性を欠き、有力な大名
の援助によらなければ独自の立場を守ることは、なかなか困難であった。
やがて厳島の戦いで、村上水軍が毛利元就を援助したことによって、毛利氏と河野氏は互いに
接近し、提携するようになり、永禄元年(1557年)に起こった河野通直と宇都宮豊綱との
争いでは、通直は毛利氏に援助を要請している。
こうして河野氏は大内・大友・毛利と2転3転して後援者を求めてその勢力を維持してきたが、
なお宇都宮氏・西園寺氏とともに伊予を三分する豪族としての立場は十分保っていた。
このような時に、長宗我部元親の伊予への侵攻が始まったのです。
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大友宗麟は、さらに河野傘下にあった伊予水軍を収め、瀬戸内海西部の制海権を握ろうと暗躍
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また、たまたま起こった土佐の一条兼定と西園寺公広との紛争を利用して、大友氏の軍は南予
へ侵入したので、公広は驚き、宗麟と和睦した。
ときに、元亀3年(1572年)のことでした。
これより先、河野氏は大友氏の勢力が衰えてきた状況をみて、大友氏と結ぶことが有利である
と判断し、大友氏に近づいた。
河野氏にせよ、西園寺氏にせよ、しょせん地方権力者である限り、自主性を欠き、有力な大名
の援助によらなければ独自の立場を守ることは、なかなか困難であった。
やがて厳島の戦いで、村上水軍が毛利元就を援助したことによって、毛利氏と河野氏は互いに
接近し、提携するようになり、永禄元年(1557年)に起こった河野通直と宇都宮豊綱との
争いでは、通直は毛利氏に援助を要請している。
こうして河野氏は大内・大友・毛利と2転3転して後援者を求めてその勢力を維持してきたが、
なお宇都宮氏・西園寺氏とともに伊予を三分する豪族としての立場は十分保っていた。
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長宗我部元親の四国制覇 その26
『大友氏、伊予に進出』
湯築城の河野本家が東予・北予に蟠踞していたが、独力で勢威を持つことは困難な情勢になっ
てきた。
大友宗麟(1530-1587年)

周防の大内氏と豊後の大友氏が伊予に目をつけて、支配権を巡って争うようになり、そのうえ
東からは細川氏が圧迫を加えたので、河野氏としてはこれらの間に挟まって勢力を維持するに
苦しんだ。
特に大友氏は義鑑・宗麟の2代に渡って伊予への進出を企て、勢力の拡大をはかった。
義鑑は一条氏・宇都宮氏などと手を結び、南北朝時代から宇和郡に土着して黒瀬城を本拠とし
ていた西園寺氏とも盟約を結ぶなど、積極的な活動を続けた。
天文8年(1539年)、細川晴元が阿波・讃岐の兵を率いて東伊予地方に侵入を企て、川之
江方面を制圧した時、河野道生は大友宗麟に援助を求めたが、細川氏のことなきを得た。
このように伊予には大友氏の勢力が延びていった。
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湯築城の河野本家が東予・北予に蟠踞していたが、独力で勢威を持つことは困難な情勢になっ
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大友宗麟(1530-1587年)

周防の大内氏と豊後の大友氏が伊予に目をつけて、支配権を巡って争うようになり、そのうえ
東からは細川氏が圧迫を加えたので、河野氏としてはこれらの間に挟まって勢力を維持するに
苦しんだ。
特に大友氏は義鑑・宗麟の2代に渡って伊予への進出を企て、勢力の拡大をはかった。
義鑑は一条氏・宇都宮氏などと手を結び、南北朝時代から宇和郡に土着して黒瀬城を本拠とし
ていた西園寺氏とも盟約を結ぶなど、積極的な活動を続けた。
天文8年(1539年)、細川晴元が阿波・讃岐の兵を率いて東伊予地方に侵入を企て、川之
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長宗我部元親の四国制覇 その25
『河野氏』
応仁の乱が勃発してから、伊予も戦乱の渦中に巻き込まれ、河野氏の内訌や土豪の自立化が起
こり、勢力分野にも変動が生じた。
湯築城

河野氏は湯築城を根拠として、温泉・周桑・越智の各郡を支配し、北伊予に発展したが、中部
の伊予・喜多・浮穴の諸郡では、鎌倉時代に下野より移って土着したといわれる宇都宮氏が台
頭し、地蔵嶽城(大洲城)を中心として周辺の土豪を傘下に収めていた。
応仁の乱では、湯築城主・河野教通や宇都宮家綱らは西軍の山名方に属し、河野分家の道春は
東軍の細川方に応じた。
これは河野教通の祖父・道之が細川氏にうとんぜられ、道春の祖父・道之が細川氏に優遇され
たという古い恩怨が原因であったという。
とにかく河野氏は分裂して争うこととなり、教通は西軍の有力な部将であった大内政弘と結託
して、応仁元年7月には東上し、東軍の赤松政則の軍を破るなど、一時は勢いをふるったが、
戦火が地方に広がるにつれ、伊予国内の抗争も激しさを加えることとなった。
文明11年(1479年)には阿波・讃岐を支配していた細川義春が伊予に侵入したが、河野
教通麾下の部将がよく戦い、桑村・風早郡内での戦いで勝利を収め、撃退することができた。
しかし、河野家の内紛が続き、通春は文明14年に湊山で戦死してしまった。
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応仁の乱が勃発してから、伊予も戦乱の渦中に巻き込まれ、河野氏の内訌や土豪の自立化が起
こり、勢力分野にも変動が生じた。
湯築城

河野氏は湯築城を根拠として、温泉・周桑・越智の各郡を支配し、北伊予に発展したが、中部
の伊予・喜多・浮穴の諸郡では、鎌倉時代に下野より移って土着したといわれる宇都宮氏が台
頭し、地蔵嶽城(大洲城)を中心として周辺の土豪を傘下に収めていた。
応仁の乱では、湯築城主・河野教通や宇都宮家綱らは西軍の山名方に属し、河野分家の道春は
東軍の細川方に応じた。
これは河野教通の祖父・道之が細川氏にうとんぜられ、道春の祖父・道之が細川氏に優遇され
たという古い恩怨が原因であったという。
とにかく河野氏は分裂して争うこととなり、教通は西軍の有力な部将であった大内政弘と結託
して、応仁元年7月には東上し、東軍の赤松政則の軍を破るなど、一時は勢いをふるったが、
戦火が地方に広がるにつれ、伊予国内の抗争も激しさを加えることとなった。
文明11年(1479年)には阿波・讃岐を支配していた細川義春が伊予に侵入したが、河野
教通麾下の部将がよく戦い、桑村・風早郡内での戦いで勝利を収め、撃退することができた。
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長宗我部元親の四国制覇 その24
『伊予の歴史』
伊予は古代以来、郡司から土豪化したといわれる河野氏が本拠としたところで、弘安の役(第
2次蒙古来襲)の河野通有や、南朝方として戦った土居(温泉郡)・得能(周桑郡)の両氏と
もその一族であった。
弘安の役(第2次蒙古来襲)

四国の名族として勢力をふるったが、南北朝の内乱期には河野通盛が北朝方として活躍し、南
朝方の忽那義範をはじめ、村上・土居・得能氏らと対立した。
懐良親王の下向、脇屋義助(新田義貞の弟)の入国などがあり、伊予は南朝方の一拠点となっ
たので、通盛は圧迫されたが、北朝方の重鎮としての地位を保ち、次第に勢力を挽回した。
建武年間は道後に湯築城を築き、ここを本拠として守護大名への発展の基を定めた。
しかし、阿波・讃岐・土佐が細川氏の守護領国となってからは、東伊予は細川氏の侵攻をうけ、
次第にその勢力下にはいった。
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伊予は古代以来、郡司から土豪化したといわれる河野氏が本拠としたところで、弘安の役(第
2次蒙古来襲)の河野通有や、南朝方として戦った土居(温泉郡)・得能(周桑郡)の両氏と
もその一族であった。
弘安の役(第2次蒙古来襲)

四国の名族として勢力をふるったが、南北朝の内乱期には河野通盛が北朝方として活躍し、南
朝方の忽那義範をはじめ、村上・土居・得能氏らと対立した。
懐良親王の下向、脇屋義助(新田義貞の弟)の入国などがあり、伊予は南朝方の一拠点となっ
たので、通盛は圧迫されたが、北朝方の重鎮としての地位を保ち、次第に勢力を挽回した。
建武年間は道後に湯築城を築き、ここを本拠として守護大名への発展の基を定めた。
しかし、阿波・讃岐・土佐が細川氏の守護領国となってからは、東伊予は細川氏の侵攻をうけ、
次第にその勢力下にはいった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
長宗我部元親の四国制覇 その23
『羽床落城』
天正7年(1579年)4月、元親は1万2千の大兵を投入して、羽床攻撃に向かった。
羽床伊豆守城を出て、西方の高篠の険にとって抗戦したが、ついに敗れて退却した。
羽床城址

羽床に残った老人や幼少の者のうち、歩くのに強い者たちは、羽床と高篠の間の岡田原に打っ
て出たが、支えきれず城中に退いた。
元親は進んで羽床を囲んだ。
伊豆守は香川信景の斡旋によってついに降参し、実子・孫四郎を人質に出した。
元親の讃岐中原の制圧は終わり、西長尾に新城を築いて国吉甚左衛門をおき、讃岐の陣代に
任命した。
こうして東讃岐の十河・虎丸および讃岐の勝瑞城を根拠とする十河存保との間に、抗争が続
けられることとなった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
天正7年(1579年)4月、元親は1万2千の大兵を投入して、羽床攻撃に向かった。
羽床伊豆守城を出て、西方の高篠の険にとって抗戦したが、ついに敗れて退却した。
羽床城址

羽床に残った老人や幼少の者のうち、歩くのに強い者たちは、羽床と高篠の間の岡田原に打っ
て出たが、支えきれず城中に退いた。
元親は進んで羽床を囲んだ。
伊豆守は香川信景の斡旋によってついに降参し、実子・孫四郎を人質に出した。
元親の讃岐中原の制圧は終わり、西長尾に新城を築いて国吉甚左衛門をおき、讃岐の陣代に
任命した。
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明智光秀 seasonⅡ その5
『光秀は鉄砲の名手』
光秀は諸国を流浪した後、朝倉家に仕え、その知行は5、6百石であったという。
その頃の話として、こんな話が伝わります。
朝倉義景(1533-1573年)

彼は砲術に精妙を得ていて、(斎藤道三から学んだという説もある)ある時の戦闘で大功を立て
たので、彼の砲術が朝倉家中の評判になり、朝倉義景の耳に入った。
「しかじかの由、一覧したい」
と、朝倉義景は所望した。
「かしこまりました」
光秀は25間(約45m)の的に100発の玉を放ったところ、的の星に入ったのが68発、3
2発は星には入らなかったが角に入ったという。
義景は感に入り、家臣100人を選んで鉄砲寄子(組下)として光秀に預けたという。
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光秀は諸国を流浪した後、朝倉家に仕え、その知行は5、6百石であったという。
その頃の話として、こんな話が伝わります。
朝倉義景(1533-1573年)

彼は砲術に精妙を得ていて、(斎藤道三から学んだという説もある)ある時の戦闘で大功を立て
たので、彼の砲術が朝倉家中の評判になり、朝倉義景の耳に入った。
「しかじかの由、一覧したい」
と、朝倉義景は所望した。
「かしこまりました」
光秀は25間(約45m)の的に100発の玉を放ったところ、的の星に入ったのが68発、3
2発は星には入らなかったが角に入ったという。
義景は感に入り、家臣100人を選んで鉄砲寄子(組下)として光秀に預けたという。
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