長宗我部元親の四国制覇 その53
『阿波国制圧』
4、5日して水がひいたので、生気をとりもどした長宗我部軍は、再び攻撃を開始した。
猛攻に三好方はささえることができず、ついに9月21日、勝瑞城は落城し、三好(十河)存保
は讃岐の虎丸城に逃れた。
勝瑞城館跡

「麻植氏系(おえしけい))譜並家領(ふならびにかりょう)記」には
「三好も天正10年壬午8月19日勝瑞の屋形にて主君(細川持隆)を殺せし月日も替(かわ)
らず、長宗我部元親の為に敗軍落城して、三好一類の輩(やから)悉(ことごと)く亡(ほろび)
果てたる事は、豈業報(あにごうほう)の因果的然の通理、後世逆臣の鑑(かがみ)とすべし」
と、8月19日勝瑞落城説を述べている。
存保が勝瑞を去った月日も明らかでないが、『元親記』「昔阿波物語」や『矢野氏覚書』による
と、9月21日落城となっています。
ここに細川頼春以来約250余年、四国に号令してきた阿波屋形は、まったく崩壊した。
元親はただちに勝瑞城を取り壊し、岩倉城主の三好式部少輔を攻めてこれを追い落とし、阿波国
を完全に制圧した。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
4、5日して水がひいたので、生気をとりもどした長宗我部軍は、再び攻撃を開始した。
猛攻に三好方はささえることができず、ついに9月21日、勝瑞城は落城し、三好(十河)存保
は讃岐の虎丸城に逃れた。
勝瑞城館跡

「麻植氏系(おえしけい))譜並家領(ふならびにかりょう)記」には
「三好も天正10年壬午8月19日勝瑞の屋形にて主君(細川持隆)を殺せし月日も替(かわ)
らず、長宗我部元親の為に敗軍落城して、三好一類の輩(やから)悉(ことごと)く亡(ほろび)
果てたる事は、豈業報(あにごうほう)の因果的然の通理、後世逆臣の鑑(かがみ)とすべし」
と、8月19日勝瑞落城説を述べている。
存保が勝瑞を去った月日も明らかでないが、『元親記』「昔阿波物語」や『矢野氏覚書』による
と、9月21日落城となっています。
ここに細川頼春以来約250余年、四国に号令してきた阿波屋形は、まったく崩壊した。
元親はただちに勝瑞城を取り壊し、岩倉城主の三好式部少輔を攻めてこれを追い落とし、阿波国
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長宗我部元親の四国制覇 その52
『鳥刺舞』
一宮城主の一宮成介は牛岐(富岡)城主の新開道善らと結んで、元親の反対勢力を結集しよ
うとしていた。
これを察知した元親は、9月3日、成介を夷山城に殺し、ついで16日、新開道善を丈六寺に誘殺
して後顧の憂いをたち、中富川戦勝の余勢をかって、勝瑞城に入った三好(十河)存保を攻めた。
鳥刺舞

また元親の従弟・比江山掃部助は、板西城に押し寄せて、ここを制圧した。
元親の勝瑞城攻撃には、紀伊の雑賀衆の援助もあって意気はあがったが、攻撃中に豪雨に見舞
われ、出水のため非常に苦しんだ。
長宗我部軍は勝瑞城北方高地の萩原付近に陣取ったが、元親は城の西北の竜音寺の棟に矢倉
をたてて諸軍を下知したという。
また城に近い在所の神社・寺院のほか民家や森にもあがって、食糧に苦しみながら水が引くのを
待った。
三好方は小船を乗り回して、鳥刺しが寝鳥を刺すように長宗我部軍の兵を狙って刺していった。
卑怯ではあるが、簡単で効果覿面(てきめん)の戦術である。
これがもとでのちに阿波で鳥刺舞という舞踊が生まれるようになったという。
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一宮城主の一宮成介は牛岐(富岡)城主の新開道善らと結んで、元親の反対勢力を結集しよ
うとしていた。
これを察知した元親は、9月3日、成介を夷山城に殺し、ついで16日、新開道善を丈六寺に誘殺
して後顧の憂いをたち、中富川戦勝の余勢をかって、勝瑞城に入った三好(十河)存保を攻めた。
鳥刺舞

また元親の従弟・比江山掃部助は、板西城に押し寄せて、ここを制圧した。
元親の勝瑞城攻撃には、紀伊の雑賀衆の援助もあって意気はあがったが、攻撃中に豪雨に見舞
われ、出水のため非常に苦しんだ。
長宗我部軍は勝瑞城北方高地の萩原付近に陣取ったが、元親は城の西北の竜音寺の棟に矢倉
をたてて諸軍を下知したという。
また城に近い在所の神社・寺院のほか民家や森にもあがって、食糧に苦しみながら水が引くのを
待った。
三好方は小船を乗り回して、鳥刺しが寝鳥を刺すように長宗我部軍の兵を狙って刺していった。
卑怯ではあるが、簡単で効果覿面(てきめん)の戦術である。
これがもとでのちに阿波で鳥刺舞という舞踊が生まれるようになったという。
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明智光秀 seasonⅡ その10
『比叡の法灯絶える』
信長は危機を脱して、岐阜に戻った。
すぐ年が明けて1570年となった。
光秀はこの年、近江滋賀郡10万石を与えられ坂本に城を築いている。
織田家に仕えてから4年目、この時、光秀は44歳であった。
坂本城碑

つまり光秀は伯楽を得なかったため、40年間を平人で送っていたが、信長という伯楽を得てか
らわずか4年にして10万石一城の主となることができたのです。
無量の感慨があり、その感慨のなかには信長に対する感謝があったのでしょう。
この年の8月に信長は江州に兵を出して浅井氏と戦い、9月には比叡焼討ちを決行して、3千の
塔堂伽藍を煙とし、山中の老若男女(女人禁制ですが女もいたのです)ひとり残らず斬った。
「悪僧の儀は是非に及ばされども、是なる者は御扶(たす)けなされ候へと声々に申上げ候へど
も、御容赦なく、一々に頭を打落され、目もあてられぬ有様なり」(信長公記)
以後10数年、秀吉が再興するまで、比叡800年の法灯は絶えたのです。
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しつれいします・・・。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>
信長は危機を脱して、岐阜に戻った。
すぐ年が明けて1570年となった。
光秀はこの年、近江滋賀郡10万石を与えられ坂本に城を築いている。
織田家に仕えてから4年目、この時、光秀は44歳であった。
坂本城碑

つまり光秀は伯楽を得なかったため、40年間を平人で送っていたが、信長という伯楽を得てか
らわずか4年にして10万石一城の主となることができたのです。
無量の感慨があり、その感慨のなかには信長に対する感謝があったのでしょう。
この年の8月に信長は江州に兵を出して浅井氏と戦い、9月には比叡焼討ちを決行して、3千の
塔堂伽藍を煙とし、山中の老若男女(女人禁制ですが女もいたのです)ひとり残らず斬った。
「悪僧の儀は是非に及ばされども、是なる者は御扶(たす)けなされ候へと声々に申上げ候へど
も、御容赦なく、一々に頭を打落され、目もあてられぬ有様なり」(信長公記)
以後10数年、秀吉が再興するまで、比叡800年の法灯は絶えたのです。
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長宗我部元親の四国制覇 その51
『謀をなすは大将の術』
激戦の末、長宗我部勢は津野刑部をはじめ、名ある勇士276、雑兵384人が討死し、三好方
も屈強な勇士380騎、雑兵463人が討たれたという。
勝瑞城本丸の水郷

三好方の戦死者の中には、元親に滅ぼされた安芸国虎の一子・千寿丸も含まれていた。
彼は阿波に逃れた後、矢野備後守の婿となっていたが、父の仇を報いようとして出陣して討死し
たのです。
多くの味方の戦死者をみて、三好(十河)存保も討死を覚悟して乱戦の中へ突入しようとしたが、
家臣の東山備後守は
「大将は不覚の死をせぬものなり、千騎が一騎になるまでも命を全うして、謀(はかりごと)を
なすは大将の術なり」(『南海治乱記』
と必死に諫めたので、その言葉をいれ、勝瑞城へと退いた。
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激戦の末、長宗我部勢は津野刑部をはじめ、名ある勇士276、雑兵384人が討死し、三好方
も屈強な勇士380騎、雑兵463人が討たれたという。
勝瑞城本丸の水郷

三好方の戦死者の中には、元親に滅ぼされた安芸国虎の一子・千寿丸も含まれていた。
彼は阿波に逃れた後、矢野備後守の婿となっていたが、父の仇を報いようとして出陣して討死し
たのです。
多くの味方の戦死者をみて、三好(十河)存保も討死を覚悟して乱戦の中へ突入しようとしたが、
家臣の東山備後守は
「大将は不覚の死をせぬものなり、千騎が一騎になるまでも命を全うして、謀(はかりごと)を
なすは大将の術なり」(『南海治乱記』
と必死に諫めたので、その言葉をいれ、勝瑞城へと退いた。
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長宗我部元親の四国制覇 その50
『両軍激戦』
長宗我部勢の猛攻におされた三好軍の先陣の苦戦をみた三好(十河)存保は、本隊を率いて決
死の覚悟で駒を進めた。
長宗我部元親

長宗我部・三好両軍の戦いの様子を『土佐物語』には
「元親は先手に軍(いくさ)始めたるを見て、旗の手を進め給へば、2万余騎一度に川へ打入
り渡す程に、さしも広き大河なれども、大勢に堰留められ、逆水岸に余り、流れ十万に別れ、
本の淵瀬は中々に、陸地を行くが如きなり。2万余騎の兵共、一騎も残らず向の岸に駆上る。
先手是に機を得て、先陣後陣一同に鬨を作りて進みければ、三好隼人正も相懸りて、互に数千
挺の弓・鉄砲を放懸け、鬨の声矢叫の声、山川に響き渡りておびただし。敵味方入り乱れ、手
負死人を顧みず、両虎二竜の闘にて、いつ果つるとも見えざりけり。去れども三好は小勢なれ
ば終(つい)に懸負け、色めき立ちて見えければ、元親大音上げ、茲(ここ)を揉めや者共と、
士卒の気を励し、隙透間(ひますきま)なく下知し給へば、さしもの三好も強勢を砕かれて散
々になりて敗走す」
と述べ、『昔阿波物語』には
「三好の先手百計(ばかり)は中富端まで押し寄せ候所に、土州の2万人は川の深きところも
浅き処も平に中富地へわたし申候。これを見て三好正安(存保)公、中富の尾迄(まで)御馬
を寄せられ候。先手百計(ばかり)の衆はとても叶ふ軍(いくさ)にてはなく候間、打死せん
とて刀をぬき、かね打して川中へ渡り入り候。正安(存保)も先手の衆よりも、一町ばかり東
へ御馬をめし候て、打死成され候はんと御意成され候を、臣下に東山備後と申すもの、年50
余りになる人壱人(ひとり)御異見仕り、御のき成され候」
と記している。
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長宗我部勢の猛攻におされた三好軍の先陣の苦戦をみた三好(十河)存保は、本隊を率いて決
死の覚悟で駒を進めた。
長宗我部元親

長宗我部・三好両軍の戦いの様子を『土佐物語』には
「元親は先手に軍(いくさ)始めたるを見て、旗の手を進め給へば、2万余騎一度に川へ打入
り渡す程に、さしも広き大河なれども、大勢に堰留められ、逆水岸に余り、流れ十万に別れ、
本の淵瀬は中々に、陸地を行くが如きなり。2万余騎の兵共、一騎も残らず向の岸に駆上る。
先手是に機を得て、先陣後陣一同に鬨を作りて進みければ、三好隼人正も相懸りて、互に数千
挺の弓・鉄砲を放懸け、鬨の声矢叫の声、山川に響き渡りておびただし。敵味方入り乱れ、手
負死人を顧みず、両虎二竜の闘にて、いつ果つるとも見えざりけり。去れども三好は小勢なれ
ば終(つい)に懸負け、色めき立ちて見えければ、元親大音上げ、茲(ここ)を揉めや者共と、
士卒の気を励し、隙透間(ひますきま)なく下知し給へば、さしもの三好も強勢を砕かれて散
々になりて敗走す」
と述べ、『昔阿波物語』には
「三好の先手百計(ばかり)は中富端まで押し寄せ候所に、土州の2万人は川の深きところも
浅き処も平に中富地へわたし申候。これを見て三好正安(存保)公、中富の尾迄(まで)御馬
を寄せられ候。先手百計(ばかり)の衆はとても叶ふ軍(いくさ)にてはなく候間、打死せん
とて刀をぬき、かね打して川中へ渡り入り候。正安(存保)も先手の衆よりも、一町ばかり東
へ御馬をめし候て、打死成され候はんと御意成され候を、臣下に東山備後と申すもの、年50
余りになる人壱人(ひとり)御異見仕り、御のき成され候」
と記している。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
長宗我部元親の四国制覇 その49
『戦場で死するが本懐』
三好方では、三好備前守が2千余騎を従えて、川より6町ばかり離れた地点で槍衾(やりぶす
ま)を作り、長宗我部勢を追撃しようと待ち構えていた。
寄せ手が渡河し始めると、馬を一面にならべ、築地を越えて鬨の声あげながら、まっしぐらに
突入した。
中富川

こうして白波を蹴立てて乱戦が始まった。
三好方の家老で、この日の戦奉行の矢野伯耆守は、香宗我部親泰を見かけて名乗りをあげ、親
泰の具足の草摺をはね上げて膝口を突いたが、親泰はものともせず、伯耆守を突き落し、従者
に首を取らせるという武勲をたてた。
しかし、吉田左衛門左・孫介の兄弟は獅子奮迅の働きをしたが、三好方の山田陸太夫・渡辺亀
太夫にそれぞれ討たれた。
また、土佐で病を患っていた井上喜助は
「病いに死するよりは戦場で死するが本懐」
といって、一族・友人が止めるのも聞かず、中富川に駆けつけ、敵将・臼杵源兵衛を討ち取っ
たという勇ましい話も伝えられています。
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三好方では、三好備前守が2千余騎を従えて、川より6町ばかり離れた地点で槍衾(やりぶす
ま)を作り、長宗我部勢を追撃しようと待ち構えていた。
寄せ手が渡河し始めると、馬を一面にならべ、築地を越えて鬨の声あげながら、まっしぐらに
突入した。
中富川

こうして白波を蹴立てて乱戦が始まった。
三好方の家老で、この日の戦奉行の矢野伯耆守は、香宗我部親泰を見かけて名乗りをあげ、親
泰の具足の草摺をはね上げて膝口を突いたが、親泰はものともせず、伯耆守を突き落し、従者
に首を取らせるという武勲をたてた。
しかし、吉田左衛門左・孫介の兄弟は獅子奮迅の働きをしたが、三好方の山田陸太夫・渡辺亀
太夫にそれぞれ討たれた。
また、土佐で病を患っていた井上喜助は
「病いに死するよりは戦場で死するが本懐」
といって、一族・友人が止めるのも聞かず、中富川に駆けつけ、敵将・臼杵源兵衛を討ち取っ
たという勇ましい話も伝えられています。
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長宗我部元親の四国制覇 その48
『攻撃開始』
元親は川端近く、5、6町のところに進出し、久武内親直の渡河出撃の進言を入れ、軍司の等覚
に戦機の時刻を聞いた。
岡富城の元親公

等覚は
「ただいま牛の刻ばかり、日を背に負うて戦うのは戦術の常道」
と答えたので、元親は
「一斉に攻撃せよ」
と命令をくだした。
この時、元親は家臣に
「信親の馬の口を取って放すな」
と命じたが、信親は父の言葉に耳をかさず、馬取りの手に鞭をあてて中富川に馬を乗り入れたの
で、元親も後に続いた。
これより先、元親の指令を待っていた寄手の先陣・香宗我部親泰(元親の弟)は、命令いっか真
っ先に駆けだし、諸勢一同後に続き、水煙をあげて中富川に乗り入れた。
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元親は川端近く、5、6町のところに進出し、久武内親直の渡河出撃の進言を入れ、軍司の等覚
に戦機の時刻を聞いた。
岡富城の元親公

等覚は
「ただいま牛の刻ばかり、日を背に負うて戦うのは戦術の常道」
と答えたので、元親は
「一斉に攻撃せよ」
と命令をくだした。
この時、元親は家臣に
「信親の馬の口を取って放すな」
と命じたが、信親は父の言葉に耳をかさず、馬取りの手に鞭をあてて中富川に馬を乗り入れたの
で、元親も後に続いた。
これより先、元親の指令を待っていた寄手の先陣・香宗我部親泰(元親の弟)は、命令いっか真
っ先に駆けだし、諸勢一同後に続き、水煙をあげて中富川に乗り入れた。
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