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長宗我部元親の四国制覇 その78

『河野通直の降服』

毛利の援助にもかかわらず、天正13年(1585年)の春には、久武親信は1万6千の兵を率い

て北進し、松葉・大野を抜き、多田城主の多田蔵人を降し、山田城をも占拠した。

河野直道の供養塔
ko.河野直道供養塔

河野の家臣らはこの情勢をみて

「斯(か)くては当家もいかが有(あら)んずらん。所詮(しょせん)弱みなき先に降を乞い給

はば、四国に双(なら)びなき大家にて候間、元親も自余の城主には準ずべからず。一家同門の

思ひをなし給ふべし。急ぎ書簡を遺され、然るべく候」(土佐物語)

と河野通直に進言した。

通直もとうてい元親に敵し得ないことを悟り、ついに降服し、家老の平岡某を人質として岡豊に

送ってきた。

さきに家臣の大野氏のために地蔵嶽城を追われていた宇都宮氏も、遠江守元網が西伊予の松山に

いたが、城を持つことができず、毛利氏をたよって安芸国に退却した。



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長宗我部元親の四国制覇 その77

『村上水軍にも注意喚起』

小早川隆景も11月15日付けで桂元親に

「兎(と)も角(かく)、今の姿にては道後御無力なるべきの条、先年の如く渡海せしめ、今

に於いては一弓矢申し候はでは相叶(あいかな)はざるの条、松葉・大野の儀、此節不慮無き

副(そえ)申し度く候」

村上水軍城(資料館)
mu.村上水軍城(資料館)

「井又右(井上春忠)湯付(湯築)に逗留候間、毎事仰せ談ぜらるべく候。人々追々差渡され

候条、御心安かるべく、猶重畳(なおちょうじょう)申すべく候」(桂文書)

と手紙を出して、松葉・大野(東宇和郡)をもちこたえるよう申し送っている。

また隆景は伊予能島の村上元吉にも、12月10日付けで次の書状を出している。

宇和表御警固の儀、児三右(児玉元良)、井又右(井上春忠)の所よりも申し越し候。弥々

(いよいよ)御分別なされ、彼表(かのおもて)年内相拘(あいかわ)られ候御調儀(ごちょ

うぎ)、専一(せんいつ)に候。今の姿に於ては、道後御迷惑に及ばるべきの条、各々渡海せ

しめ一行申付くべく候。(村上文書)

すなわち、村上水軍に対し、宇和方面の防備に力をつくされるとともに、道後の河野氏が危な

いので援兵を送ることを知らせています。



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長宗我部元親の四国制覇 その76

『河野氏危うし』

毛利輝元は桂元親に10月26日、次の手紙を送っている。

毛利輝元(1553-1625年)
mo.毛利輝元 001

去る19日の注進状、具(つぶさ)に披見せしめ候。黒潮の儀落去、是非に及ぼす候。併(し

か)し内々弱々敷(よわよわしき)趣(おもむき)の由に候条、申すに及ばず候。道後へ追々

注進せしむるの由肝要(かんよう)に候。平賀・木梨方の儀差渡し候。其の外南方(南方就正

)以下検使として明後日28日渡海に候。道後への使として、児三右(児玉元良)井又右之(

井上春忠)を進め置き候。其表加勢の儀、追々緩(ゆるがせ)無く候条、其心を得べく候。

其方長々辛労(しんろう)の上、此節別して心遣の段、察せしめ候、涯分(がいぶん)(=力

の及ぶかぎり)暖有るべからず候。迚(とて)も各々差渡し候間、詳(つく)し能(あた)は

ず候。謹言

このような輝元の励ましにもかかわらず、桂元親の苦戦は深刻となり、長宗我部軍は三間・板

島(宇和島)方面から次第に北上をはじめた。

こうなると河野氏も危うくなるし、これを援助する毛利氏も気が気でならなかった。



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長宗我部元親の四国制覇 その75

『西園寺公広和睦』

三間表の諸城が相ついで長宗我部軍に降って、手足をもぎとられた西園寺公広は、土居清良を

頼るのみであったが、ついに長宗我部軍のために、天正12年10月19日、公広の居城・黒

瀬城は陥落した。

黒瀬城址
ku.黒瀬城址

ちなみに西園寺公広は南予での麾下の諸城相次いで潰(つい)えて行くのをみて、自己の勢威

を維持することが不可能であることを悟り、元親と和睦したというが、後に四国が秀吉の支配

下に入り、戸田勝隆が南伊の宇和・喜多郡を領するようになってから、公広は自己の所領を回

復することが出来ないことを悟り、黒瀬城を明け渡して九島(宇和島領内)の願成寺で念仏三

昧の月日を送ったとういう。



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長宗我部元親の四国制覇 その74

『宇和郡南部を制圧』

南伊予の最南端は西園寺氏の被官・御荘越前守の本城のほか、黒城・緑城・猿越・新城などの

諸城を構えて守っていた。

猿越城址
sa.猿越城址

天正12年12月、長宗我部の部将で、幡多郡吉奈の城主・十市(細川)備後守が猿越城を、

宿毛城主の宿毛右衛門太夫が緑城を占領した。

元親はこれを聞き、さらに桑名弥次兵衛・光留権之助ら麾下の将兵8千を派遣して、十市・宿

毛の2将を助けて御荘越前守の本城を攻撃させた。

相つぐ合戦の後、翌13年1月、ついにこれを降伏させた。

ついで津島城主の津島宗雲を襲って自刃させ、宇和郡南部を制圧した。



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長宗我部元親の四国制覇 その74

『宇和郡南部を制圧』

南伊予の最南端は西園寺氏の被官・御荘越前守の本城のほか、黒城・緑城・猿越・新城などの

諸城を構えて守っていた。

宿毛城址
sh.宿毛城址

天正12年12月、長宗我部の部将で、幡多郡吉奈の城主・十市(細川)備後守が猿越城を、

宿毛城主の宿毛右衛門太夫が緑城を占領した。

元親はこれを聞き、さらに桑名弥次兵衛・光留権之助ら麾下の将兵8千を派遣して、十市・宿

毛の2将を助けて御荘越前守の本城を攻撃させた。

相つぐ合戦の後、翌13年1月、ついにこれを降伏させた。

ついで津島城主の津島宗雲を襲って自刃させ、宇和郡南部を制圧した。



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長宗我部元親の四国制覇 その73

『長宗我部軍南予に進出』

土居城に向かった小姓組は、わずかの人数で城の西谷口から敵の足場を急襲して火をかけ、午下

の刻(午後一時)から申の刻(午後四時)まで戦い、本山・福留・桑名ら奉行衆の度々の引き揚

げ命令も応ぜず、奮戦を続けたが、夕刻になってようやく引き揚げた。

土居城址(現万福寺)
ma.万福寺

こうして三間表の諸城は長宗我部勢の猛襲にあって苦戦した。

これらの城はすべて西園寺の麾下であったが、このような苦境にたっても西園寺方は後詰めの手

当てもせず、加勢の兵も送らず、音信不通のままであったので、三間の諸城主はその不信に怒り、

そのため長宗我部への降服を早めた。

ところで、河野氏を援助する毛利軍の先陣として、長宗我部軍と対峙して非常な苦難をなめてい

たのは、毛利輝元の部将・桂元親であった。

輝元はたびたび桂元親に手紙を出して労をねぎらい奮戦を促したが、長宗我部軍はしだいに南予

の各地に進出した。



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robin 20200424


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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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