石山合戦 その15
『信長の力量』
本願寺との停戦後、信長の力量がものをいう。
信長は、本願寺と武田信玄との同盟に目をつけ、信玄との和睦をも実現しようとした。
武田信玄(1521-1573年)

信玄は早くから信濃を平定し、駿河に進み、西上の望みをもっていたが、ここで大軍を率いて上洛
されるか、美濃・尾張・三河を攻撃されるかすれば、信長のこれまでの仕事はまったく崩れ去るこ
とになる。
できれば武田と同盟して、信玄を甲・信の山奥に閉じ込め、上杉謙信と戦わせておきたいところで
あった。
そこで信長は将軍・義昭を説いて、義昭から信玄を説得し、本願寺との講和の斡旋役を引き受ける
ようにさせた。
信玄もさるもの、ただちにこの役割を快諾し、本願寺顕如にしばしば書状を送って、翌年8月、和
睦を成立させた。
信玄としては、ここで信長に恩を売り、後日の決戦のために時を稼ごうとしたのでしょう。
こうして信長は危機を脱した。
彼は全兵力をもって、各地の敵を各個撃破するため、迅速果敢な行動を開始した。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
本願寺との停戦後、信長の力量がものをいう。
信長は、本願寺と武田信玄との同盟に目をつけ、信玄との和睦をも実現しようとした。
武田信玄(1521-1573年)

信玄は早くから信濃を平定し、駿河に進み、西上の望みをもっていたが、ここで大軍を率いて上洛
されるか、美濃・尾張・三河を攻撃されるかすれば、信長のこれまでの仕事はまったく崩れ去るこ
とになる。
できれば武田と同盟して、信玄を甲・信の山奥に閉じ込め、上杉謙信と戦わせておきたいところで
あった。
そこで信長は将軍・義昭を説いて、義昭から信玄を説得し、本願寺との講和の斡旋役を引き受ける
ようにさせた。
信玄もさるもの、ただちにこの役割を快諾し、本願寺顕如にしばしば書状を送って、翌年8月、和
睦を成立させた。
信玄としては、ここで信長に恩を売り、後日の決戦のために時を稼ごうとしたのでしょう。
こうして信長は危機を脱した。
彼は全兵力をもって、各地の敵を各個撃破するため、迅速果敢な行動を開始した。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
スポンサーサイト
石山合戦 その14
『ひとまず停戦』
もともと信長に擁立された足利義昭は、本願寺と戦うことを好まなかったという。
足利義昭(1537-1597年)

本願寺こそは足利家や守護大名を、新興戦国大名から守ってくれるピンチヒッターにほかなら
なかったからでしょう。
そこで開戦早々から朝廷と連絡をとって本願寺との講和をはかった。
9月21日には、山科言継・柳原淳光が勅書をもって大坂に下向することになったが、通路が
危険で実行できず、そのうち信長が撤退したので、そのままになっていた。
しかし信長は苦境に立つと、今度は逆に講和を希望し、本願寺の本所である青蓮院尊朝法親王
の斡旋で、12月ひとまず停戦にこぎつけた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
もともと信長に擁立された足利義昭は、本願寺と戦うことを好まなかったという。
足利義昭(1537-1597年)

本願寺こそは足利家や守護大名を、新興戦国大名から守ってくれるピンチヒッターにほかなら
なかったからでしょう。
そこで開戦早々から朝廷と連絡をとって本願寺との講和をはかった。
9月21日には、山科言継・柳原淳光が勅書をもって大坂に下向することになったが、通路が
危険で実行できず、そのうち信長が撤退したので、そのままになっていた。
しかし信長は苦境に立つと、今度は逆に講和を希望し、本願寺の本所である青蓮院尊朝法親王
の斡旋で、12月ひとまず停戦にこぎつけた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
石山合戦 その14
『ひとまず停戦』
もともと信長に擁立された足利義昭は、本願寺と戦うことを好まなかったという。
本願寺こそは足利家や守護大名を、新興戦国大名から守ってくれるピンチヒッターにほかならなか
ったからである。
足利義昭(1537-1597年)

そこで開戦早々から朝廷と連絡をとって本願寺との講和をはかった。
9月21日には、山科言継・柳原淳光が勅書をもって大坂に下向することになったが、通路が危険
で実行できず、そのうち信長が撤退したので、そのままになっていた。
しかし信長は苦境に立つと、今度は逆に講和を希望し、本願寺の本所である青蓮院尊朝法親王の斡
旋で、12月ひとまず停戦にこぎつけた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
もともと信長に擁立された足利義昭は、本願寺と戦うことを好まなかったという。
本願寺こそは足利家や守護大名を、新興戦国大名から守ってくれるピンチヒッターにほかならなか
ったからである。
足利義昭(1537-1597年)

そこで開戦早々から朝廷と連絡をとって本願寺との講和をはかった。
9月21日には、山科言継・柳原淳光が勅書をもって大坂に下向することになったが、通路が危険
で実行できず、そのうち信長が撤退したので、そのままになっていた。
しかし信長は苦境に立つと、今度は逆に講和を希望し、本願寺の本所である青蓮院尊朝法親王の斡
旋で、12月ひとまず停戦にこぎつけた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
石山合戦 その13
『信長四面楚歌』
四国の阿波からは篠原長房賀が2万を率いて駆けつけ、延暦寺も浅井・朝倉と結び、六角義賢も
近江甲賀郡で信長軍と抗戦していた。
滝川一益(1522-1586年)

本願寺から指令を受けた諸国の門徒も蜂起し、11月になると近江の堅田、および信長の本国で
ある尾張に近い伊勢国北部の長島で一向一揆が立ち上がった。
この長島一揆は信長の横腹に短刀をつきつけたようなもので、桑名城主・滝川一益が鎮圧しよう
としたが、とうてい滝川の手におえるものではなかった。
一揆は信長の実弟・信興による尾張小牧城に攻め寄せ、11月21日、力尽きた信興は天守閣に
上って自害して果てた。
急を聞いて帰国しようとする信長も、伊勢・近江の間の千草越で六角方に狙撃され、危うく命拾
いをする有様であった。
信長は天下を目前にして四面楚歌の声を聞くことになった。
八方ふさがりの苦境から抜け出すためには、戦線を整理収縮しなければならない。
ここに外交工作によって本願寺との講話をはかることとなった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
四国の阿波からは篠原長房賀が2万を率いて駆けつけ、延暦寺も浅井・朝倉と結び、六角義賢も
近江甲賀郡で信長軍と抗戦していた。
滝川一益(1522-1586年)

本願寺から指令を受けた諸国の門徒も蜂起し、11月になると近江の堅田、および信長の本国で
ある尾張に近い伊勢国北部の長島で一向一揆が立ち上がった。
この長島一揆は信長の横腹に短刀をつきつけたようなもので、桑名城主・滝川一益が鎮圧しよう
としたが、とうてい滝川の手におえるものではなかった。
一揆は信長の実弟・信興による尾張小牧城に攻め寄せ、11月21日、力尽きた信興は天守閣に
上って自害して果てた。
急を聞いて帰国しようとする信長も、伊勢・近江の間の千草越で六角方に狙撃され、危うく命拾
いをする有様であった。
信長は天下を目前にして四面楚歌の声を聞くことになった。
八方ふさがりの苦境から抜け出すためには、戦線を整理収縮しなければならない。
ここに外交工作によって本願寺との講話をはかることとなった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
久しぶりのスマートいじり
『スマート蘇る!』
先週、カミさんが門柱に「てっぽう突き」をしていまい、スマート君が悲しい姿になっていまし
た。
悲しい姿は写真に収めることを忘れてしまいましたが、リアーフェンダーがバリバリに割れてし
まっています。
写真を撮り忘れていたので、外したリアフェンダーがこれです。

ディーラへ行くと、200Kコースは免れないのでしょう。
スマート君は、もともと簡単にパネルを交換してオシャレを楽しむ車でもあるので、ここはオーク
ションで探して自分で交換することに、、
ありました! 色も同じで、状態も良いとのことでしたので、即決価格でポチリと。(15K+送
料)
リアバンパーとリアフェンダーは一体になっていますので、取り外したついでにプラグ交換も。
スマート君は、3気筒600CCのエンジンに6本のプラグがついています。
左のプラグは水を被ったのでしょうか、キャップが錆びていたので磨いておきました。

上側のプラグ3本は簡単に外すことができます。

下側のプラグは、リアバンパーを外さないと交換が難しいです。

きれいに蘇ったスマート君です。
痛い目にあってしまいましたが、ご褒美にプラグ交換をしてもらいました。
ご機嫌よく、また走ってくれると思います。

ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

先週、カミさんが門柱に「てっぽう突き」をしていまい、スマート君が悲しい姿になっていまし
た。
悲しい姿は写真に収めることを忘れてしまいましたが、リアーフェンダーがバリバリに割れてし
まっています。
写真を撮り忘れていたので、外したリアフェンダーがこれです。

ディーラへ行くと、200Kコースは免れないのでしょう。
スマート君は、もともと簡単にパネルを交換してオシャレを楽しむ車でもあるので、ここはオーク
ションで探して自分で交換することに、、
ありました! 色も同じで、状態も良いとのことでしたので、即決価格でポチリと。(15K+送
料)
リアバンパーとリアフェンダーは一体になっていますので、取り外したついでにプラグ交換も。
スマート君は、3気筒600CCのエンジンに6本のプラグがついています。
左のプラグは水を被ったのでしょうか、キャップが錆びていたので磨いておきました。

上側のプラグ3本は簡単に外すことができます。

下側のプラグは、リアバンパーを外さないと交換が難しいです。

きれいに蘇ったスマート君です。
痛い目にあってしまいましたが、ご褒美にプラグ交換をしてもらいました。
ご機嫌よく、また走ってくれると思います。

ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

石山合戦 その12
『3千挺の鉄砲隊』
16日、17日は鉄砲を撃つのをやめて、本願寺から休戦を申し込んだ。
しかし、こうなっては、とうてい信長も承知できなかった。
清州城の信長公

むしろ休戦すれば、本願寺門徒が遠くから大坂に駆けつけ、戦闘力はますます増大するに違いな
い。
ひともみにもみ潰して門徒たちの精神的中枢を破壊し、要害の地を確保せねばならなかった。
そこで戦闘は継続され、本願寺方の紀伊の雑賀・根来の鉄砲隊は、3千挺の鉄砲を揃えて織田方
に撃ちこみ、20日には勇将・野村越中守も討死する有様であった。
また、この日、かねて本願寺から連絡を受けていた浅井・朝倉連合軍と一向一揆の約3万の大軍
が近江の坂本に進撃し、信長軍の背後を脅かした。
浅井らは坂本・大津に放火し、翌日には伏見・鳥羽・山科に進んで焼き立てた。
京都に侵入されては万事休すである。
信長はついに野田・福島の囲みを解いて、京都に引き揚げなければならなかった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
16日、17日は鉄砲を撃つのをやめて、本願寺から休戦を申し込んだ。
しかし、こうなっては、とうてい信長も承知できなかった。
清州城の信長公

むしろ休戦すれば、本願寺門徒が遠くから大坂に駆けつけ、戦闘力はますます増大するに違いな
い。
ひともみにもみ潰して門徒たちの精神的中枢を破壊し、要害の地を確保せねばならなかった。
そこで戦闘は継続され、本願寺方の紀伊の雑賀・根来の鉄砲隊は、3千挺の鉄砲を揃えて織田方
に撃ちこみ、20日には勇将・野村越中守も討死する有様であった。
また、この日、かねて本願寺から連絡を受けていた浅井・朝倉連合軍と一向一揆の約3万の大軍
が近江の坂本に進撃し、信長軍の背後を脅かした。
浅井らは坂本・大津に放火し、翌日には伏見・鳥羽・山科に進んで焼き立てた。
京都に侵入されては万事休すである。
信長はついに野田・福島の囲みを解いて、京都に引き揚げなければならなかった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
石山合戦 その11
『第一次石山攻め』
まだ本願寺そのものは立ち上がらなかった。
諸国で本願寺教団と信長軍との戦闘が始まったが、顕如は知らないふりをしていた。
足利義昭(1537-1597年)

だが9月12日、信長・足利義昭が海老江に陣を布いたとき、夜中に早鐘をつき鳴らし、決然と
挙兵した。
よもやと思っていた信長勢はびっくり仰天したという。
翌13日、未明からにわかに西風が吹き、西の海から海水があがって淀川の水は逆流した。
そこで好機至れりと、三好勢は堤防を潰したので、その日の豪雨とあいまって、信長の陣屋は水
浸しになってしまったという。
信長はこれにこりて、14日からはたんぼの中に、多くのやぐらを築いて対戦することとした。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
まだ本願寺そのものは立ち上がらなかった。
諸国で本願寺教団と信長軍との戦闘が始まったが、顕如は知らないふりをしていた。
足利義昭(1537-1597年)

だが9月12日、信長・足利義昭が海老江に陣を布いたとき、夜中に早鐘をつき鳴らし、決然と
挙兵した。
よもやと思っていた信長勢はびっくり仰天したという。
翌13日、未明からにわかに西風が吹き、西の海から海水があがって淀川の水は逆流した。
そこで好機至れりと、三好勢は堤防を潰したので、その日の豪雨とあいまって、信長の陣屋は水
浸しになってしまったという。
信長はこれにこりて、14日からはたんぼの中に、多くのやぐらを築いて対戦することとした。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>