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石山合戦 その41

『謙信出馬できず』

上杉謙信の出馬がなかったのは、加賀・越中の一向一揆との間の敵対関係がまだ続いていたた

めで、この重大時期になっても謙信の上洛を阻止しようという強い勢力があったためです。

春日山の上杉謙信
ue.上杉謙信 002

この年6月、謙信は越後と加賀の和約が成立すれば、秋には上洛すると小早川隆景に申し送っ

ています。

それで毛利家に厄介になっていた足利義昭は、なんとしても上杉の上洛を実現し、毛利ととも

に織田を挟み撃ちにしようと、しきりに本願寺に働きかけた。

本願寺も望むところであるから、金沢坊に圧力をかけ、わざわざ七里三河を下向させている。



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robin 20200630



<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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石山合戦 その40

『釜ゆでの刑』

このとき、上杉軍の救援はなく、組織され訓練された前田利家らが率いる精鋭は、烏合の衆に等

しい孤立した一揆を捕獲し惨殺した。

釜茹での刑に処せられる石川五右衛門
is.石川五右衛門

捕虜は千名にのぼり、これまた見せしめのために磔にされ、釜ゆでの刑に処せられてしまった。

小丸城の文字瓦は、釜ゆでの刑が戦国時代にあったことを物語るただひとつの貴重な文献です。

しかし、それが後世に伝えられたのは、この大虐殺のあとに、誇らしげに小丸城が築造され、戦

勝の記念に武人が瓦に彫り付けたからなのです。

この文字を後世に見る人は、我らの武功を語り伝えてくれと前田利家の部下が記したのですが、

私たちはまさに逆の立場で、日本人の血でつづられた戦乱の哀史こそ、この文字瓦の意味すると

ころであり、後世に語り伝える必要があるのでしょう。



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robin 20200629



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石山合戦 その39

『烏合の衆』

小丸城跡から出土した瓦は、いわゆる地頭瓦で、戦国末期のものであり、書風は御家流で文体も教

養ある人の手によるものであるという。

後世の贋作(がんさく)とは考えられないものであるという。

小丸城(本丸の埋門)
ko.小丸城(本丸の埋門)

小丸築城の年から考えて、天正4年と見るのがもっとも妥当である。

しかも、この5月28日、加賀一向一揆の首領たちが、金沢御坊・坊官で、前年、越前侵入軍の大

立者・七里三河に書状を送り、上杉謙信の出馬を催促するよう促しているから、越前一揆は加賀一

揆と呼応し、謙信の西上を期待して蜂起したのでしょう。

前年の戦禍にあったうえに小丸城構築に徴用され、重い負担をかけられた越前農民は、親兄弟を虐

殺された報復の念に燃えて、本願寺門徒の呼びかけに応じたのでしょう。

彼らは大挙して府中三人衆を攻撃し、再び越前を一向一揆の手に奪い返そうと立ち上がった。

しかし、結果は周知のとおりです。



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robin 20200628




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石山合戦 その38

『外部からの支援』

籠城戦は孤立無援では勝つ見込みはない。

しかし本願寺には外から強い味方が救援に来てくれる確信があった。

それは全国に散在する門徒があり、上杉謙信・毛利輝元であった。

毛利輝元(1553-1625年)
mo.毛利輝元 001

この本願寺の決起の呼びかけに応じて、信長軍の占領下からフェニックスのように立ち上がった

のは、前年、壊滅した越前の門徒であった。

福井県武雄市といえば、その昔、府中とよばれたところで、この近郊に味真野の五分市には三門

徒のひとつである出雲路派本山毫摂寺がある。

この近くに天正3年から前田利家・佐々成政・不破光治の府中三人衆が置かれた。

北ノ庄城の柴田勝家の目付役である。

この三人衆が天正4年に築いた小丸城の塀があったと思われる場所から、達筆で文字をはりつけ

た丸瓦片がいくつか出土しています。



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robin 20200627



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石山合戦 その36

『安土城築城』

信長は京都と北国の中間の要路を押さえる安土に築城を急ぎ、北国門徒の上坂と、上杉の南下

に備えた。

安土城(安土城登城記は「こちら」です。)
az.安土城 005

天正4年(1576年)1月には出来たばかりの安土城に入り、準備が整ったと見るや本願寺

への攻撃を開始した。

4月13日の夜には今宮口(大阪市)で戦端が開かれ、中ノ島孫太郎は一番槍の功名をたてて

下間正秀から感状を受けている。

だが信長は翌日の14日、早くも荒木村重・明智光秀・原田直政・細川藤孝の4人に本願寺攻

撃を命じている。

すでにプログラムは安土と大坂で編成されていたのです。



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robin 20200625



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石山合戦 その35

『第三次講和』

信長の越前平定によって、本願寺は北国門徒との連絡を断ち切られ、門主・顕如の落胆はひど

かったという。

そのうえすでに4月には、三好康長が信長に降参しており、「いずかたもたのむべき様体なき」

状態と観念せざるを得なかった。

上杉謙信(1530-1578年)
ue.上杉謙信 001

8月22日紀伊門徒に救援を依頼し、籠城と覚悟はしたが、越前での完全な敗北により、10月、

顕如は三好康長・松井友閑の斡旋で、一応、信長と第三次講和を結んだ。

第三次講和こそは、キツネとタヌキの化かしあいであった。

顕如は門下に、信長の和約に下心があることを警告しているが、自身も講和によって時を稼ご

うとしていたのです。

つまりこの年、武田勝頼と上杉謙信は和睦して足利義昭に加担し、毛利輝元もまた義昭を援け、

来春には挙兵することになっていたのです。

そこで顕如は、わずかに本願寺に残された補給基地雑賀(和歌山市)から、ぞくぞく鉄砲隊を

主力とする紀伊門徒を呼び寄せ、戦争準備をおこたらなかった。

そのうえ海上交通路を確保するため、淡路の岩屋に毛利の軍隊を駐屯させことを吉川元春に説

いている。



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robin 20200624




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石山合戦 その34

『加賀南部まで信長領に』

8月23日には信長は一乗谷に移り、羽柴・明智の両将は加賀に進んで、江沼・能美の両郡に手

を入れた。

手取川
te.手取川

ここでも柴山らの地侍が信長に応じ、農村門徒で信長に忠誠を誓うものもあった。

檜屋・大聖寺の城には、梁田広正・佐々権左衛門が置かれ、加賀南部は信長領となった。

加賀北部の石川・河北両郡の国侍たちは、大坂から下向したものどもを殺して臣従したいので許

したといっているが、実際は北加賀の侍衆は上杉の被官になっていたので、織田軍の進撃は湊川

(手取川)の線で止まっていたようです。

ここで南下してくる上杉謙信を食い止め、北加賀を両勢力の緩衝地帯にしようとしていなのでは

ないでしょうか。

織田・上杉の同盟は、形式的にはまだ継続していたのです。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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