鉄砲の伝来 その9
『鉄砲の伝来』
天文12年に鉄砲が種子島に伝えられたことは、今では常識になっています。
しかし徳川時代の文献には、伝来の年期について色々の異説がみられます。
種子島銃

伝来を天文12年以前だとするものだけでも、6つの説があるようです。
しかしヨーロッパ人が初めて日本へやって来たのは、天文12年前後であったことは事実ですから、
これを境に若干の年次の動きはあるかもしれませんが、12年伝来説は動かぬところなのでしょう。
鉄砲の伝来については、比較的信用できる史料が3種あります。
薩摩・大竜寺の文之(ぶんし)和尚が撰した「鉄炮記」、ポルトガル人の宣教師・ジョアン・ロド
リゲス・ツーズの著作の推定される『日本協会史』、日本発来者と自称するポルトガル人・メンデ
ス・ピントの『廻国記』です。
ロドリゲスは天文11年(1542年)としているが、文之は天文12年説である。
ビントがいうのは、はなはだ曖昧で、天文13、4年の頃と解してよいようです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
天文12年に鉄砲が種子島に伝えられたことは、今では常識になっています。
しかし徳川時代の文献には、伝来の年期について色々の異説がみられます。
種子島銃

伝来を天文12年以前だとするものだけでも、6つの説があるようです。
しかしヨーロッパ人が初めて日本へやって来たのは、天文12年前後であったことは事実ですから、
これを境に若干の年次の動きはあるかもしれませんが、12年伝来説は動かぬところなのでしょう。
鉄砲の伝来については、比較的信用できる史料が3種あります。
薩摩・大竜寺の文之(ぶんし)和尚が撰した「鉄炮記」、ポルトガル人の宣教師・ジョアン・ロド
リゲス・ツーズの著作の推定される『日本協会史』、日本発来者と自称するポルトガル人・メンデ
ス・ピントの『廻国記』です。
ロドリゲスは天文11年(1542年)としているが、文之は天文12年説である。
ビントがいうのは、はなはだ曖昧で、天文13、4年の頃と解してよいようです。
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鉄砲の伝来 その8
鉄砲の伝来 その7
『鉄放』
その後、150年余りは空白の時代がつづき、文安3年(1446年)に再び鉄砲の文字を見だす
ことができます。
壒囊抄

行誉(ぎょうよ)が撰した『壒囊抄(あいのしょう)』に
「テッハウト云フ字ハ何ゾ、鉄炮ト書也。紙ニテ作ルヲ紙炮ト云也」とある。
ここに言う鉄炮はどうやら元寇の時の「てっほう」と同様のものらしい。
また『蔭凉軒(おんりょうけん)目録』の記事に
「文正元年(1466年)7月28日のこと、琉球の官人が幕府に入貢したとき、退出の際に惣門
の外辺で“鉄放”一両声を放ち、人みな驚顛した」
とある。
いわゆる礼砲をうったわけです。
この「鉄放」は、琉球人が本国からたずさえてきたもので、おそらく携帯用の小型金属製有筒火器
であったのでしょう。
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その後、150年余りは空白の時代がつづき、文安3年(1446年)に再び鉄砲の文字を見だす
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壒囊抄

行誉(ぎょうよ)が撰した『壒囊抄(あいのしょう)』に
「テッハウト云フ字ハ何ゾ、鉄炮ト書也。紙ニテ作ルヲ紙炮ト云也」とある。
ここに言う鉄炮はどうやら元寇の時の「てっほう」と同様のものらしい。
また『蔭凉軒(おんりょうけん)目録』の記事に
「文正元年(1466年)7月28日のこと、琉球の官人が幕府に入貢したとき、退出の際に惣門
の外辺で“鉄放”一両声を放ち、人みな驚顛した」
とある。
いわゆる礼砲をうったわけです。
この「鉄放」は、琉球人が本国からたずさえてきたもので、おそらく携帯用の小型金属製有筒火器
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鉄砲の伝来 その6
『てつはう』
時代はずっとくだって、文永11年(1274年)11月の元寇のとき、元軍が鉄炮と呼ばれる
火器で日本軍を攻撃している。
蒙古襲来絵詞

この事実は『太平記』や『八幡愚童訓』が伝えており、『蒙古襲来絵詞』には、元軍が撃ちだし
た砲弾の炸裂している有様が描かれています。
そしてそのかたわらに「てつはう」と書き添えてあるという。
これは「てつはう」とはいっても、弾丸の発射器ではなく、鉄の空丸に爆発薬あるいは焼夷剤を
装填した弾丸そのものであった。
元軍はおそらく「てつはう」は投石機を使って日本軍に投げ込んだものか、そうでなければ相手
方に接近して手りゅう弾のように手投げしたものでしょう。
絵から察するにこの「てつはう」は、直径15cmくらいの弾丸であったようです。
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火器で日本軍を攻撃している。
蒙古襲来絵詞

この事実は『太平記』や『八幡愚童訓』が伝えており、『蒙古襲来絵詞』には、元軍が撃ちだし
た砲弾の炸裂している有様が描かれています。
そしてそのかたわらに「てつはう」と書き添えてあるという。
これは「てつはう」とはいっても、弾丸の発射器ではなく、鉄の空丸に爆発薬あるいは焼夷剤を
装填した弾丸そのものであった。
元軍はおそらく「てつはう」は投石機を使って日本軍に投げ込んだものか、そうでなければ相手
方に接近して手りゅう弾のように手投げしたものでしょう。
絵から察するにこの「てつはう」は、直径15cmくらいの弾丸であったようです。
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鉄砲の伝来 その5
『種子島以前の鉄砲』
鉄砲と呼べるものには、種子島銃伝来以前に、中国から原始的手銃が伝えられていた。
この手銃は鋳銅製で性能は悪く、日本の戦場ではあまり役に立った様子はありません。
それに比べて種子島銃は、アルケブスあるいはムスケットと呼ばれる錬鉄製の小銃で、命中率そ
の他、性能はきわめて優秀であった。
岡山城鉄砲隊

元の末期に発明された金属製の筒をもつ原始的手銃が、中国から朝鮮や日本に伝えられたのは事
実でしょうが、その年代は定かではありません。
中国には種々の形の火器があったようです。
火器らしいものが、わが国の人びとの眼に触れた最初は、承安2年(1172年)といわれます。
これは藤原兼実の日記「玉葉」によるものですが、伊豆の巖島(出島)に数人の異人が上陸し、
火炎放射器のようなもので畑の作物を焼き払ったとありますが、もっともこの日記の記載はあい
まいで、事の真偽は不明のようです。
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この手銃は鋳銅製で性能は悪く、日本の戦場ではあまり役に立った様子はありません。
それに比べて種子島銃は、アルケブスあるいはムスケットと呼ばれる錬鉄製の小銃で、命中率そ
の他、性能はきわめて優秀であった。
岡山城鉄砲隊

元の末期に発明された金属製の筒をもつ原始的手銃が、中国から朝鮮や日本に伝えられたのは事
実でしょうが、その年代は定かではありません。
中国には種々の形の火器があったようです。
火器らしいものが、わが国の人びとの眼に触れた最初は、承安2年(1172年)といわれます。
これは藤原兼実の日記「玉葉」によるものですが、伊豆の巖島(出島)に数人の異人が上陸し、
火炎放射器のようなもので畑の作物を焼き払ったとありますが、もっともこの日記の記載はあい
まいで、事の真偽は不明のようです。
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明智光秀 season2 その14
『八坂城攻囲』
11月19日に信長は荒木征伐のため京都を出発し、同日、山崎に陣をすえ、諸将を敵方の中川
清秀が籠もる茨木城と、高山右近が籠もる高槻城に遣わしていますが、茨木に向かった隊のなか
に光秀がいます。
茨木城籠城

このような状況で、光秀は八坂城攻めに専念できていませんが、この年の年末あたりから八上城
の攻囲に努めています。
八上城を干し殺しにするつもりですから、包囲を厳重にするだけで力攻めを避け、他の城々を攻
めています。
光秀が丹波経営に努力している時、信長の一手は荒木村重を攻め、羽柴秀吉が将となって播州の
経略を続けていた。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>
11月19日に信長は荒木征伐のため京都を出発し、同日、山崎に陣をすえ、諸将を敵方の中川
清秀が籠もる茨木城と、高山右近が籠もる高槻城に遣わしていますが、茨木に向かった隊のなか
に光秀がいます。
茨木城籠城

このような状況で、光秀は八坂城攻めに専念できていませんが、この年の年末あたりから八上城
の攻囲に努めています。
八上城を干し殺しにするつもりですから、包囲を厳重にするだけで力攻めを避け、他の城々を攻
めています。
光秀が丹波経営に努力している時、信長の一手は荒木村重を攻め、羽柴秀吉が将となって播州の
経略を続けていた。
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鉄砲の伝来 その4
『鉄砲の伝来』
わが国に初めにやってきたポルトガル人によって、鉄砲が伝来したのは、天文12年(1543年
)のことで、その頃、信長は9歳の少年で吉法師と名乗り、悪童の名をほしいままにしていた。
種子島火縄銃

日本群島発見の報がヨーロッパに伝わると、ポルトガルの商船はあいついで九州の周辺にやって来
た。
天文18年(1549年)には、フランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきて、キリスト教の伝
道を始めている。
西欧精神文明の第一歩が伝わったのです。
文字どおり日本は新しい息吹をたてはじめたのです。
鉄砲いわゆる種子島銃は、これに先立つこと6年、中国の密貿易船に便乗した数名のポルトガル人
によってもたらされた。
日本に初めてやって来た外国人が伝えた西欧物質文明のお目見えが武器であったのは、戦国動乱の
時代であっただけに重大な意味をもっていた。
従来の飛び道具と比べて、その性能はけたはずれに優れていたから、国内に伝播した速度はまたた
くまであった。
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わが国に初めにやってきたポルトガル人によって、鉄砲が伝来したのは、天文12年(1543年
)のことで、その頃、信長は9歳の少年で吉法師と名乗り、悪童の名をほしいままにしていた。
種子島火縄銃

日本群島発見の報がヨーロッパに伝わると、ポルトガルの商船はあいついで九州の周辺にやって来
た。
天文18年(1549年)には、フランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきて、キリスト教の伝
道を始めている。
西欧精神文明の第一歩が伝わったのです。
文字どおり日本は新しい息吹をたてはじめたのです。
鉄砲いわゆる種子島銃は、これに先立つこと6年、中国の密貿易船に便乗した数名のポルトガル人
によってもたらされた。
日本に初めてやって来た外国人が伝えた西欧物質文明のお目見えが武器であったのは、戦国動乱の
時代であっただけに重大な意味をもっていた。
従来の飛び道具と比べて、その性能はけたはずれに優れていたから、国内に伝播した速度はまたた
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