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九州の群雄割拠 その5

『有名無実の九州探題』

幕府は九州探題と大内氏によって、九州の豪族を抑えようともくろんでいたので、この情勢に驚い

た。

菊池兼朝(1383-1444年)
ki.菊池兼朝

そこで菊池兼朝に筑後守護職を与えることを条件に、探題および大内氏に協力させようとしたが、

探題の渋川満直は、永享6年(1434年)少弐軍と戦って肥前(佐賀県)の神崎で戦死してしま

った。

このため幕府は、九州経営のためにいっそう大内氏を頼ることになった。

長禄・寛正(1457-66年)頃の大内教弘のときには、家臣・陶弘房を筑前守護代として箱崎

に仁保弘直を大宰府に、杉興信を豊前松山城に、陶美作を筑後山門郡の垂見城におき、在地豪族・

原田弘種を筑前高祖に、秋月種繁を秋月におき、九州政治の中心北九州は大内氏に支配され、探題

は有名無実となってしまった。



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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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明智光秀 season2 その15

『光秀の老母は人質になっていなかった?』

一方、信長公記ではこう説きます。

八上城
ya.八上城 002

八上城に対しては、光秀が去年から取巻いて、三里四方に堀をめぐらせ、丈夫な塀柵を幾重もつけ

て攻めたので、城内の者たちは食料が尽きて飢え苦しみ、はじめは草木の葉をむしり食ったりして

いたが、後には牛馬を殺して食うに至った。

苦しまぎれに城を脱出する者が出てきたが、これらは寄せ手が全員斬ったので、城中の者は戦意が

つきた。

そこを見透かし、「波多野兄弟3人の者、調略を以って召捕まえる」とある。

信長公記には、光秀の老母のことなど出てこないのです。



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robin 20200830



<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>

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九州の群雄割拠 その4

『戦乱の北九州』

応永の乱後も九州探題の権威は高まらず、渋川満頼とその子・義俊の積極策にもかかわらず、応永

30年(1423年)には少弐満貞・千葉鎮胤に攻められて、博多から肥前(佐賀県)・筑後(福

岡県)と逃避行を続け、周防の大内持世に助けを求め、ついに31年には京都に逃げ帰ってしまっ

た。

当時の九州勢力図
ky.南北朝後の九州勢力図

その後、幕府は後任も決定できないという有様であった。

このようにして北九州では、大内氏と大友・少弐両氏の対立となり、博多も一時は少弐・大友氏が

東西に分けて領有することになったが、時には大内盛見が少弐を破って大宰府を制圧することもあ

った。

正長元年(1428年)2月頃、幕府は渋川満直を探題として博多鳥飼城におき、盛見は筑前を預

かって、家臣・陶氏を代官として博多に駐在させた。

しかし、大友・少弐・菊池の3氏はこれに反対し、永享3年(1431年)には盛見を筑前の糸島

に攻めて殺した。



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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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九州の群雄割拠 その3

『応永の乱』

今川了俊が去った後、幕府はいったん豊後の大友親世を九州奉行に任じたが、やがて応永3年

(1396年)4月、足利一族の渋川満頼を探題に任命し、筑前博多を怒らせた。

菊池節朝(1363-1407年)
ki.菊池武朝

大内義弘はこの探題交代の一時的な空白期間を利用して、豊後の大友親世と連合し、肥後(熊

本県)の菊池武朝を攻めてこれを沈黙させ、少弐貞頼を攻めて太宰府を占領し、渋川満頼の探

題職をまったく有名無実なものにした。

将軍・義満は、義弘の野心を知り、これを討つために九州の豪族たちに密書を下した。

そのとき義弘は京都にいたが、九州では大友親世と結び、東国では関東公方・足利満兼に呼応

して、和泉の堺で兵をあげた。

応永6年10月のことであった。

しかし、幕府軍によって堺城は落とされ、義弘は自殺し、弟・盛見も豊前において渋川満頼に

攻められ、応永の乱は落着した。



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九州の群雄割拠 その2

『九州探題の弱体化』

今川了俊の解任の理由は、周防(山口県)の大内義弘が将軍・足利義満に讒言したためであると

いわれる。

足利義満(1358-1408年)
as足利義満

この頃、大内義弘は、その勢力を九州に伸ばしており、筑前(福岡県)・豊前(福岡県・大分県)

の守護代を兼ね、明との貿易を盛んにしたいと希望していた。

そのため博多を抑えようとし、博多に駐在する九州探題を除くため、了俊の九州経営の成功をこ

ころよく思っていない大友・少弐・島津・菊池などの諸氏と結び、足利義満に讒言したわけで、

幕府はその計略にうまくかかったのです。

これから後の九州では、九州探題を仲介としての幕府の強力な支配が目に見えて弱体化し、群雄

が起こり、割拠の様相を呈することとなる。



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robin 20200827




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九州の群雄割拠 その1

『九州探題』

応安4年(1371年)、九州宮方(南朝方)の中心である征西府と菊池氏を攻略するために、将

軍・足利義満の特命を受けて西下した今川了俊(貞世)も、25年後の応永2年(1395年)に

は九州探題を解任され、京都に呼び返されてしまった。

今川了俊(1326-1420年)
im.今川貞世

了俊は優れた政略と戦術によって、九州経営に成功したが、その敏腕が九州の守護大名たちにとっ

て迷惑至極なものになっていたのです。

南北朝の内乱は、九州でも正平・観応年代から、大名たちの領地獲得戦の様相を帯びてきており、

幕府の出先機関としての九州探題が駐在することは、その権威を借りるためにのみ必要な存在とな

った。

ことの了俊のように有能な探題に統制され、中央幕府の政権に圧服させられることは、地方辺境の

独立性の強い領主にとって望ましくなかった。



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鉄砲の伝来 その28

『戦いが技術を進歩させる』

戦国時代の製鉄技術を明らかにする資料は残っていないので、具体的にどのような技術的進歩

があったのかは、はっきりしません。

火縄銃を撃つ足軽
hi.火縄銃002

水心子正秀の『剣工秘伝志』や、筆者不明の『鉄山略弁』といった鉄山技術書によると、優秀

な和鋼を製出する方法が行われるようになったのは、天文の頃からであるという。

これなどは事実の一端を示しているのでしょう。

戦国の動乱社会が、鉄砲の必要性を生み、そのため製鉄技術の一大進歩という贈り物を後世に

残した事実は間違いないことです。

古今、戦いは技術を進歩させるものですね。


鉄砲の伝来にお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回は、九州の群雄割拠について勉強してみたいと思います。

よかったら、お付き合いお願いいたします。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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