九州の群雄割拠 その27
『室町幕府の評価』
永禄2年6月、大友義鎮(宗麟)はついに豊前・筑前両国の守護職に補任され、謝礼として太刀2
腰・青銅2万を献上した。
足利義輝(1536-1565年)

1ヵ国守護職の補任料が、太刀一腰・青銅1万であったのでしょう。
同年8月、将軍・義輝は同朋衆歳阿なるものを豊後に下し、鷹狩りの鷹2羽を与えるとともに、義
鎮に対して幕府経営料の奉献その他を命じた。
また、このとき大館晴光は、周防大内氏の家督を義鎮に継がせるという義輝の意向を伝達し、将軍
の母・慶寿院はとくに衣服を義鎮に贈った。
ときの室町将軍家では、義鎮を全国の諸大名の中で特別高く評価し、これに依頼するところが多か
った訳で、義鎮はこれに応えるとともに、その権威を九州における軍事的・政治的活動に利用した。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
永禄2年6月、大友義鎮(宗麟)はついに豊前・筑前両国の守護職に補任され、謝礼として太刀2
腰・青銅2万を献上した。
足利義輝(1536-1565年)

1ヵ国守護職の補任料が、太刀一腰・青銅1万であったのでしょう。
同年8月、将軍・義輝は同朋衆歳阿なるものを豊後に下し、鷹狩りの鷹2羽を与えるとともに、義
鎮に対して幕府経営料の奉献その他を命じた。
また、このとき大館晴光は、周防大内氏の家督を義鎮に継がせるという義輝の意向を伝達し、将軍
の母・慶寿院はとくに衣服を義鎮に贈った。
ときの室町将軍家では、義鎮を全国の諸大名の中で特別高く評価し、これに依頼するところが多か
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九州の群雄割拠 その26
『厚顔な義鎮』
毛利方の策動はたえず行われ、義鎮は常に北九州に対し、大小さまざまの規模での出兵を余儀なく
された。
大分駅前の宗麟公

このため豊前・筑前両国の守護職補佐を希望し、弘治3年12月、光恩寺の光珍を使者として京都
に送り、黄金100両を将軍・義輝に、同30両を大館晴光に贈った。
さらに翌、永禄元年(1558年)10月には、光照寺の聖惟を使者として、肥前国守護に補せら
れた謝礼、将軍・義輝の代始めの祝賀、自分が大友氏を継いだしるしとして、前記3件につき一件
ごとに太刀一腰・青銅一万を献じ、ほかに義輝の母・慶寿院あてに黄金30両、義輝の夫人に10
両を献上した。
そのうえ厚顔にも、豊前・筑前の守護に補せられるならば、一層の礼物を献上しようと申し出た。
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毛利方の策動はたえず行われ、義鎮は常に北九州に対し、大小さまざまの規模での出兵を余儀なく
された。
大分駅前の宗麟公

このため豊前・筑前両国の守護職補佐を希望し、弘治3年12月、光恩寺の光珍を使者として京都
に送り、黄金100両を将軍・義輝に、同30両を大館晴光に贈った。
さらに翌、永禄元年(1558年)10月には、光照寺の聖惟を使者として、肥前国守護に補せら
れた謝礼、将軍・義輝の代始めの祝賀、自分が大友氏を継いだしるしとして、前記3件につき一件
ごとに太刀一腰・青銅一万を献じ、ほかに義輝の母・慶寿院あてに黄金30両、義輝の夫人に10
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九州の群雄割拠 その25
『北九州への元就の策動』
厳島の戦いの弘治元年10月の直後から、北九州肥前・筑前・豊後3国は、元就の策動によって
不穏の情勢になった。
毛利元就(1497-1571年)

安定していたのは、義長が陶晴賢に擁せられて周防国主となっていたわずか3年に過ぎなかった。
肥前国守護となった大友義鎮(宗麟)は、毛利元就とあらわに激突せざるを得なくなる。
筑前古所山城の秋月文種は、すでに義長が元就に呼応し、筑前・肥前・豊前の小豪族に働きかけ
て大友氏から独立を図った。
義鎮はただちに志賀親守ら諸将を送り、古所城を攻めて陥れ、弘治3年7月には文種が自殺し、
子・種実は周防の元就のもとに逃げ去った。
やがて筑紫推門は降伏し、その他3ヵ国の武将たちも降伏、あるいは殺され、いったん平定され
た。
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厳島の戦いの弘治元年10月の直後から、北九州肥前・筑前・豊後3国は、元就の策動によって
不穏の情勢になった。
毛利元就(1497-1571年)

安定していたのは、義長が陶晴賢に擁せられて周防国主となっていたわずか3年に過ぎなかった。
肥前国守護となった大友義鎮(宗麟)は、毛利元就とあらわに激突せざるを得なくなる。
筑前古所山城の秋月文種は、すでに義長が元就に呼応し、筑前・肥前・豊前の小豪族に働きかけ
て大友氏から独立を図った。
義鎮はただちに志賀親守ら諸将を送り、古所城を攻めて陥れ、弘治3年7月には文種が自殺し、
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明智光秀 season2 その15
『秀吉の備中高松城水攻め』
武田家の運命が天目山につきた頃、羽柴秀吉は姫路を出発して、山陽道を西に向かい、この方面の
毛利氏の前線拠点である備中高松城を目指した。
高松城は清水宗治の居城です。
清水宗治(1537-1582年)

剛名の名ある人物なので、秀吉は力攻めを避けたいと思って、岡山に到着すると黒田官兵衛と蜂須
賀正勝とを使者として遣わし、利害を説いて降伏するように勧めたが、宗治はキッパリとはねつけ
た。
しかたがない。
秀吉は岡山を出発して備中路に入り、高松城周辺の小城を片っ端から攻略し、高松城を孤立させて
おいて、包囲にかかった。
城を中心にして延々と26町という長堤を築き、足守川と長野川をせき止めて、有名な水攻めを始
めたのです。
おりからの梅雨、数日にして山々の麓と長堤に囲まれた平野は一面の湖水となり、城はその中心に
離れ小島のようにはかない姿になった。
「高松城危し!」
との報が毛利家に入ると、毛利家では小早川隆景と吉川元春とが先鋒部隊として繰り出し、高松付
近の山に本陣をかまえ、付近の山々に布陣した。兵およそ3万余り。
続いて毛利家の当主・輝元も出てきて、高松から6里ほどの猿掛山に陣取った。
この時秀吉が率いていた兵は、宇喜田秀家の兵1万を合わせて総勢で3万であった。
秀吉は1万を毛利勢にそなえ、2万をもって高松城の監視を厳重に続けた。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>
武田家の運命が天目山につきた頃、羽柴秀吉は姫路を出発して、山陽道を西に向かい、この方面の
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高松城は清水宗治の居城です。
清水宗治(1537-1582年)

剛名の名ある人物なので、秀吉は力攻めを避けたいと思って、岡山に到着すると黒田官兵衛と蜂須
賀正勝とを使者として遣わし、利害を説いて降伏するように勧めたが、宗治はキッパリとはねつけ
た。
しかたがない。
秀吉は岡山を出発して備中路に入り、高松城周辺の小城を片っ端から攻略し、高松城を孤立させて
おいて、包囲にかかった。
城を中心にして延々と26町という長堤を築き、足守川と長野川をせき止めて、有名な水攻めを始
めたのです。
おりからの梅雨、数日にして山々の麓と長堤に囲まれた平野は一面の湖水となり、城はその中心に
離れ小島のようにはかない姿になった。
「高松城危し!」
との報が毛利家に入ると、毛利家では小早川隆景と吉川元春とが先鋒部隊として繰り出し、高松付
近の山に本陣をかまえ、付近の山々に布陣した。兵およそ3万余り。
続いて毛利家の当主・輝元も出てきて、高松から6里ほどの猿掛山に陣取った。
この時秀吉が率いていた兵は、宇喜田秀家の兵1万を合わせて総勢で3万であった。
秀吉は1万を毛利勢にそなえ、2万をもって高松城の監視を厳重に続けた。
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九州の群雄割拠 その24
『宗麟、肥前国守護に』
厳島の戦いがあった頃、大友義鎮(宗麟)は、肥前国守護職に補任されたいと、将軍・義輝に懇請
し、側近の大舘晴光・伊勢貞孝や勝光寺の住職・光秀に猛運動を展開し、将軍あてに正月には祝儀
大友義鎮(宗麟)

として、青銅・太刀・馬、3月、6月にもそれぞれ太刀・緞子(どんす)などを送り付け、ポルト
ガル人から買い付けた南蛮鉄砲を大納言・藤原雅綱に託して贈呈するなど、百万手を尽くし、加判
衆の家臣・志賀親守・雄城治景・田北鑑生・吉岡長増・臼杵鑑続の連署状をも準備して、幕府に願
い出させるなど周到をきわめた。
一年半の猛運動が功を奏して、23年8月、義鎮は肥前国守護職に補任された。
また、この頃、瑞夢(ずいむ:めでたい夢)によって五郎義鎮を新太郎義鎮と改称した。
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厳島の戦いがあった頃、大友義鎮(宗麟)は、肥前国守護職に補任されたいと、将軍・義輝に懇請
し、側近の大舘晴光・伊勢貞孝や勝光寺の住職・光秀に猛運動を展開し、将軍あてに正月には祝儀
大友義鎮(宗麟)

として、青銅・太刀・馬、3月、6月にもそれぞれ太刀・緞子(どんす)などを送り付け、ポルト
ガル人から買い付けた南蛮鉄砲を大納言・藤原雅綱に託して贈呈するなど、百万手を尽くし、加判
衆の家臣・志賀親守・雄城治景・田北鑑生・吉岡長増・臼杵鑑続の連署状をも準備して、幕府に願
い出させるなど周到をきわめた。
一年半の猛運動が功を奏して、23年8月、義鎮は肥前国守護職に補任された。
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九州の群雄割拠 その23
『厳島の戦い』
3月3日、大友晴英は山口館に迎え入れられ、大内屋形と称し、将軍・義輝の諱(いみな)を与
えられて、左京大夫兼周防権介多々良義長と号した。
厳島(広島県)

もちろん国務は陶晴賢が支配した。
晴賢は剃髪して全薑(ぜんきょう)と称したが、、その後、大内氏重臣のひとりである毛利元就
との間に、はげしい抗争が生まれることとなる。
元就は旧主・義隆の仇を報ずることを名分とし、ついに弘治元年(1555年)10月、晴賢を
安芸の厳島に襲撃し自殺させ、3年4月、晴賢のロボットに過ぎなかった義長を長門勝山城に攻
め滅ぼし、大内義隆の中国における遺領をことごとく手に入れた。
この間、義長が建てた耶蘇教会堂大道寺も兵火に焼失し、宣教師コスメ・デ・トルレスらは、豊
後府内にのがれて大友義鎮(宗麟)をたよった。
元就は北九州における大内氏の旧勢力挽回と称し、反大友勢力結集の策動を活発化することとな
る。
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3月3日、大友晴英は山口館に迎え入れられ、大内屋形と称し、将軍・義輝の諱(いみな)を与
えられて、左京大夫兼周防権介多々良義長と号した。
厳島(広島県)

もちろん国務は陶晴賢が支配した。
晴賢は剃髪して全薑(ぜんきょう)と称したが、、その後、大内氏重臣のひとりである毛利元就
との間に、はげしい抗争が生まれることとなる。
元就は旧主・義隆の仇を報ずることを名分とし、ついに弘治元年(1555年)10月、晴賢を
安芸の厳島に襲撃し自殺させ、3年4月、晴賢のロボットに過ぎなかった義長を長門勝山城に攻
め滅ぼし、大内義隆の中国における遺領をことごとく手に入れた。
この間、義長が建てた耶蘇教会堂大道寺も兵火に焼失し、宣教師コスメ・デ・トルレスらは、豊
後府内にのがれて大友義鎮(宗麟)をたよった。
元就は北九州における大内氏の旧勢力挽回と称し、反大友勢力結集の策動を活発化することとな
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