九州の群雄割拠 その50
『立花城落城』
毛利軍は石見の吉見氏、出雲の尼子氏、備後の神鍋氏をもその軍勢の中に加えており、永禄12
年5月の筑前立花表の戦いは、中国軍と九州軍との激突の様相であった。
立花城の位置

毛利軍の中には金銀坑の山堀り人夫の一隊があって、大友軍が立てこもっている立花城の山下を
掘り進み、城内の櫓を掘り倒したり、水源を止めたりした。
このため城中では飲料水がなくなってしまった。
城の武将・田北鑑益や鶴原宗叱は高良山の大友宗麟の本営に忍者を発し、降参してもよいか聞い
た。
水がないので、しかたなく城兵は降参した。
この後も、博多松原・多々良浜で会戦を繰り返したが、勝敗は決定しなかった。
宗麟は高良山の本営を引き払って豊後に帰り、毛利氏に対して決定的打撃を与える方策を練るこ
とにした。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
毛利軍は石見の吉見氏、出雲の尼子氏、備後の神鍋氏をもその軍勢の中に加えており、永禄12
年5月の筑前立花表の戦いは、中国軍と九州軍との激突の様相であった。
立花城の位置

毛利軍の中には金銀坑の山堀り人夫の一隊があって、大友軍が立てこもっている立花城の山下を
掘り進み、城内の櫓を掘り倒したり、水源を止めたりした。
このため城中では飲料水がなくなってしまった。
城の武将・田北鑑益や鶴原宗叱は高良山の大友宗麟の本営に忍者を発し、降参してもよいか聞い
た。
水がないので、しかたなく城兵は降参した。
この後も、博多松原・多々良浜で会戦を繰り返したが、勝敗は決定しなかった。
宗麟は高良山の本営を引き払って豊後に帰り、毛利氏に対して決定的打撃を与える方策を練るこ
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九州の群雄割拠 その49
九州の群雄割拠 その48
『肥前の平定』
佐賀城の戦いで、竜造寺方の鍋島信生は、敵将・八郎親貞の陣営の幕にそめた紋所の杏葉が火に映
って立派に見えたので、この戦いに勝つことができたならば、記念のために家の紋にしようと思っ
たことから、鍋島氏の従来の剣菱の紋を止めてこれに変えたという。
鍋島家杏葉の紋

これが鍋島氏の杏葉の紋です。
この会戦は竜造寺氏にとって生死の岐路に立つ重大な戦いであった。
翌月、大友氏からも和睦を申し込んできたので和議が成立し、隆信の弟・信周を大友氏に人質とし
た。
有馬・松浦の諸氏もまた大友方に降り、肥前は平定された。
しかし、隆信の弟・長信は多久城に入り、有馬・松浦の抑えの意味を担ったから、この和議も一時
的なものに過ぎなかった。
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佐賀城の戦いで、竜造寺方の鍋島信生は、敵将・八郎親貞の陣営の幕にそめた紋所の杏葉が火に映
って立派に見えたので、この戦いに勝つことができたならば、記念のために家の紋にしようと思っ
たことから、鍋島氏の従来の剣菱の紋を止めてこれに変えたという。
鍋島家杏葉の紋

これが鍋島氏の杏葉の紋です。
この会戦は竜造寺氏にとって生死の岐路に立つ重大な戦いであった。
翌月、大友氏からも和睦を申し込んできたので和議が成立し、隆信の弟・信周を大友氏に人質とし
た。
有馬・松浦の諸氏もまた大友方に降り、肥前は平定された。
しかし、隆信の弟・長信は多久城に入り、有馬・松浦の抑えの意味を担ったから、この和議も一時
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九州の群雄割拠
『佐賀城の戦い』
永禄12年3月、大友宗麟は竜造寺隆信を徹底的に攻撃して、肥前地方の不断の波乱を根本的に
平定しようと、大軍を率いて臼杵丹生島を出発、筑後高良山下の岩井川に塁を築いて本営とした。
佐賀城(佐賀城登城記は「こちら」です。)

高良山の座主僧・都良寛、大祝鏡山保常も僧徒・神人らを率いて宗麟に従った。
これまでも隆信を攻撃するために部将を派遣したことはしばしばあったが、宗麟みずからの出陣
は最初であり、彼の決意のほどがわかります。
宗麟は甥の八郎親貞を大将とし、豊後の軍兵のほか、波多・後藤・鶴田・神代・八戸など肥前の
武将を誘い、佐賀城を攻めた。
竜造寺方では鍋島信生の奮戦がものすごく、これを破って退けた。
しかし、同年8月、宗麟はふたたび親貞を大将とし、神代兵を先鋒として佐賀城の西北12km
の今山に陣をとり、一撃のもとに陥落させようとした。
城内の兵数は少なく危険が迫ったが、信生は8月20日の払暁に乗じて親貞陣の背後を急襲し、
親貞を斬った。
これで大友軍は散々に逃げ散り、佐賀城の危急は救われた。
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いつもありがとうございます。
『ribinクンのテーブルマナー』
食べたよ もう、ないですか (*`^´)=3

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
永禄12年3月、大友宗麟は竜造寺隆信を徹底的に攻撃して、肥前地方の不断の波乱を根本的に
平定しようと、大軍を率いて臼杵丹生島を出発、筑後高良山下の岩井川に塁を築いて本営とした。
佐賀城(佐賀城登城記は「こちら」です。)

高良山の座主僧・都良寛、大祝鏡山保常も僧徒・神人らを率いて宗麟に従った。
これまでも隆信を攻撃するために部将を派遣したことはしばしばあったが、宗麟みずからの出陣
は最初であり、彼の決意のほどがわかります。
宗麟は甥の八郎親貞を大将とし、豊後の軍兵のほか、波多・後藤・鶴田・神代・八戸など肥前の
武将を誘い、佐賀城を攻めた。
竜造寺方では鍋島信生の奮戦がものすごく、これを破って退けた。
しかし、同年8月、宗麟はふたたび親貞を大将とし、神代兵を先鋒として佐賀城の西北12km
の今山に陣をとり、一撃のもとに陥落させようとした。
城内の兵数は少なく危険が迫ったが、信生は8月20日の払暁に乗じて親貞陣の背後を急襲し、
親貞を斬った。
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九州の群雄割拠 その46
『毛利軍九州上陸』
永禄11年9月以降、毛利元就の軍が北九州に上陸し、大友軍と合戦・攻城戦を繰り返した。
大友方の対中国軍防衛の中心は、戸次鑑連(立花道雪)であった。
立花道雪(1513-1585年)

この月、毛利元就の前衛軍は博多に近い多々良浜で大友軍と戦い、10月には筑前宝満城の高橋
鑑種を助けるために、吉川元春・小早川隆景を九州に派遣した。
元春が率いる海軍は豊前に到着し、宗麟方の長野壱岐守は三岳城に拠って、その前進を阻んだ。
しかし毛利軍の猛攻に三岳城は陥り、翌12年3月には、元春・隆景の大軍が豊前を席巻して筑
前に乱入し、立花城を攻めた。
元就みずから、はじめて大軍をもって安芸から門司関に軍陣を進め、元春・隆景を指揮後援した。
宗麟は田北鑑富・戸次親久らを豊前の高和に送り、元就に備えたが、他方、竜造寺との対戦中で
あるため、全力をもって中国勢にあたることができなかった。
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いつもありがとうございます。
『ribinクンのテーブルマナー』
お代わりも貰うことができました(^^♪

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永禄11年9月以降、毛利元就の軍が北九州に上陸し、大友軍と合戦・攻城戦を繰り返した。
大友方の対中国軍防衛の中心は、戸次鑑連(立花道雪)であった。
立花道雪(1513-1585年)

この月、毛利元就の前衛軍は博多に近い多々良浜で大友軍と戦い、10月には筑前宝満城の高橋
鑑種を助けるために、吉川元春・小早川隆景を九州に派遣した。
元春が率いる海軍は豊前に到着し、宗麟方の長野壱岐守は三岳城に拠って、その前進を阻んだ。
しかし毛利軍の猛攻に三岳城は陥り、翌12年3月には、元春・隆景の大軍が豊前を席巻して筑
前に乱入し、立花城を攻めた。
元就みずから、はじめて大軍をもって安芸から門司関に軍陣を進め、元春・隆景を指揮後援した。
宗麟は田北鑑富・戸次親久らを豊前の高和に送り、元就に備えたが、他方、竜造寺との対戦中で
あるため、全力をもって中国勢にあたることができなかった。
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九州の群雄割拠 その45
『威信墜落の大友氏』
永禄11年4月、肥前平戸の松浦鎮信は、竜造寺隆信が攻めて来ることを聞き、豊後に救援郡の
出兵を求めた。
大友宗麟(1530-1587年)

大友宗麟は肥前唐津の波多氏のほか、筑前の小田部氏・大鶴氏に命じて鎮信を救わせた。
4月29日、隆信の平戸攻撃隊を鎮信は伊万里で迎え撃ったが、にわかに波多野氏は軍中で隆信
方に寝返り、鎮信を猛攻した。
不意を突かれた鎮信は敗れ、船に乗って平戸に退却した。
宗麟が派遣した救援軍が、すでにこのように信頼しがたいものであるから、大友氏の威信は著し
く下落した。
隆信は西肥前の大村純忠を攻めて降し、有田・松浦・有馬などの諸氏もこれを見て隆信に降伏し
た。
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いつもありがとうございます。
『ribinクンのテーブルマナー』
食べたよ! おかわりは?
立ち上がることもなく、以前より、ずいぶんとマナーがよくなりました。

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永禄11年4月、肥前平戸の松浦鎮信は、竜造寺隆信が攻めて来ることを聞き、豊後に救援郡の
出兵を求めた。
大友宗麟(1530-1587年)

大友宗麟は肥前唐津の波多氏のほか、筑前の小田部氏・大鶴氏に命じて鎮信を救わせた。
4月29日、隆信の平戸攻撃隊を鎮信は伊万里で迎え撃ったが、にわかに波多野氏は軍中で隆信
方に寝返り、鎮信を猛攻した。
不意を突かれた鎮信は敗れ、船に乗って平戸に退却した。
宗麟が派遣した救援軍が、すでにこのように信頼しがたいものであるから、大友氏の威信は著し
く下落した。
隆信は西肥前の大村純忠を攻めて降し、有田・松浦・有馬などの諸氏もこれを見て隆信に降伏し
た。
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明智光秀 season2 その18
『愛宕山の連歌会』
一旦坂本城に戻った光秀は、5月26日に坂本を出て、丹波の居城亀山に帰ったが、翌早起きると
すぐ、
「心願のことあって、愛宕権現に参篭にまいる」
と言って、身支度して城を出た。
明智光秀(1528?-1582年)

神様にも流行すたりがあって、天神様の信仰が流行った時代があり、八幡様の信仰が流行った時代
がありという調子で、足利中期頃から織豊時代までは、この愛宕信仰が大流行していたのだという。
愛宕権現は、京都西北方、亀岡側からすれば東北方にそびえる愛宕山に鎮座している。
光秀はここで連歌会をやっている。
まず、光秀が発句する。
「ときは今あめが下しる五月かな」
おりしも梅雨期のこと、雨が降っていたから、それを取り込んでの句であろうが、裏にはもっと深
い意味があるのだという。
光秀は美濃の土岐の一族です。
「とき」は「土岐」にかけ、「あめが下しる」は「天下を知ろしめす」にかけてあるのだといいま
す。
土岐の一族である自分が天下を取る時が来たという意味を含めていたのでしょう。
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『robinクンのテーブルマナー』
「よし!」の合図とともに、大好物の焼き肉を食べています。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
一旦坂本城に戻った光秀は、5月26日に坂本を出て、丹波の居城亀山に帰ったが、翌早起きると
すぐ、
「心願のことあって、愛宕権現に参篭にまいる」
と言って、身支度して城を出た。
明智光秀(1528?-1582年)

神様にも流行すたりがあって、天神様の信仰が流行った時代があり、八幡様の信仰が流行った時代
がありという調子で、足利中期頃から織豊時代までは、この愛宕信仰が大流行していたのだという。
愛宕権現は、京都西北方、亀岡側からすれば東北方にそびえる愛宕山に鎮座している。
光秀はここで連歌会をやっている。
まず、光秀が発句する。
「ときは今あめが下しる五月かな」
おりしも梅雨期のこと、雨が降っていたから、それを取り込んでの句であろうが、裏にはもっと深
い意味があるのだという。
光秀は美濃の土岐の一族です。
「とき」は「土岐」にかけ、「あめが下しる」は「天下を知ろしめす」にかけてあるのだといいま
す。
土岐の一族である自分が天下を取る時が来たという意味を含めていたのでしょう。
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