奥羽の群雄割拠 その14
『青森・秋田方面の豪族 その5』
比内(大館市、北秋田郡)地方の浅利氏も、安東・秋田・南部諸氏の圧迫を受けながら、戦国大名と
しての勢力を維持した豪族であった。
浅利氏家紋(十本骨扇)

浅利氏は甲斐源氏の一族、武田清光の9男・義遠(義成・遠義)を始祖とし、その姓は甲斐国東八代
郡浅利郷に由来している。
おそらく義遠が文治の軍功によって比内方面に所領を与えられ、鎌倉後期になり庶流がこの地に土着
したものでしょう。
しかし、小さな大名であったから、鹿角の成田氏・安保氏などと同様、独立の地位を維持することは困
難であった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
比内(大館市、北秋田郡)地方の浅利氏も、安東・秋田・南部諸氏の圧迫を受けながら、戦国大名と
しての勢力を維持した豪族であった。
浅利氏家紋(十本骨扇)

浅利氏は甲斐源氏の一族、武田清光の9男・義遠(義成・遠義)を始祖とし、その姓は甲斐国東八代
郡浅利郷に由来している。
おそらく義遠が文治の軍功によって比内方面に所領を与えられ、鎌倉後期になり庶流がこの地に土着
したものでしょう。
しかし、小さな大名であったから、鹿角の成田氏・安保氏などと同様、独立の地位を維持することは困
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明智光秀 season2 その22
『怨恨説 Ⅰ』
信長の討ち取りも、あっけないくらい簡単に成功した。
本能寺に攻めかかったのが、卯の刻というから午前6時、7時か8時頃にはもう終わっていたとい
う。
本能寺の変

また、信忠の宿所・妙覚寺にも同時に兵を分けて攻めかかっていたのでいたが、信忠には信長と違
って5百人ほどの手兵がいた。
本能寺を攻めた明智勢が加わり攻撃したので、信忠も自殺して果てた。
これが9時頃であったという。
問題は、光秀がなぜ謀反したかです。
最もいわれているのが、怨恨説です。
その1つは、前に記事にした丹波の八上城攻めに関する話。
光秀は波多野兄弟の命を助け、本領を安堵させるために、母を人質に送って兄弟を出降させ、これ
を安土に送ったら信長がムザムザと殺してしまった。
そのため、八上城では激怒し光秀の母を殺した。
しかもなお、信長は光秀を
「母を殺してまで手柄が立てたいものか」
と嘲笑し、世の人々も光秀の不幸を憎んだので、光秀は恥じ、憤ったというのです。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>
信長の討ち取りも、あっけないくらい簡単に成功した。
本能寺に攻めかかったのが、卯の刻というから午前6時、7時か8時頃にはもう終わっていたとい
う。
本能寺の変

また、信忠の宿所・妙覚寺にも同時に兵を分けて攻めかかっていたのでいたが、信忠には信長と違
って5百人ほどの手兵がいた。
本能寺を攻めた明智勢が加わり攻撃したので、信忠も自殺して果てた。
これが9時頃であったという。
問題は、光秀がなぜ謀反したかです。
最もいわれているのが、怨恨説です。
その1つは、前に記事にした丹波の八上城攻めに関する話。
光秀は波多野兄弟の命を助け、本領を安堵させるために、母を人質に送って兄弟を出降させ、これ
を安土に送ったら信長がムザムザと殺してしまった。
そのため、八上城では激怒し光秀の母を殺した。
しかもなお、信長は光秀を
「母を殺してまで手柄が立てたいものか」
と嘲笑し、世の人々も光秀の不幸を憎んだので、光秀は恥じ、憤ったというのです。
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明智光秀 season2 その21
『桂川を渡る』
京都盆地との境になっている老ノ坂を越えて沓掛の在所について、全軍休憩をとって食事をしている
時、光秀は勇士・天野源右護門を呼び出した。
桂川

「汝は先発して行くよう。ひょっとして、味方の軍勢の中から駆け抜けて、本能寺に注進に走る者が
あるかも知れぬ故、そのような者があったら、討捨てにせい」
「かしこまる」
源右護門は手勢を引き連れて、馬を早めて先駆した。
源右護門が一議に及ばず合天しているところから、5人の老臣以外に源右護門には打ち明けていた
のか、それとも高級将校だけには老臣から耳打ちしていたのでしょう。
間もなく全軍また行軍にかかり、桂川についた。
軍令が下る。
「馬の沓(くつ)を切り捨てよ。徒歩の者は新しいわらじか新しい足半(あしなか)にはきかえよ。
鉄砲の者は火縄を1尺5寸(約50cm)に切って5本持ち、それぞれに火を点じて逆さまに下げよ」
これは合戦直前の指令です。
その辺に敵がいると聞いてはいないから、皆不審に思ったことでしょう。
桂川を渡って、また命令が下る。
「今日から殿様が天下様におなりになることになった。下々草履とり以下に至るまで勇みよろこべい。
侍どもは十分に働いてくれるよう頼むぞ。もし本人討死の節は、兄弟や子ある者は必ずそれに跡目を
立てさせて遣わす。しっかりと働けい。身を立つべき好機会であるぞ!」
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京都盆地との境になっている老ノ坂を越えて沓掛の在所について、全軍休憩をとって食事をしている
時、光秀は勇士・天野源右護門を呼び出した。
桂川

「汝は先発して行くよう。ひょっとして、味方の軍勢の中から駆け抜けて、本能寺に注進に走る者が
あるかも知れぬ故、そのような者があったら、討捨てにせい」
「かしこまる」
源右護門は手勢を引き連れて、馬を早めて先駆した。
源右護門が一議に及ばず合天しているところから、5人の老臣以外に源右護門には打ち明けていた
のか、それとも高級将校だけには老臣から耳打ちしていたのでしょう。
間もなく全軍また行軍にかかり、桂川についた。
軍令が下る。
「馬の沓(くつ)を切り捨てよ。徒歩の者は新しいわらじか新しい足半(あしなか)にはきかえよ。
鉄砲の者は火縄を1尺5寸(約50cm)に切って5本持ち、それぞれに火を点じて逆さまに下げよ」
これは合戦直前の指令です。
その辺に敵がいると聞いてはいないから、皆不審に思ったことでしょう。
桂川を渡って、また命令が下る。
「今日から殿様が天下様におなりになることになった。下々草履とり以下に至るまで勇みよろこべい。
侍どもは十分に働いてくれるよう頼むぞ。もし本人討死の節は、兄弟や子ある者は必ずそれに跡目を
立てさせて遣わす。しっかりと働けい。身を立つべき好機会であるぞ!」
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奥羽の群雄割拠 その13
奥羽の群雄割拠 その12
『青森・秋田方面の豪族 その3』
十三湊の福島城に拠った安東盛季の弟・庶季(鹿季)があり、応永の初め、秋田の初め、秋田の
湯田湊(土崎)を攻略して湊安東家を興し、応永18年、三戸の南部守行と鹿角郡方面で交戦し
た。
南部守行(1359-1437年)

当時、秋田郡には有力な大名がいなかったので、湊安東氏はたやすく勢力を伸ばすことができた。
そうして庶季の子孫は代々秋田城介を名乗った。
一方、南部氏に亡ぼされた義季の子・政季は、実は潮潟重季の嫡男であったが、彼は難を逃れて
河北に入り、米代川の北部、檜山地方に勢力を求め、檜山安東氏の祖となった。
かくして津軽を追われた安東氏は、秋田に入って戦国大名に成長する基礎を築いた。
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十三湊の福島城に拠った安東盛季の弟・庶季(鹿季)があり、応永の初め、秋田の初め、秋田の
湯田湊(土崎)を攻略して湊安東家を興し、応永18年、三戸の南部守行と鹿角郡方面で交戦し
た。
南部守行(1359-1437年)

当時、秋田郡には有力な大名がいなかったので、湊安東氏はたやすく勢力を伸ばすことができた。
そうして庶季の子孫は代々秋田城介を名乗った。
一方、南部氏に亡ぼされた義季の子・政季は、実は潮潟重季の嫡男であったが、彼は難を逃れて
河北に入り、米代川の北部、檜山地方に勢力を求め、檜山安東氏の祖となった。
かくして津軽を追われた安東氏は、秋田に入って戦国大名に成長する基礎を築いた。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
奥羽の群雄割拠 その11
『青森・秋田方面の豪族 その2』
蝦夷地に逃亡した安東盛季は、安東貞季の長男で日の本将軍と称し、南部義政の娘を妻としている
安東氏の惣領であった。
安東義季一族の墓(弘前市)

一説には蝦夷地に逃れたのは盛季ではなく、その子・康季だろうともいわれます。
渡島(北海道南部)に逃れた安東氏は、享徳4年(1445年)義季のとき再挙をはかり、津軽の
鼻和郡大浦郷に侵入、高館山、狼倉に立て籠もった。
しかし、間もなく南部勢6千の攻撃を受けて自害し、津軽安東氏の正統は断絶した。
安東氏を駆逐した南部氏は文明の頃、12人の城衆を鼻和郡に配置し、この地方を支配した。
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蝦夷地に逃亡した安東盛季は、安東貞季の長男で日の本将軍と称し、南部義政の娘を妻としている
安東氏の惣領であった。
安東義季一族の墓(弘前市)

一説には蝦夷地に逃れたのは盛季ではなく、その子・康季だろうともいわれます。
渡島(北海道南部)に逃れた安東氏は、享徳4年(1445年)義季のとき再挙をはかり、津軽の
鼻和郡大浦郷に侵入、高館山、狼倉に立て籠もった。
しかし、間もなく南部勢6千の攻撃を受けて自害し、津軽安東氏の正統は断絶した。
安東氏を駆逐した南部氏は文明の頃、12人の城衆を鼻和郡に配置し、この地方を支配した。
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奥羽の群雄割拠 その10
『青森・秋田方面の豪族 その1』
青森県のうち津軽地方には、曾我氏・工藤氏が所領を持ち、また北条氏直轄の得宗領もあったが、
中心的な存在は、外ヶ浜から宇曾利(下北)・蝦夷地(北海道)まで支配していた藤崎の安東氏
であった。
安東氏家紋(檜扇に鷲の羽/獅子牡丹)

安東氏は津軽の動脈岩木川をおさえ、河口港十三湊を支配し、津軽一帯に勢力をふるい、南北朝
時代には宮方に属して、大光寺城に拠った曾我氏と争った。
延元3年(1338年)北畠顕家が和泉の石津で戦死すると、弟・顕信、子・顕成らは残党を率
いて北方に逃れ、浪岡に拠った。
浪岡は安東氏の支城があったところです。
「安東系図」によると、安東氏は鎌倉時代の末ごろまでに藤崎城に拠った宗家上国家と、十三湊
を本拠とした支流下国に分かれ、時には対立があったが、室町時代に入ると隣国糠部の南部氏と
の確執が生じ、嘉吉3年(1443年)下国家の安東盛季は、三戸の南部義政に敗れ、蝦夷地に
逃亡した。
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青森県のうち津軽地方には、曾我氏・工藤氏が所領を持ち、また北条氏直轄の得宗領もあったが、
中心的な存在は、外ヶ浜から宇曾利(下北)・蝦夷地(北海道)まで支配していた藤崎の安東氏
であった。
安東氏家紋(檜扇に鷲の羽/獅子牡丹)

安東氏は津軽の動脈岩木川をおさえ、河口港十三湊を支配し、津軽一帯に勢力をふるい、南北朝
時代には宮方に属して、大光寺城に拠った曾我氏と争った。
延元3年(1338年)北畠顕家が和泉の石津で戦死すると、弟・顕信、子・顕成らは残党を率
いて北方に逃れ、浪岡に拠った。
浪岡は安東氏の支城があったところです。
「安東系図」によると、安東氏は鎌倉時代の末ごろまでに藤崎城に拠った宗家上国家と、十三湊
を本拠とした支流下国に分かれ、時には対立があったが、室町時代に入ると隣国糠部の南部氏と
の確執が生じ、嘉吉3年(1443年)下国家の安東盛季は、三戸の南部義政に敗れ、蝦夷地に
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