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奥羽の群雄割拠 その14

『青森・秋田方面の豪族 その5』

比内(大館市、北秋田郡)地方の浅利氏も、安東・秋田・南部諸氏の圧迫を受けながら、戦国大名と

しての勢力を維持した豪族であった。

浅利氏家紋(十本骨扇)
as.浅利氏家紋

浅利氏は甲斐源氏の一族、武田清光の9男・義遠(義成・遠義)を始祖とし、その姓は甲斐国東八代

郡浅利郷に由来している。

おそらく義遠が文治の軍功によって比内方面に所領を与えられ、鎌倉後期になり庶流がこの地に土着

したものでしょう。

しかし、小さな大名であったから、鹿角の成田氏・安保氏などと同様、独立の地位を維持することは困

難であった。



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robin 20201130




<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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明智光秀 season2 その22

『怨恨説 Ⅰ』

信長の討ち取りも、あっけないくらい簡単に成功した。

本能寺に攻めかかったのが、卯の刻というから午前6時、7時か8時頃にはもう終わっていたとい

う。

本能寺の変
ho.本能寺の変

また、信忠の宿所・妙覚寺にも同時に兵を分けて攻めかかっていたのでいたが、信忠には信長と違

って5百人ほどの手兵がいた。

本能寺を攻めた明智勢が加わり攻撃したので、信忠も自殺して果てた。

これが9時頃であったという。


問題は、光秀がなぜ謀反したかです。

最もいわれているのが、怨恨説です。

その1つは、前に記事にした丹波の八上城攻めに関する話。

光秀は波多野兄弟の命を助け、本領を安堵させるために、母を人質に送って兄弟を出降させ、これ

を安土に送ったら信長がムザムザと殺してしまった。

そのため、八上城では激怒し光秀の母を殺した。

しかもなお、信長は光秀を

「母を殺してまで手柄が立てたいものか」

と嘲笑し、世の人々も光秀の不幸を憎んだので、光秀は恥じ、憤ったというのです。



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robin 20201129




<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>

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明智光秀 season2 その21

『桂川を渡る』

京都盆地との境になっている老ノ坂を越えて沓掛の在所について、全軍休憩をとって食事をしている

時、光秀は勇士・天野源右護門を呼び出した。

桂川
ka.桂川

「汝は先発して行くよう。ひょっとして、味方の軍勢の中から駆け抜けて、本能寺に注進に走る者が

あるかも知れぬ故、そのような者があったら、討捨てにせい」

「かしこまる」

源右護門は手勢を引き連れて、馬を早めて先駆した。

源右護門が一議に及ばず合天しているところから、5人の老臣以外に源右護門には打ち明けていた

のか、それとも高級将校だけには老臣から耳打ちしていたのでしょう。

間もなく全軍また行軍にかかり、桂川についた。

軍令が下る。

「馬の沓(くつ)を切り捨てよ。徒歩の者は新しいわらじか新しい足半(あしなか)にはきかえよ。

鉄砲の者は火縄を1尺5寸(約50cm)に切って5本持ち、それぞれに火を点じて逆さまに下げよ」

これは合戦直前の指令です。

その辺に敵がいると聞いてはいないから、皆不審に思ったことでしょう。

桂川を渡って、また命令が下る。

「今日から殿様が天下様におなりになることになった。下々草履とり以下に至るまで勇みよろこべい。

侍どもは十分に働いてくれるよう頼むぞ。もし本人討死の節は、兄弟や子ある者は必ずそれに跡目を

立てさせて遣わす。しっかりと働けい。身を立つべき好機会であるぞ!」


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奥羽の群雄割拠 その13

『青森・秋田方面の豪族 その4』

仙北(山本郡)地方は古く御家人和田氏が所領を持ち、南北朝時代には和賀氏が陸奥から勢力を

のばしていたが、室町時代になると角館に本拠を移した戸沢氏が台頭してきた。

角館城(小松山城)本丸
ka.角館城

戸沢氏は平貞盛の末裔とも、また平兼盛の子孫とも称していますが、本拠は岩手郡滴石荘戸沢で、

南北朝の頃、北畠顕信に属して名が現れ、のちに岩手郡の滴石氏と山本郡の戸沢氏に分かれた。

戸沢氏の角館移住は応永30年(1423年)、12代飛騨守家盛の時であったという。


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奥羽の群雄割拠 その12

『青森・秋田方面の豪族 その3』

十三湊の福島城に拠った安東盛季の弟・庶季(鹿季)があり、応永の初め、秋田の初め、秋田の

湯田湊(土崎)を攻略して湊安東家を興し、応永18年、三戸の南部守行と鹿角郡方面で交戦し

た。

南部守行(1359-1437年)
na,南部守行

当時、秋田郡には有力な大名がいなかったので、湊安東氏はたやすく勢力を伸ばすことができた。

そうして庶季の子孫は代々秋田城介を名乗った。

一方、南部氏に亡ぼされた義季の子・政季は、実は潮潟重季の嫡男であったが、彼は難を逃れて

河北に入り、米代川の北部、檜山地方に勢力を求め、檜山安東氏の祖となった。

かくして津軽を追われた安東氏は、秋田に入って戦国大名に成長する基礎を築いた。



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奥羽の群雄割拠 その11

『青森・秋田方面の豪族 その2』

蝦夷地に逃亡した安東盛季は、安東貞季の長男で日の本将軍と称し、南部義政の娘を妻としている

安東氏の惣領であった。

安東義季一族の墓(弘前市)
an.安東義季一族の墓(弘前市)

一説には蝦夷地に逃れたのは盛季ではなく、その子・康季だろうともいわれます。

渡島(北海道南部)に逃れた安東氏は、享徳4年(1445年)義季のとき再挙をはかり、津軽の

鼻和郡大浦郷に侵入、高館山、狼倉に立て籠もった。

しかし、間もなく南部勢6千の攻撃を受けて自害し、津軽安東氏の正統は断絶した。

安東氏を駆逐した南部氏は文明の頃、12人の城衆を鼻和郡に配置し、この地方を支配した。



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奥羽の群雄割拠 その10

『青森・秋田方面の豪族 その1』

青森県のうち津軽地方には、曾我氏・工藤氏が所領を持ち、また北条氏直轄の得宗領もあったが、

中心的な存在は、外ヶ浜から宇曾利(下北)・蝦夷地(北海道)まで支配していた藤崎の安東氏

であった。

安東氏家紋(檜扇に鷲の羽/獅子牡丹)
an.安東氏家紋)

安東氏は津軽の動脈岩木川をおさえ、河口港十三湊を支配し、津軽一帯に勢力をふるい、南北朝

時代には宮方に属して、大光寺城に拠った曾我氏と争った。

延元3年(1338年)北畠顕家が和泉の石津で戦死すると、弟・顕信、子・顕成らは残党を率

いて北方に逃れ、浪岡に拠った。

浪岡は安東氏の支城があったところです。

「安東系図」によると、安東氏は鎌倉時代の末ごろまでに藤崎城に拠った宗家上国家と、十三湊

を本拠とした支流下国に分かれ、時には対立があったが、室町時代に入ると隣国糠部の南部氏と

の確執が生じ、嘉吉3年(1443年)下国家の安東盛季は、三戸の南部義政に敗れ、蝦夷地に

逃亡した。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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