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奥羽の群雄割拠 その36

『南部氏と秋田氏の抗争 その3』

拮抗した情勢のもと、まず取り上げられるのは、北方の雄、南部氏と秋田氏の抗争です。

南部氏は本州の北端に地位を占めていたから、勢力を拡大するには西へ進むか、南下するかのどち

らかであった。

南部氏家紋
na.南部氏家紋

室町時代に入り、13代・守行、14代・義政は西へ進んで津軽の安東氏と戦い、嘉吉3年(14

43年)下国家の安東康季を渡島に追って津軽を占領した。

その後の南部氏の津軽支配の実情は明らかでありませんが、『南部史要』によれば、文明8年(1

476年)南部11代・信長の弟・茂行の末裔、雅楽頭信忠が津軽において三代利右衛門に殺され

たとあり、茂行の子孫が津軽氏を称してこの地方に居住していたようです。

20代・信時は4男・光康を派遣して津軽郡代とし、光康は堤浦に住して堤弾正左衛門と称した。

また弟・行実をして三代利右衛門を討伐させ、津軽大光寺村に配置した。

すなわち、大光寺氏の祖です。

また、北閉伊郡田鎖氏の離反を鎮定して軍門に降ろした。

田鎖氏は閉伊川沿岸に分布していた閉伊氏の宗家で、この頃から閉伊一族が南部氏の被官となった。




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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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奥羽の群雄割拠 その35

『南部氏と秋田氏の抗争 その2』

弱肉強食の時代に、中央政権と結びついて、いたずらに外面を誇った守護大名が、没落するのは当

然であった。

しかし東北の場合は、多くの大名は鎌倉御家人の末裔で、早くから現地に土着し、開発領主として

の性格を持っていた。

南部晴政(1517-1582年)
na,南部晴政

現地に根を下ろした豪族が成長して大名となったのですから、もともと中央との関係は薄く、した

がって中央の支配力が衰えても、それによってただちに内部的に崩壊するような大名は存在しなか

った。

ただ弱小の大名は管領も探題も頼むに足らずとあれば、近隣の有力大名と一揆契約の同盟関係で、

身の安全を計らなければならない。

有力大名にとっては、朝廷や幕府は栄誉を受ける場所にとどまり、あとは領内の統制、家臣団の再

編によって軍事力を増し、領土の拡大を計るのみとなる。

有力大名を中心とする抗争の時代が出現したのです。

有力大名は、いずれも根強い基盤を持っているから、侵略や打倒は容易でなく、戦闘は執拗を極め

た。

統一勢力はなかなか実現せず、結局、地方に長い歴史をもつ有力大名が、多少勢力図を拡大したに

留まり、わずかに伊達氏が東北南部において、局地的大名として枠を超えたに過ぎなかった。



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robin 20201230




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奥羽の群雄割拠 その34

『南部氏と秋田氏の抗争 その1』

応仁の乱の発生は奥羽の支配にも大きく影響を与えた。

応仁の乱(1467-1477年)
ou.応仁の乱

幕府・鎌倉公房、奥州探題といった将軍権力につながる体制力が、ほとんど無力化したのですから、

これと結び付いて地位を安堵されていた惣領家も、実力がない場合は支配力が低下する。

一方、弱小の大名は中央の保証を失い、強大な大名に侵入併呑される危機にさらされた、強大な大

名も、領主的な地位を占めている有力な家臣の反乱になやまされるという矛盾を生じた。

こうして世は切り取り自由、弱肉強食の、実力による再編成時代に入った。



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奥羽の群雄割拠 その33

『山形・福島方面の豪族 その9』

芦名盛政は一族の雄、北田・新宮両氏を倒し、芦名盛信は君臣心をひとつにしての政道を説くととも

に、一族以外の平田・松本・佐瀬・富田の4氏を宿老とした。

これは惣領体制からの脱却を意味する。

芦名氏12代・盛詮の代には松本・猪苗代の両氏が反乱を起こしたが、享徳2年(1453年)に平

定された。

16代芦名盛氏(1521-1580年)
as.芦名盛氏(第16代)

この内乱で注目すべきは、白河・田村・長沼・山内の諸氏が出兵して芦名氏に干渉していることです。

13代・盛高の時代から、年号は文明、世相は戦国となるが、この段階に入ると、内乱は片付かなく

なり、内乱は必ず外戦を誘発し、外戦は必ず内乱に乗じて進展するという相互関係をとるのです。

内部の分解的な要素を統制し、清算しながら、外圧に抗し、隣境に進出する。

それが戦国大名の苦心であり、手腕であった。

芦名氏も13代・盛高から戦国時代に入り、盛滋・盛舜・盛氏・盛興と経て、18代・盛隆に至った。

なお、佐原氏が芦名と改めたのは、3代・光盛の時だと伝わります。



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robin 20201228




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明智光秀 season2 その28

『光秀の性格を重視した場合の考察』

光秀が知識人で、古い文化を身につけた人物であったことから、行儀が正しく、態度に重々しいと

ころがあり、性格もまじめで誠実であったのでしょう。

これに比べ、信長は天性の野人で、いたずら好きで、わがまま者です。

彼は誰に対してもいたずらをし、無礼を働いた。

明智光秀(1528?ー1582年)
ak.明智光秀

甲州征伐から凱旋する時、信長は東海道を取って富士山を見たいと思った。

前関白で、この時期に太政大臣であった近衛前久は信長に同行して甲州に来ていたが、同行したい

と望んでところ、信長は馬上

「近衛、わごれ(和御料)などは木曽路をのぼりませ」

と言い捨てて通り過ぎたという。

天皇に次ぐ尊重な身分にある前関白、現太政大臣殿下に対してもこうだったのです。

信長は誰に対しても無礼であり、いたずらもしたのです。

その信長の目から見るとき、光秀のように生真面目で礼儀正しく、態度の重々しい人間は、もった

いぶっているように思われ、いたずら心がムズムズとそそられ、からかってみたくなり、苛めてみ

たくなりもしたのでしょう。

この意味では、秀吉もまた信長のいたずらのいい対象であったに違いないのでしょう。

チビで、サル眼で、色黒の醜悪な顔をして、こまめに走りまわっている秀吉が、いたずらの対象に

ならない筈がなかったと思います。

秀吉は、天性横着者で、ものにこだわらない性質なので、さらさらと受け流して、これを腹に残さ

なかったが、光秀はそうはいかなかった。

真面目な性質だけに、真正面から受取り、人一倍に苦悩したことでしょう。

そのため深い怨恨となって胸中に積み重ねられ、ついに無防備な姿でいる信長を見たことによって

爆発したとみてもいいのではないでしょうか。


私は個人的に、この「光秀の性格を重視した場合の考察」がお気に入りです。

光秀は、どんな思いで逆臣となったのでしょうかね。

来年の大河ドラマは「渋沢栄一さん」ですから、大河ドラマ記事は一年お休みいたします。

明智光秀 season2にお付き合い戴きありがとうございました。



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robin 20201227



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明智光秀 season2 その27

『歴史学者の考察』

歴史学者の高柳光寿博士(1892-1969年)は、これらが記載された書物が信用できないも

のであることを説いて、これらの説を痛快なまでに否定しています。

しかし、怨恨説についての個々の通説は信じないが、光秀が信長に対して怨みを含んでいたことは

事実であろうと言っているのです。

本能寺の変(1582年)
ho.本能寺の変 002

そのよりどころは、光秀が信長を倒した後、小早川隆景に送った書状だという。これの原本は伝わ

っていないが、全文が別本川角太閤記に載っていて、

その一節に

「然れば、光秀のこと近年信長に対して憤りを抱き、遺恨黙止(もだ)しがたく、今月2月、本能

寺において信長父子を誅し、素懐(そかい)を達し候」

とあると言っている。

また、桑田博士は明智軍記の信長が光秀から近江・丹波の旧領を取り上げて、そのかわりに出雲・

石見を与えると言った記事も、ある程度認めて、そのよりどころを丹波の「人見文書」と「言継

(ときつぐ)卿記」に求めています。

「人見文書」中には織田信孝が四国出陣のため丹波の国侍に与えた天正10年5月14日付けの軍

令書があるから、この頃に光秀の丹波における軍事権は取り上げられたと見て、この処置に対して

斎藤利三が憤慨反抗したことが「言継卿記」にあると説いている。

それなら、高柳博士はどこに光秀の謀反を求めたかというと、信長が最も無防備な本能寺に来てい

たので、ふっと光秀の胸に天下取りの野望が兆したのだという。

当時の大名で力量才覚に自信ある者は、みな天下が欲しかったのだから、チャンスがあった場合は

何の不思議もないと説いています。



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robin 20201226




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奥羽の群雄割拠 その32

『山形・福島方面の豪族 その8』

室町時代に入り9代・芦名盛政の時、応永9年(1402年)耶麻郡の新宮氏が反乱した。

盛政はこれを攻めたが鎮圧できず、同22年(1415年)、彼は再び新宮城を囲んだが、同26

年には新宮氏の兵が蒲原郡小川城を攻略した。

同27年、盛政は3度新宮城を攻めてついにこれを陥れ、新宮時兼ら一族は越後に走った。

永享5年(1433年)時兼は小川荘を攻撃したが、金上盛勝の逆襲を受けて自殺し、新宮氏は亡

んだ。

会津新宮城址(喜多方市)
si.会津新宮城址

なお、15年から17年にかけ北田氏も反乱を起こしたが、守政は逆に北田城を攻撃した。

会津は地域も広く、未開の場所も多かったから、芦名氏は一族や有力な家臣を地方に分封し、彼ら

との同族的な結合によって支配対戦を固めようとした。

つまり惣領的な支配体制の推進である。

しかし、彼らが小領主的な地位が確立してくると、惣領の支配に服さなくなり、惣領家との間に確

執が生じる。

一方、惣領家も所領の一円化が進み、有力な大名と堺を接して対抗するようになると、不安定な惣

領制を清算し、実力を基礎とした主君家臣の関係を組織する必要となる。

室町時代に入ると、どの大名領においても、この支配体制の転機が計られるが、芦名氏の場合も9

代・盛政・11代・盛信の時代にそれが強く表れてきた。



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robin 20201225





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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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