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奥羽の群雄割拠 その61

『芦名氏をめぐる抗争 その2』

芦名氏は、領内に分領世襲の家臣や、別系統の旧御家人領が交じっており、室町時代に入ると芦名

主家の権力は衰え、領内は動揺していた。

鶴ヶ城歴代城主(初代が芦名氏)
tu.鶴ヶ城歴代城主

12代盛詮の宝徳3年(1451年)には、家臣・松本右馬允と多々良伊賀が私闘を起こし、伊賀

は盛詮を虜にして籠城するという騒動があった。

享徳2年(1453年)には、盛詮は右馬允の専横を怒ってこれを討ったが、大沼郡橋爪の豪族・

橋爪氏は右馬允を助け、田島の領主・長沼政義は松本・橋爪両氏を攻撃したが、右馬允は伊南の領

主・河原田重直に頼り、大沼郡横田の山内俊光の臣・堀金左京の小林館(南会津郡)を襲い山内家

との争いとなった。

敗れた右馬允は猪苗代城主・猪苗代盛光とともに、かねてより盛光と戦っていた河沼郡浜崎城を攻

めたので、盛詮は白川氏に援助を求めて右馬允を殺し、盛光を降伏させた。

この内乱は結局、盛詮の勝利に帰したが、実質は領主的家臣や在地豪族の勢力争いであったのです。

長禄2年(1458年)に起きた山内越中の反乱、寛正5年(1464年)の猪苗代氏の黒川侵入

なども、同じような性格の内乱であった。


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robin 20210131



<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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奥羽の群雄割拠 その60

『芦名氏をめぐる抗争 その1』

分封された一族功臣が所領を世襲し、主家の権力をしのいで割拠の形勢を示すことは、どの大名

領においても同様で、主家がこれら権臣の跋扈(ばっこ)を抑えて領主権を確立するのか、家臣

が下剋上して主家を倒すか、これが戦国大乱の始まりであった。

芦名氏16代当主・芦名盛氏(1521-1580年)
as.芦名盛氏(第16代)

東北地方では鎌倉以来の古い大名が、伝統的な力を発揮して領内の豪族の台頭を抑え、領国支配

の体制を固めていったが、領主的家臣や在地豪族の統制には、たえず苦心を払わなければならな

かったのでしょう。


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robin 20210130




<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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奥羽の群雄割拠 その59

『伊達氏をめぐる抗争 その9』

相馬氏は武勇の家柄で『奥相茶話記』によれば、3郡の動員数は770騎、歩卒4,350と述べて

います。

もちろん戦場へは半分ぐらいしか出陣できないのですが、軍隊は精鋭をもって知られたという。

そのうえ顕胤・盛胤・義胤と歴代の当主も武略に優れていたから、伊達氏にとっては油断のできな

い相手であった。

相馬氏16代当主・相馬義胤(1548-1635年)
so.相馬義胤

『奥相茶話記』に

「輝宗他将とは如有けん、相馬へ向って人数を立合、大将出合て御合戦は2、3度の外はなし、大

形盛胤御出陣の跡、人無隙を覗忍て跡へ廻り出し抜を好玉へり、又政宗の御大にも技を好給、義胤

と懸合ての御合戦は一度も無りし也」

と述べていますが、伊達氏としては正面衝突をさけつつ、戦果をあげたのです。

とくに天正10年(1582年)には伊達氏は大軍をもって伊具に入り、内応によって小斎城を収

め、4月に金津付近で激戦があり、金津城を攻略、同11年5月には相馬方の丸森城を陥れ、同1

2年には金山城も抜いたので、さすがの義胤も同年5月、和を結んだ。

伊具郡は相馬氏の居城中村から近く、これを失うことは中村が裸城になることを意味し、相馬氏と

しては大打撃であった。



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robin 20210129



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奥羽の群雄割拠 その58

『伊達氏をめぐる抗争 その8』

伊達輝宗は先代にひき続き治府を米沢におき、北は最上氏の内訌を調停、南は塩松の大内定綱を攻

め、弟・盛重に国分氏をつがせ、外交的には織田信長・徳川家康と通じ、とくに信長のためには、

要請によって上杉氏と戦いを交えたりしています。

伊達氏16代当主・伊達輝宗(1544-1585年)
da.伊達輝宗

しかし、彼が最も力を尽くしたのは、相馬義胤との間に展開された、亘理・伊具両郡の争奪戦であ

った。

相馬氏と輝宗の争いは、永禄11年(1568年)伊達郡小島における対盛胤との合戦、天正4、

5年における伊具郡小斉・金山・丸森・黒木合戦で、これも相手は盛胤であった。

ついで同9年より12年にかけての相馬義胤との伊具郡における対戦したる。

輝宗は二本松で横死しているから、相馬合戦は彼の生涯の大戦闘であったのです。



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robin 20210128




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奥羽の群雄割拠 その57

『伊達氏をめぐる抗争 その7』

天文22年(1553年)、伊達晴宗は家臣全体に新しい知行宛行状を出し、これが「晴宗公采

地下賜録」として現存しています。

晴宗公采地下賜録
ha.晴宗公采地下賜録
<仙台市HPより>

これまでの独立的な土豪を被官として取り扱う方法として、一家・一族といった階層序列に従っ

て、領内の武士を統一的に家臣団と編成したのが宛行状再発行の意義でした。

伊達氏の家臣団把握は、これによって徹底し、伊達家の次の発展を約束するものとなったのです。

晴宗は永禄8年(1565年)隠退、世子・輝宗が跡を継いだ。



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robin 20210127



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奥羽の群雄割拠 その56

『伊達氏をめぐる抗争 その6』

天文大乱は伊達晴宗の勝利に帰したが、伊達稙宗の偉業をかなり崩壊させ、伊達氏の勢力は衰えた。

伊達晴宗(1519-1578年)
da.伊達晴宗 02

次の15代・晴宗は、天文17年(1548年)治府を西山から米沢に移したが、同19年、大崎

義宜が殺害されて大崎氏が離反し、同21年には稙宗方であった懸田氏が反乱を起こした。

弘治4年(1558年)にも、角田の田手宗光が相馬氏に通じて離反を計り、伊具方面には再び相

馬氏の勢力が伸びてきた。

また南方では、晴宗に味方した塩松尚義が家臣の大内重綱のため家を奪われ、晴宗は尚義を救おう

としたが、目的を達成することはできなかった。

しかし内部的にはこの乱は中野・牧野らの家老衆が、外様や親族衆の勢力を抑えて勝利を収めたの

で、晴宗の領主的な権力はかえって強化された。



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robin 20210126




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ペットハンガー

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robin 20210124

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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