奥羽の群雄割拠 その88
『最上義光の武略 その8』
天正16年2月、大崎義隆の領内に内乱が起り、伊達政宗は反乱軍の氏家吉継を援けて、大崎領に
出兵した。
最上義光の兜

最上義光は義隆を助け、政宗は本庄繁長に庄内を、小野寺義道に最上をうかがわせた。
しかし、7月8日に義光は政宗と講和した。
一方、庄内を支配した最上氏の代官・東禅寺筑前と同右馬頭は、戦勝に乗じて土民をしいたげ、重
税をとりたてるなど、暴逆のふるまいが多かったので、人心が離反し、領民は上杉氏の統治を求め
た。
同8年になると、武藤義勝は父の本庄繁長とともに南方から庄内に侵入し、千安十五里原の合戦で
東禅寺筑前・同右馬頭は殺され、中山光直はかろうじて山形に敗走した。
最上氏が、わずか一年未満の年月で庄内から撤退しなければならなかったのは、代官の統治が拙劣
で民心の支援を失ったためであり、十五里原の決戦でも、土民の反抗・襲撃が、最上氏を敗北させ
た原因であったのでしょう。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
天正16年2月、大崎義隆の領内に内乱が起り、伊達政宗は反乱軍の氏家吉継を援けて、大崎領に
出兵した。
最上義光の兜

最上義光は義隆を助け、政宗は本庄繁長に庄内を、小野寺義道に最上をうかがわせた。
しかし、7月8日に義光は政宗と講和した。
一方、庄内を支配した最上氏の代官・東禅寺筑前と同右馬頭は、戦勝に乗じて土民をしいたげ、重
税をとりたてるなど、暴逆のふるまいが多かったので、人心が離反し、領民は上杉氏の統治を求め
た。
同8年になると、武藤義勝は父の本庄繁長とともに南方から庄内に侵入し、千安十五里原の合戦で
東禅寺筑前・同右馬頭は殺され、中山光直はかろうじて山形に敗走した。
最上氏が、わずか一年未満の年月で庄内から撤退しなければならなかったのは、代官の統治が拙劣
で民心の支援を失ったためであり、十五里原の決戦でも、土民の反抗・襲撃が、最上氏を敗北させ
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奥羽の群雄割拠 その87
『最上義光の武略 その7』
村山・最上方面における最上氏の勢力は安定し、一方、伊達家の新当主・政宗は仙道・会津の経営
に専念して、山形方面に働きかける余裕がなかった。
青葉城の政宗公

そこで最上義光は武藤氏を滅ぼす時が到来したと判断し、天正14年(1586年)5月、飽海郡
酒田の東禅寺筑前を味方につけ、義興に反旗をひるがえさした。
丸山義興は越後村上の城主・本庄繁長の次男・千勝丸を養子に迎え、上杉氏との連携を密にすると
ともに、伊達政宗依頼して背後から義光を攻撃させようとした。
これに対し義光は、政宗の部将・鮎貝宗信を政宗から離反させ、翌年10月、宗信は山形に遁走す
るという事件も発生した。
鮎貝宗信の謀反と時を同じくして、最上義光は東禅寺筑前に再度働きかけ、ついに東禅寺筑前は大
山に侵入して丸山義興を敗死させた。
養子の千勝丸義勝は、逃れて越後に走り、義光は酒田に東禅寺筑前を、大山に中山玄蕃を置いて庄
内地方を統治させた。
義興の敗死はこの年(1587年)の10月5日だったと伝わります。
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村山・最上方面における最上氏の勢力は安定し、一方、伊達家の新当主・政宗は仙道・会津の経営
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青葉城の政宗公

そこで最上義光は武藤氏を滅ぼす時が到来したと判断し、天正14年(1586年)5月、飽海郡
酒田の東禅寺筑前を味方につけ、義興に反旗をひるがえさした。
丸山義興は越後村上の城主・本庄繁長の次男・千勝丸を養子に迎え、上杉氏との連携を密にすると
ともに、伊達政宗依頼して背後から義光を攻撃させようとした。
これに対し義光は、政宗の部将・鮎貝宗信を政宗から離反させ、翌年10月、宗信は山形に遁走す
るという事件も発生した。
鮎貝宗信の謀反と時を同じくして、最上義光は東禅寺筑前に再度働きかけ、ついに東禅寺筑前は大
山に侵入して丸山義興を敗死させた。
養子の千勝丸義勝は、逃れて越後に走り、義光は酒田に東禅寺筑前を、大山に中山玄蕃を置いて庄
内地方を統治させた。
義興の敗死はこの年(1587年)の10月5日だったと伝わります。
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奥羽の群雄割拠 その86
『最上義光の武略 その6』
最上川の西岸の西村山地方には、谷地の白鳥氏、寒河江の大江氏らの地方大名があり、とくに大江
氏は鎌倉以来の名族で、最上氏と対立していた。
最上義光の居城・山形城

しかし最上氏の勢力の拡大に伴い、早晩両者と対戦する運命にあったが、天正12年(1584年)
6月、まず谷地の城主・白鳥長久は、最上義光にあざむかれ山形城で誘殺された。
白鳥氏は大江氏の支族であったから、長久の死は義光に寒河江攻略の突破口を与えたのも同然であ
った。
義光は勢いに乗じて進撃し、寒河江城を守る羽柴頼綱を戦死させ、城を占領し大江堯元と中野原で
戦ってこれを破り、堯元は貫見村で自殺し、広元以来の名家・大江氏もあえなく滅亡した。
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最上川の西岸の西村山地方には、谷地の白鳥氏、寒河江の大江氏らの地方大名があり、とくに大江
氏は鎌倉以来の名族で、最上氏と対立していた。
最上義光の居城・山形城

しかし最上氏の勢力の拡大に伴い、早晩両者と対戦する運命にあったが、天正12年(1584年)
6月、まず谷地の城主・白鳥長久は、最上義光にあざむかれ山形城で誘殺された。
白鳥氏は大江氏の支族であったから、長久の死は義光に寒河江攻略の突破口を与えたのも同然であ
った。
義光は勢いに乗じて進撃し、寒河江城を守る羽柴頼綱を戦死させ、城を占領し大江堯元と中野原で
戦ってこれを破り、堯元は貫見村で自殺し、広元以来の名家・大江氏もあえなく滅亡した。
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奥羽の群雄割拠 その85
『最上義光の武略 その5』
最上氏の勢力が新庄・真室方面まで伸びていったので、これに最も脅威を感じたのは庄内の武藤氏
であった。
武藤義氏供養塔

武藤(大宝寺)義氏は伊達氏と通じて最上氏に備え、織田氏と交わりを結んで上杉氏に対抗したが、
天正10年(1582年)3月、義氏は最上方の最上郡清水城主・清水義氏を攻撃、9月、最上義
光は飽海郡の砂越氏らを誘い、11月、秋田愛季とも連絡し、武藤氏攻滅の計略をすすめた。
義氏は世に悪屋形といわれ、領主権確立のため近隣の豪族を圧迫し、ついに田川・飽海・平賀の庄
内3郡を領有した大名であったが、その強圧的な政策は家臣の反感を招き、天正11年(1583
年)3月6日、家臣の前森蔵人らが、最上義光と内通して、義氏の居城・大山を攻撃し、義氏は自
殺した。
国人たちは義氏の弟・丸岡義興を推して、武藤氏の当主とした。
義興は上杉景勝に書を送り、友好関係を結んだ。
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武藤義氏供養塔

武藤(大宝寺)義氏は伊達氏と通じて最上氏に備え、織田氏と交わりを結んで上杉氏に対抗したが、
天正10年(1582年)3月、義氏は最上方の最上郡清水城主・清水義氏を攻撃、9月、最上義
光は飽海郡の砂越氏らを誘い、11月、秋田愛季とも連絡し、武藤氏攻滅の計略をすすめた。
義氏は世に悪屋形といわれ、領主権確立のため近隣の豪族を圧迫し、ついに田川・飽海・平賀の庄
内3郡を領有した大名であったが、その強圧的な政策は家臣の反感を招き、天正11年(1583
年)3月6日、家臣の前森蔵人らが、最上義光と内通して、義氏の居城・大山を攻撃し、義氏は自
殺した。
国人たちは義氏の弟・丸岡義興を推して、武藤氏の当主とした。
義興は上杉景勝に書を送り、友好関係を結んだ。
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奥羽の群雄割拠 その84
『最上義光の武略 その4』
天正6年(1578年)、最上義光は上山城主・上山満兼を、その将・里見越後を誘って暗殺させ
た。
上山城(上山城登城記は「こちら」です。)

上山氏は最上の支族であったが、天正17年(1589年)上山義房が義光の父・義守に反し、天
童・高楡の諸族と呼応して内乱を起こした。
満光は義光の伯母婿であったが、両者の間柄は不和で、満兼は伊達氏の援助を受け、義光と柏木山
で戦ったりした。
このように始終、義光に反抗したので、義光は上山の君臣を離間して、これを亡ぼした。
満兼が暗殺されると、伊達輝宗は小梁川盛宗を遣わして上山城を占領した。
里見越後が同城を奪い取ったのは天正8年(1580年)9月である。
この年、義光は天童頼澄の舅・細川三河守の最上郡小国城を攻略し、ついで最上郡真室の城主・鮭
延愛綱を討ち、降伏させた。
愛綱は横手の小野寺義道に従っていたが、義道に背いて独立したので、義光がこれを招き、応じな
いので氏家守棟に攻撃させた。
このころ小野寺氏の勢力は、南下して最上郡に深く進出していたが、真室が最上氏の領有となると、
小野寺氏の勢力は後退した。
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た。
上山城(上山城登城記は「こちら」です。)

上山氏は最上の支族であったが、天正17年(1589年)上山義房が義光の父・義守に反し、天
童・高楡の諸族と呼応して内乱を起こした。
満光は義光の伯母婿であったが、両者の間柄は不和で、満兼は伊達氏の援助を受け、義光と柏木山
で戦ったりした。
このように始終、義光に反抗したので、義光は上山の君臣を離間して、これを亡ぼした。
満兼が暗殺されると、伊達輝宗は小梁川盛宗を遣わして上山城を占領した。
里見越後が同城を奪い取ったのは天正8年(1580年)9月である。
この年、義光は天童頼澄の舅・細川三河守の最上郡小国城を攻略し、ついで最上郡真室の城主・鮭
延愛綱を討ち、降伏させた。
愛綱は横手の小野寺義道に従っていたが、義道に背いて独立したので、義光がこれを招き、応じな
いので氏家守棟に攻撃させた。
このころ小野寺氏の勢力は、南下して最上郡に深く進出していたが、真室が最上氏の領有となると、
小野寺氏の勢力は後退した。
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奥羽の群雄割拠 その83
『最上義光の武略 その3』
最上義光としては、この天正2年の危機が、外圧というより、むしろ領国体制の未熟性が原因してい
ることを悟らなければならなかった。
最上義光(1546-1614年)

従って、和睦後の伊達輝宗が鉾を相馬氏に転ずることにより、領内とその周辺の対抗勢力の一掃に努
力を傾けることとなった。
その第一段が天童氏の討伐である。
天童氏は山形の北、天童の城主で、大納言兼家の子孫とも斯波直家の末裔とも称しています。
義光と争った頼澄は、
「我は是れ古より代々下筋八館の旗頭なり、今更、義光に順ふべきいわれなし」
と豪語しているから、最上氏にとっては外様的存在であったのでしょう。
天正5年(1572年)に入り、義光は天童攻略の計画を立て、一度は押し寄せて撃退されたが、
天童家中の勇士・延沢信景を味方に引き入れ、5月に天童および東根の両城を一気に攻略した。
頼澄は関山峠を越えて、母の実家である宮城郡の国分盛氏のもとに逃れ、八幡村に一族・家臣とと
もに移住した。
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最上義光としては、この天正2年の危機が、外圧というより、むしろ領国体制の未熟性が原因してい
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最上義光(1546-1614年)

従って、和睦後の伊達輝宗が鉾を相馬氏に転ずることにより、領内とその周辺の対抗勢力の一掃に努
力を傾けることとなった。
その第一段が天童氏の討伐である。
天童氏は山形の北、天童の城主で、大納言兼家の子孫とも斯波直家の末裔とも称しています。
義光と争った頼澄は、
「我は是れ古より代々下筋八館の旗頭なり、今更、義光に順ふべきいわれなし」
と豪語しているから、最上氏にとっては外様的存在であったのでしょう。
天正5年(1572年)に入り、義光は天童攻略の計画を立て、一度は押し寄せて撃退されたが、
天童家中の勇士・延沢信景を味方に引き入れ、5月に天童および東根の両城を一気に攻略した。
頼澄は関山峠を越えて、母の実家である宮城郡の国分盛氏のもとに逃れ、八幡村に一族・家臣とと
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奥羽の群雄割拠 その82
『最上義光の武略 その2』
義光が相続した当時の最上氏は、村山・最上両郡に勢力を伸ばしてはいたが、分封の支族や領主的
な家臣が宗家と威を競い、領国体制はまだ完成していなかった。
最上氏の居城・山形城

一方、隣国には、南に米沢の伊達輝宗、北に武藤義氏、雄勝の小野寺義道があり、いずれも山形方
面に進出の機会を伺っていた。
特に伊達輝宗は、彼の姉婿であったが、武藤氏と結んで最上氏を挟み撃ちする態勢をとった。
義光が弟の中野義時と不和になった時、輝宗は義時を支援し、天正2年(1574年)5月、村山
に侵入して義光と合戦した。
天童・高楡・寒河江・左沢・白岩など、山形周辺の豪族も輝宗に呼応したから、最上氏としては内
部崩壊の危機に直面した。
8月になると武藤義氏も新庄城主・日野左京亮に書を送り、北方から最上氏を討つことを計画した
が、9月10日、輝宗が義光と和睦した。
義光と輝宗が対抗的な立場にあったことは明らかです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
義光が相続した当時の最上氏は、村山・最上両郡に勢力を伸ばしてはいたが、分封の支族や領主的
な家臣が宗家と威を競い、領国体制はまだ完成していなかった。
最上氏の居城・山形城

一方、隣国には、南に米沢の伊達輝宗、北に武藤義氏、雄勝の小野寺義道があり、いずれも山形方
面に進出の機会を伺っていた。
特に伊達輝宗は、彼の姉婿であったが、武藤氏と結んで最上氏を挟み撃ちする態勢をとった。
義光が弟の中野義時と不和になった時、輝宗は義時を支援し、天正2年(1574年)5月、村山
に侵入して義光と合戦した。
天童・高楡・寒河江・左沢・白岩など、山形周辺の豪族も輝宗に呼応したから、最上氏としては内
部崩壊の危機に直面した。
8月になると武藤義氏も新庄城主・日野左京亮に書を送り、北方から最上氏を討つことを計画した
が、9月10日、輝宗が義光と和睦した。
義光と輝宗が対抗的な立場にあったことは明らかです。
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