島津義弘の関ケ原 その8
『関ケ原戦いの前夜 その3』
具足をかついだ若者が、長槍を横倒しにして泥道に平伏した。
「大殿、永山半六でありもうす。合戦に間に合うてよかった。俺が命、使い捨てにしもんせ」
「よう来た、半六。得意の長槍を敵に食らわせや。東郷重虎も着いたか。まずは両人とも握り飯で腹
を満たせ」
関ケ原の義弘陣所跡

義弘は馬を止め、一人ひとりにねぎらいの声を掛けた。
重い鎧櫃を背負い、単身で九州の南端から駆けつけた忠臣たちであった。
義弘は、重臣だけでなく軽輩の心もよく捉えていたのです。
惟新公に手勢がのうて、美濃で立ち往生してごわす。
そうした風聞を聞き、国元から兵卒が槍や鉄砲をかついで美濃をめざした。
誰もがお金がないので、食を乞い、古堂や道ばたの樹下で眠り、なかにはひったくりや泥棒をしなが
ら街道の街々を突っ走ってきた者もいたという。
「大殿をお護りしたい」
その一心であったことでしょう。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
具足をかついだ若者が、長槍を横倒しにして泥道に平伏した。
「大殿、永山半六でありもうす。合戦に間に合うてよかった。俺が命、使い捨てにしもんせ」
「よう来た、半六。得意の長槍を敵に食らわせや。東郷重虎も着いたか。まずは両人とも握り飯で腹
を満たせ」
関ケ原の義弘陣所跡

義弘は馬を止め、一人ひとりにねぎらいの声を掛けた。
重い鎧櫃を背負い、単身で九州の南端から駆けつけた忠臣たちであった。
義弘は、重臣だけでなく軽輩の心もよく捉えていたのです。
惟新公に手勢がのうて、美濃で立ち往生してごわす。
そうした風聞を聞き、国元から兵卒が槍や鉄砲をかついで美濃をめざした。
誰もがお金がないので、食を乞い、古堂や道ばたの樹下で眠り、なかにはひったくりや泥棒をしなが
ら街道の街々を突っ走ってきた者もいたという。
「大殿をお護りしたい」
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島津義弘の関ケ原 その7
『関ケ原戦いの前夜 その2』
島津4兄弟の末弟・家久は44歳で病死し、一子・豊寿丸は次兄の義弘に育てられ、元服後に名を
豊久と改めた。
そのせいか伯父甥の間柄をこえ、実の父子同然の仲であったという。
島津義弘公(伊集院駅)

島津の陣地から沢渡村へ。
後に続く士卒は千余名にすぎない。
東西激突のときが、急速に近づきつつあるのに、薩摩は遥かに遠い。
島津の部隊は、開戦間際になっても兵員がそろわなかった。
そのため、西軍のなかで発言権が弱かった。
今朝の軍議の場は、石田三成の野営本部、沢渡村の古寺であった。
古寺に向かう途中、鎧武者たちが駆け寄って来た。
彼らは200里の道を走り、遠く薩摩より馳せ参じた志願兵であった。
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島津4兄弟の末弟・家久は44歳で病死し、一子・豊寿丸は次兄の義弘に育てられ、元服後に名を
豊久と改めた。
そのせいか伯父甥の間柄をこえ、実の父子同然の仲であったという。
島津義弘公(伊集院駅)

島津の陣地から沢渡村へ。
後に続く士卒は千余名にすぎない。
東西激突のときが、急速に近づきつつあるのに、薩摩は遥かに遠い。
島津の部隊は、開戦間際になっても兵員がそろわなかった。
そのため、西軍のなかで発言権が弱かった。
今朝の軍議の場は、石田三成の野営本部、沢渡村の古寺であった。
古寺に向かう途中、鎧武者たちが駆け寄って来た。
彼らは200里の道を走り、遠く薩摩より馳せ参じた志願兵であった。
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島津義弘の関ケ原 その6
『関ケ原戦いの前夜 その1』
慶長5年(1600年)陰暦8月24日、秋凉の朝霧が地を這い、大垣城をすっぽりと包みこんで
いる。
南国育ちの老将は甥の豊久に
「勝つにしても、負けるにしても、これがわしの最後の戦になるぞ」
と語りかけ、きりりと兜の紐をしめた。
焼失前の大垣城(大垣城登城記は「こちら」です。)

名は島津惟新入道義弘、九州の薩摩を仕切る歴戦の大名である。
各地の諸将は、義弘のことを『惟新公』と尊称していたという。
「この豊久、どこまでもお供しもす。戦場こそ男の晴れ舞台。いつ幕が下りても、なんの未練もあ
りもはん」
と、さわやかに言い放ち、若武者の豊久は馬にまたがった。
「よう言うた。それでこそ薩摩隼人じゃ」
「伯父上さまこそ、薩摩古武士にございます」
「東西二分、これほどの大決戦は2度と起こるまい。豊久よ、働きどころを知り、死にどころを知
って、存分に差配いたせ」
豊久の父は、島津4兄弟の末弟で、名を家久という。
武勇にすぐれ、串木野一帯を治めて佐土原城を守っていた。
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慶長5年(1600年)陰暦8月24日、秋凉の朝霧が地を這い、大垣城をすっぽりと包みこんで
いる。
南国育ちの老将は甥の豊久に
「勝つにしても、負けるにしても、これがわしの最後の戦になるぞ」
と語りかけ、きりりと兜の紐をしめた。
焼失前の大垣城(大垣城登城記は「こちら」です。)

名は島津惟新入道義弘、九州の薩摩を仕切る歴戦の大名である。
各地の諸将は、義弘のことを『惟新公』と尊称していたという。
「この豊久、どこまでもお供しもす。戦場こそ男の晴れ舞台。いつ幕が下りても、なんの未練もあ
りもはん」
と、さわやかに言い放ち、若武者の豊久は馬にまたがった。
「よう言うた。それでこそ薩摩隼人じゃ」
「伯父上さまこそ、薩摩古武士にございます」
「東西二分、これほどの大決戦は2度と起こるまい。豊久よ、働きどころを知り、死にどころを知
って、存分に差配いたせ」
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武勇にすぐれ、串木野一帯を治めて佐土原城を守っていた。
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島津義弘の関ケ原 その5
『朝鮮の役 その2』
慶長の役では慶長2年(1597年)7月、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵
将・元均を討ち取った(漆川梁海戦)。
8月には南原城の戦いに参加して諸将との全州会議に参加した後、忠清道の扶余まで一旦北上して
から井邑経由で全羅道の海南まで南下した。その後、10月末より泗川の守備についた。
朝鮮進攻

慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍(島津報告20万人、
『宣祖実録』十月十二日条 中路明軍2万6,800人及び朝鮮軍2,215人の計2万9,015人)を7,000人
の寡兵で打ち破り、島津家文書『征韓録』では敵兵3万8,717人を討ち取った記載があります。
これは朝鮮側史料の参戦数と照らし合わせれば、夫役に動員された明・朝鮮側の非戦闘員を含める
としても誇張・誤認の可能性はあるが、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。
島津側の数字を採用するなら、寡兵が大軍を破った例として類例のない勝利であり、この評判は義
弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与え
ていくことにもなった。
朝鮮からの撤退が決定し、朝鮮の役における最後の海戦となった11月の露梁海戦では、立花宗茂ら
ともに順天城に孤立した小西行長軍救出の為に出撃するが、明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退
した。
しかし明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げた。
またこの海戦が生起したことで海上封鎖が解けたため、小西軍は退却に成功しており、日本側の作
戦目的は達成されている。
これら朝鮮での功により島津家は加増を受けた。
日本側の記録によれば、朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と朝鮮・明軍から恐れ
られていたという。
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慶長の役では慶長2年(1597年)7月、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵
将・元均を討ち取った(漆川梁海戦)。
8月には南原城の戦いに参加して諸将との全州会議に参加した後、忠清道の扶余まで一旦北上して
から井邑経由で全羅道の海南まで南下した。その後、10月末より泗川の守備についた。
朝鮮進攻

慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍(島津報告20万人、
『宣祖実録』十月十二日条 中路明軍2万6,800人及び朝鮮軍2,215人の計2万9,015人)を7,000人
の寡兵で打ち破り、島津家文書『征韓録』では敵兵3万8,717人を討ち取った記載があります。
これは朝鮮側史料の参戦数と照らし合わせれば、夫役に動員された明・朝鮮側の非戦闘員を含める
としても誇張・誤認の可能性はあるが、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。
島津側の数字を採用するなら、寡兵が大軍を破った例として類例のない勝利であり、この評判は義
弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与え
ていくことにもなった。
朝鮮からの撤退が決定し、朝鮮の役における最後の海戦となった11月の露梁海戦では、立花宗茂ら
ともに順天城に孤立した小西行長軍救出の為に出撃するが、明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退
した。
しかし明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げた。
またこの海戦が生起したことで海上封鎖が解けたため、小西軍は退却に成功しており、日本側の作
戦目的は達成されている。
これら朝鮮での功により島津家は加増を受けた。
日本側の記録によれば、朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と朝鮮・明軍から恐れ
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島津義弘の関ケ原 その4
『朝鮮の役 その1』
義弘は豊臣政権に対して協力的で、天正20年(1592年)からの文禄の役、慶長2年(1597年)か
らの慶長の役のいずれも朝鮮へ渡海して参戦しています。
名護屋城大手門(名護屋城登場記は「こちら」です。)

文禄の役では四番隊に所属し、1万人の軍役を命ぜられたが、旧態依然とした国元の体制や梅北一
揆により、豊臣体制下では生存条件とも成る軍役動員がはかどらなかった。
義弘は軍役を果たすため、大隅国栗野の居城を23騎で出立し、肥前国名護屋に期日までに着到し
たが、国許の義久らから送られてくるはずの軍勢・軍船が延引した。
そのため、義弘は書状に「龍伯様のおんため、御家のおんためと存し、身命を捨てて名護屋へ予定
通り参ったのに、船が延引したため、日本一の大遅陣となってしまい、自他の面目を失ってしまっ
た、
「……無念千万である」と書くほど、島津の軍勢は遅陣となった。
その後、島津の軍勢は四番隊を率いる毛利吉成の後を追って江原道に展開した。
また、和平交渉中の文禄2年(1593年)9月、朝鮮滞陣中に嫡男の久保を病気で失っている。
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らの慶長の役のいずれも朝鮮へ渡海して参戦しています。
名護屋城大手門(名護屋城登場記は「こちら」です。)

文禄の役では四番隊に所属し、1万人の軍役を命ぜられたが、旧態依然とした国元の体制や梅北一
揆により、豊臣体制下では生存条件とも成る軍役動員がはかどらなかった。
義弘は軍役を果たすため、大隅国栗野の居城を23騎で出立し、肥前国名護屋に期日までに着到し
たが、国許の義久らから送られてくるはずの軍勢・軍船が延引した。
そのため、義弘は書状に「龍伯様のおんため、御家のおんためと存し、身命を捨てて名護屋へ予定
通り参ったのに、船が延引したため、日本一の大遅陣となってしまい、自他の面目を失ってしまっ
た、
「……無念千万である」と書くほど、島津の軍勢は遅陣となった。
その後、島津の軍勢は四番隊を率いる毛利吉成の後を追って江原道に展開した。
また、和平交渉中の文禄2年(1593年)9月、朝鮮滞陣中に嫡男の久保を病気で失っている。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
島津義弘の関ケ原 その3
『秀吉の九州平定』
天正15年(1587年)、大友宗麟の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で戦う
(根白坂の戦い)。
このとき義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示したというが、島津軍は兵力で
豊臣軍に及ばず劣勢であり結局敗北する。
豊臣秀吉(1537ー1598年)

その後の5月8日(6月13日)に義久が降伏した後も義弘は徹底抗戦を主張したが、5月22日(6
月27日)に兄の懸命な説得により、子の久保を人質として差し出すことを決めて高野山の木食応
其の仲介のもと降伏した。
このとき秀吉から大隅国を所領安堵されています。
なお、この際に義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされているが、正式に家督
相続がなされた事実は確認できず、義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握しているた
め、恐らくは形式的な家督譲渡であったものと推測されてます。
また、秀吉やその側近が島津氏の勢力を分裂させる目的で、義久ではなく弟の義弘を当主として
扱ったという説もあります。
天正16年(1588年)に上洛した義弘に羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜され、一方、義久には羽
柴の名字のみが下賜されています。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
天正15年(1587年)、大友宗麟の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で戦う
(根白坂の戦い)。
このとき義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示したというが、島津軍は兵力で
豊臣軍に及ばず劣勢であり結局敗北する。
豊臣秀吉(1537ー1598年)

その後の5月8日(6月13日)に義久が降伏した後も義弘は徹底抗戦を主張したが、5月22日(6
月27日)に兄の懸命な説得により、子の久保を人質として差し出すことを決めて高野山の木食応
其の仲介のもと降伏した。
このとき秀吉から大隅国を所領安堵されています。
なお、この際に義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされているが、正式に家督
相続がなされた事実は確認できず、義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握しているた
め、恐らくは形式的な家督譲渡であったものと推測されてます。
また、秀吉やその側近が島津氏の勢力を分裂させる目的で、義久ではなく弟の義弘を当主として
扱ったという説もあります。
天正16年(1588年)に上洛した義弘に羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜され、一方、義久には羽
柴の名字のみが下賜されています。
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島津義弘の関ケ原 その2
『耳川の戦い』
義久が家督を継ぐと兄を補佐し、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いでは伊東義祐が3,000の大軍
を率いて攻めてきたのに対して300の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏
の勢力拡大に貢献した。
耳川

天正5年(1577年)には伊東義祐を日向から追放、天正6年(1578年)の耳川の戦いにも参加して
豊後国から遠征してきた大友氏を破る武功を挙げています。
天正9年(1581年)に帰順した相良氏に代わり、天正13年(1585年)には肥後国の守護代として
八代に入って阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執り武功
を挙げることも多かったという。
天正14年(1586年)には豊後に侵攻して大友領を侵食しますが、志賀親次など大友方の城主の抗
戦によってその攻勢を頓挫しています。
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義久が家督を継ぐと兄を補佐し、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いでは伊東義祐が3,000の大軍
を率いて攻めてきたのに対して300の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏
の勢力拡大に貢献した。
耳川

天正5年(1577年)には伊東義祐を日向から追放、天正6年(1578年)の耳川の戦いにも参加して
豊後国から遠征してきた大友氏を破る武功を挙げています。
天正9年(1581年)に帰順した相良氏に代わり、天正13年(1585年)には肥後国の守護代として
八代に入って阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執り武功
を挙げることも多かったという。
天正14年(1586年)には豊後に侵攻して大友領を侵食しますが、志賀親次など大友方の城主の抗
戦によってその攻勢を頓挫しています。
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