島津義弘の関ケ原 その37
『徳川家康の陰謀 その4』
毛利秀元は、まだ22歳の若さであった。
古強者の間にまじり、気後れして貧乏ゆすりが止まらない。
毛利秀元(1579-1650年)

後見役の伯父・吉川広家の前では面も上げられなかった。
大国の毛利もまた、この東西決戦に生き残りをかけていた。山頂から戦況を見極めた後、坂落としに
敗者側を討ち取る腹らしい。
南宮山に立っているだけでは、毛利2万の大軍も田畑の案山子にすぎない。それどころか、もし東軍
に寝返れば、恐ろしい大蛇に変身して西軍は丸呑みにされてしまう。
三成の構想に反したことに、「なんと・・・」と失望の吐息が座に満ちた。
西軍総参謀の三成は、しばし言葉を失い、高揚した軍議の場は一転して凍りついた。
新たな策を具申する将はなく、あたかも通夜の席のように静まりかえった。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
毛利秀元は、まだ22歳の若さであった。
古強者の間にまじり、気後れして貧乏ゆすりが止まらない。
毛利秀元(1579-1650年)

後見役の伯父・吉川広家の前では面も上げられなかった。
大国の毛利もまた、この東西決戦に生き残りをかけていた。山頂から戦況を見極めた後、坂落としに
敗者側を討ち取る腹らしい。
南宮山に立っているだけでは、毛利2万の大軍も田畑の案山子にすぎない。それどころか、もし東軍
に寝返れば、恐ろしい大蛇に変身して西軍は丸呑みにされてしまう。
三成の構想に反したことに、「なんと・・・」と失望の吐息が座に満ちた。
西軍総参謀の三成は、しばし言葉を失い、高揚した軍議の場は一転して凍りついた。
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島津義弘の関ケ原 その36
『徳川家康の陰謀 その3』
蓮歴の武将たちを前にして、石田三成は臆することなく東西決戦の大構想を述べ立てた。
「古来、関ケ原には不破関と申して京都防衛の外郭門でござる。壬申の乱においても、天武天皇が勝
利した地点、いま、天下を二分する決戦場として徳川家康を迎え討ち、東軍を撃破するにはふさわし
かろう聖地と思われまする。泉下の秀吉公も見守っておられましょうぞ。されば、関ケ原における我
ら西軍の鉄壁の陣容と申さば・・・」
三成は、おもむろに関ケ原の地図を広げた。
吉川広家(1561-1625年)

だが、三成が扇子の先で不和関の地点を指し示したとき、出雲14万石の吉川広家が口をはさんだ。
「三成どの、わが毛利・吉川両軍の陣は、すでに南宮山に定まっておりまする。今更の差配は無用
でござろう」
構想に水をさされ、三成の顔がゆがんだ。
「南宮山と申さば峻険な地形。いま開戦となれば、軍を動かすのに半日はかかるはず」
「なんの源義経のひよどり越の故事もござる。毛利・吉川の両軍は時をはかり、一気に坂を駆け下っ
て、東軍へ攻め入る所存。ここなる毛利秀元どのも同様の思案じゃ」
吉川広家は、縁戚にあたる毛利秀元を目でうながした。
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「古来、関ケ原には不破関と申して京都防衛の外郭門でござる。壬申の乱においても、天武天皇が勝
利した地点、いま、天下を二分する決戦場として徳川家康を迎え討ち、東軍を撃破するにはふさわし
かろう聖地と思われまする。泉下の秀吉公も見守っておられましょうぞ。されば、関ケ原における我
ら西軍の鉄壁の陣容と申さば・・・」
三成は、おもむろに関ケ原の地図を広げた。
吉川広家(1561-1625年)

だが、三成が扇子の先で不和関の地点を指し示したとき、出雲14万石の吉川広家が口をはさんだ。
「三成どの、わが毛利・吉川両軍の陣は、すでに南宮山に定まっておりまする。今更の差配は無用
でござろう」
構想に水をさされ、三成の顔がゆがんだ。
「南宮山と申さば峻険な地形。いま開戦となれば、軍を動かすのに半日はかかるはず」
「なんの源義経のひよどり越の故事もござる。毛利・吉川の両軍は時をはかり、一気に坂を駆け下っ
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島津義弘の関ケ原 その35
『徳川家康の陰謀 その2』
西軍主将・毛利輝元の軍勢が到来し、ほぼ全軍の主将は大垣城下に集結した。
「勝てる、これで家康に勝てる」
冷静な石田三成も、喜びをあらわにした。
小早川秀秋(1582-1602年)

その夜、諸大名は城中に会した。謀将の三成を座主として、あらためて戦略を練り直した。
新に軍議に加わったのは、毛利秀元とその伯父の吉川広家、それに長曾我部盛親、宇喜多秀家、長
束正家などであった。
大軍を率いる小早川秀秋は、早くから関ケ原の松尾山に陣取って動かず、軍議にも欠席した。
彼は秀吉の正妻、北政所の縁者であった。
北政所の後押しもあって、小早川秀秋は器量以上の出世をとげていたが、昔から小心な彼は、老巧
な家康には頭が上がらなかった。
「秀秋は、いつ寝返るか判らない」
三成は危惧して松尾山の横腹に、盟友の大谷吉継の軍を置いて、秀秋の動きを牽制させた。
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西軍主将・毛利輝元の軍勢が到来し、ほぼ全軍の主将は大垣城下に集結した。
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小早川秀秋(1582-1602年)

その夜、諸大名は城中に会した。謀将の三成を座主として、あらためて戦略を練り直した。
新に軍議に加わったのは、毛利秀元とその伯父の吉川広家、それに長曾我部盛親、宇喜多秀家、長
束正家などであった。
大軍を率いる小早川秀秋は、早くから関ケ原の松尾山に陣取って動かず、軍議にも欠席した。
彼は秀吉の正妻、北政所の縁者であった。
北政所の後押しもあって、小早川秀秋は器量以上の出世をとげていたが、昔から小心な彼は、老巧
な家康には頭が上がらなかった。
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島津義弘の関ケ原 その34
『徳川家康の陰謀 その1』
壮大なかがり火が大垣城の白壁を赤く照らしていた。
慶長5年(1600年)9月、美濃盆地の小さな城下町は喧騒に満ちあふれていた。
昼も夜もなく人馬の入退があり、武具や兵糧が運び込まれてくる。
大垣城(大垣城登城記は「こちら」です。)

商人は高調子にしゃべり、兵たちは大声で怒鳴りあう。開戦間際の大垣城下は、異様な熱気に包ま
れていた。
島津義弘は物見櫓に立って、続々と入城してくる西軍の諸隊を指した。
甥の豊久も高笑いを響かせた。
「ほんなこつ、心強い。わが西軍は意気軒高でありもす。この分じゃと、兵の数で東軍に勝ことに
なりもそ」
「その油断が怖い。いくら数に勝っても、戦は別物でこわいど、まだ西軍にゃ勝利へ向かう戦略が
なにひとつもありもはん」
義弘は、入城して来る毛利の大軍を見下ろしながら、苦渋の色を頬にきざんだ。
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慶長5年(1600年)9月、美濃盆地の小さな城下町は喧騒に満ちあふれていた。
昼も夜もなく人馬の入退があり、武具や兵糧が運び込まれてくる。
大垣城(大垣城登城記は「こちら」です。)

商人は高調子にしゃべり、兵たちは大声で怒鳴りあう。開戦間際の大垣城下は、異様な熱気に包ま
れていた。
島津義弘は物見櫓に立って、続々と入城してくる西軍の諸隊を指した。
甥の豊久も高笑いを響かせた。
「ほんなこつ、心強い。わが西軍は意気軒高でありもす。この分じゃと、兵の数で東軍に勝ことに
なりもそ」
「その油断が怖い。いくら数に勝っても、戦は別物でこわいど、まだ西軍にゃ勝利へ向かう戦略が
なにひとつもありもはん」
義弘は、入城して来る毛利の大軍を見下ろしながら、苦渋の色を頬にきざんだ。
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島津義弘の関ケ原 その33
島津義弘の関ケ原 その32
『関ケ原戦いの前夜 その26』
「盛淳、ご苦労であった。この分では東軍の追撃はあるまい。ここらで兵を引き、まっすぐ大垣城
をめざすぞ」
島津義弘公(えびの市)

「ほんなこつ、これも島津家の威光でありもそ。万が一、敵襲の折には、大殿に代わりてこの盛淳
めが居残り、迎えうちますれば」
影武者の長寿院盛淳は、しわがれた笑い声までが義弘に似ていた。
ともに背丈は6尺に近い。大ぶりな二重まぶたも生き写しである。
65歳の義弘をまねて、50歳半ばの盛淳は月代を深く剃り上げていた。
彼はまた、敵の目をひくため、金鯱造りの大兜をかぶり、赤金模様の鎧を着こみ、騎行の際も目立
つ白馬を用いていた。
義弘本人は、くすんだ毛並みの馬を乗用していたという。
島津勢は隊を整え黒俣の拠点から引き揚げていく。
川向こうの東軍は、丸に十字の旗指物を凝然と見送っている。
「おう、島津は背を向けても強いぞや・・・」
敵将の黒田長政は、義弘の軍影を望見しながら感嘆の声をもらした。
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「ほんなこつ、これも島津家の威光でありもそ。万が一、敵襲の折には、大殿に代わりてこの盛淳
めが居残り、迎えうちますれば」
影武者の長寿院盛淳は、しわがれた笑い声までが義弘に似ていた。
ともに背丈は6尺に近い。大ぶりな二重まぶたも生き写しである。
65歳の義弘をまねて、50歳半ばの盛淳は月代を深く剃り上げていた。
彼はまた、敵の目をひくため、金鯱造りの大兜をかぶり、赤金模様の鎧を着こみ、騎行の際も目立
つ白馬を用いていた。
義弘本人は、くすんだ毛並みの馬を乗用していたという。
島津勢は隊を整え黒俣の拠点から引き揚げていく。
川向こうの東軍は、丸に十字の旗指物を凝然と見送っている。
「おう、島津は背を向けても強いぞや・・・」
敵将の黒田長政は、義弘の軍影を望見しながら感嘆の声をもらした。
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島津義弘の関ケ原 その31
『関ケ原戦いの前夜 その25』
黒田長政らは、島津軍団を敬遠したのです。
諸大名は朝鮮の役で同行し、島津兵の異様な強さを知っていたのです。
そのため、下流に陣取る十文字の旗を見て、渡河を避け、東軍の先鋒隊はさらに上流に足をのばし、
合渡川を守る石田勢と遭遇したのです。
石田三成の旗

『大一大万大吉』と旗に染め抜かれた吉兆文字こそ、石田三成の紋章であった。
「あの大仰な旗印を踏み潰せ」
黒田長政は怒号し、突撃をかけた。
石田勢を駆逐した後も、東軍の先鋒隊は下流の島津兵を無視した。
黒田・藤堂らの諸将はみんな、最強軍団との軋轢を避けたらしい。
島津軍は眠れる猛虎である。むやみに手を触れれば、牙をむいて襲いかかる。
彼らはそうみていたのでしょう。
わざわざ虎の尾を踏むのは愚か者であろう。島津の兵員の少なさは問題ではない。
義弘が率いる軍団そのものが脅威だったのです。
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黒田長政らは、島津軍団を敬遠したのです。
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そのため、下流に陣取る十文字の旗を見て、渡河を避け、東軍の先鋒隊はさらに上流に足をのばし、
合渡川を守る石田勢と遭遇したのです。
石田三成の旗

『大一大万大吉』と旗に染め抜かれた吉兆文字こそ、石田三成の紋章であった。
「あの大仰な旗印を踏み潰せ」
黒田長政は怒号し、突撃をかけた。
石田勢を駆逐した後も、東軍の先鋒隊は下流の島津兵を無視した。
黒田・藤堂らの諸将はみんな、最強軍団との軋轢を避けたらしい。
島津軍は眠れる猛虎である。むやみに手を触れれば、牙をむいて襲いかかる。
彼らはそうみていたのでしょう。
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