島津義弘の関ケ原 その66
『南海にきらめく真珠 その3』
西軍の最終会議では、関ケ原の広野に横一文字の大防御陣を敷き、東軍を撃滅する正攻法が採択
された。
そして、より有利陣形を得るための強行軍となった。
が、それも徒労であった。
関ケ原の戦い初期陣形

いち早く『西軍進発!』の報は、大垣城下にひそむ伊賀の諜者らによって、家康の陣営へと知らされ
ていた。
家康の判断は
「野戦となろう。三成めは、わが壺に落ちた。もう這いあげれまい。全軍、出陣じゃ!」
ただちに、東軍の諸隊に三成迎撃の命が発せられた。先鋒を任ずる福島正則は勇み立ち、まっさきに
雨中の関ケ原に兵を進めた。
「三成への初太刀は、福島隊が食らわす」
槍ひと筋の正則には、筆一本で豊臣家高官へのし上がった三成への積怨だけがあったのです。
豪胆にも、福島隊は闇夜の中で煌々と松明を燃やし、雨にけむる広野の真っただ中へ突き進んだ。
「戦う相手は石田三成のみ!他の西軍に遺恨はなし、槍を交えるな」
福島正則は長剣を手に、闇を見据えてほえ立てた。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
西軍の最終会議では、関ケ原の広野に横一文字の大防御陣を敷き、東軍を撃滅する正攻法が採択
された。
そして、より有利陣形を得るための強行軍となった。
が、それも徒労であった。
関ケ原の戦い初期陣形

いち早く『西軍進発!』の報は、大垣城下にひそむ伊賀の諜者らによって、家康の陣営へと知らされ
ていた。
家康の判断は
「野戦となろう。三成めは、わが壺に落ちた。もう這いあげれまい。全軍、出陣じゃ!」
ただちに、東軍の諸隊に三成迎撃の命が発せられた。先鋒を任ずる福島正則は勇み立ち、まっさきに
雨中の関ケ原に兵を進めた。
「三成への初太刀は、福島隊が食らわす」
槍ひと筋の正則には、筆一本で豊臣家高官へのし上がった三成への積怨だけがあったのです。
豪胆にも、福島隊は闇夜の中で煌々と松明を燃やし、雨にけむる広野の真っただ中へ突き進んだ。
「戦う相手は石田三成のみ!他の西軍に遺恨はなし、槍を交えるな」
福島正則は長剣を手に、闇を見据えてほえ立てた。
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島津義弘の関ケ原 その65
『南海にきらめく真珠 その2』
雨足はきつく、剽悍な島津隊も、泥地の坂で足をとられて難渋した。
松尾山縄張り(CG画像)

遠方にかすかに見える松尾山の小早川軍のかがり火が道しるべであった。
秋雨に消えかかるか細い火は、西軍の明日の運命を暗示しているかのようであったという。
「えろう冷える。しっかりと乾し飯を噛んで進め、体の内から火を燃やしもそ、敵に油断あれば、
島津隊のみで夜襲をかけ、家康の寝首をそぐ」
馬上の義弘は、丈夫な奥歯で乾し飯を噛み潰しながら、坂道を超えていった。
将に従う重装備の島津隊は、秋雨にうたれて黙々と進軍した。
義弘が奉じた夜襲の奇策は、軍議の席で石田三成に嘲笑されて退けられた、
老将には意地がある。
義弘は、戦場で島津独自の戦いを展開する腹を決めていたという。
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雨足はきつく、剽悍な島津隊も、泥地の坂で足をとられて難渋した。
松尾山縄張り(CG画像)

遠方にかすかに見える松尾山の小早川軍のかがり火が道しるべであった。
秋雨に消えかかるか細い火は、西軍の明日の運命を暗示しているかのようであったという。
「えろう冷える。しっかりと乾し飯を噛んで進め、体の内から火を燃やしもそ、敵に油断あれば、
島津隊のみで夜襲をかけ、家康の寝首をそぐ」
馬上の義弘は、丈夫な奥歯で乾し飯を噛み潰しながら、坂道を超えていった。
将に従う重装備の島津隊は、秋雨にうたれて黙々と進軍した。
義弘が奉じた夜襲の奇策は、軍議の席で石田三成に嘲笑されて退けられた、
老将には意地がある。
義弘は、戦場で島津独自の戦いを展開する腹を決めていたという。
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島津義弘の関ケ原 その64
『南海にきらめく真珠 その1』
慶長5年(1600年)9月14日夜、横なぐりの冷たい雨が降るなか、西軍3万5千の将兵は密
かに大垣城を抜け出した。
大垣城

島津隊は2番隊となり、先頭を行く石田軍の後尾に連なった。
軍令により、声音を発することを禁じられている。
しかし、島津隊は重装備である。歩くたびに、鉄砲や具足の金具がガチャガチャと鳴り響く。
たまりかねて、馬上の義弘はみずからの兜をぬいで後続の士卒に下知した。
「鎧・兜を払いとって馬に担がせ、馬の口には綿布をかませて忍ばせよ」
島津兵は具足をはずし、夏着一枚で泥地を進軍して行った。
義弘は、厚手の陣羽織をまとって着ぶくれていたが、夜陰にまぎれた不眠不体の行軍であった。
大垣城を抜け出した西軍は、街道をまっすぐ街道を進まず、大きく東に迂回して山峡の牧田路を抜
けた。
総参謀の石田三成は、夜の難路を忍び行くことで、東軍の偵知を避けようと図ったのです。
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慶長5年(1600年)9月14日夜、横なぐりの冷たい雨が降るなか、西軍3万5千の将兵は密
かに大垣城を抜け出した。
大垣城

島津隊は2番隊となり、先頭を行く石田軍の後尾に連なった。
軍令により、声音を発することを禁じられている。
しかし、島津隊は重装備である。歩くたびに、鉄砲や具足の金具がガチャガチャと鳴り響く。
たまりかねて、馬上の義弘はみずからの兜をぬいで後続の士卒に下知した。
「鎧・兜を払いとって馬に担がせ、馬の口には綿布をかませて忍ばせよ」
島津兵は具足をはずし、夏着一枚で泥地を進軍して行った。
義弘は、厚手の陣羽織をまとって着ぶくれていたが、夜陰にまぎれた不眠不体の行軍であった。
大垣城を抜け出した西軍は、街道をまっすぐ街道を進まず、大きく東に迂回して山峡の牧田路を抜
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島津義弘の関ケ原 その63
『徳川家康の陰謀 その30』
義弘が不快感に耐えてまで軍議に参加したのは、戦国武将としての闘争本能からだったのでしょう。
そして、夜襲の奇策は勝利への飽くなき追及からであった。
東軍総師の家康を討ち取って、最後の誉としたかった。
石田三成

しかし、三成は冷笑で応えた。
「夜襲などを使うのは、田舎大名の小競り合いでござろう。東西の大決戦に夜討ちをかけては後世の
笑い者となりましょうぞ」
「笑い者になろうとも、それしか家康に勝つ手段はありもはん」
「兵数や陣形をみれば、わが西軍の勝利は明らかでござる。ご覧あれ・・・」
三成は関ケ原の絵図面を指し示し、西軍の布陣を長々と講釈しはじめた。
義弘は腕を組んで瞑目した。
『才槌頭が、いつまで形や数にとらわれておるのか』
男の器量の限界でなろだろう。
三成には永遠に人の心が読めぬ、いまだに毛利や小早川が狼煙の合図で動くと思っているらしい。
身内にたぎる熱気が去り、怒りはしだいに諦感に変わってゆく、義弘は薄目をあけ、焦燥した三成
の横顔を見やった。
『これが敗軍の将の顔か』
痩せこけた三成を哀れにさえ思ったという。
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義弘が不快感に耐えてまで軍議に参加したのは、戦国武将としての闘争本能からだったのでしょう。
そして、夜襲の奇策は勝利への飽くなき追及からであった。
東軍総師の家康を討ち取って、最後の誉としたかった。
石田三成

しかし、三成は冷笑で応えた。
「夜襲などを使うのは、田舎大名の小競り合いでござろう。東西の大決戦に夜討ちをかけては後世の
笑い者となりましょうぞ」
「笑い者になろうとも、それしか家康に勝つ手段はありもはん」
「兵数や陣形をみれば、わが西軍の勝利は明らかでござる。ご覧あれ・・・」
三成は関ケ原の絵図面を指し示し、西軍の布陣を長々と講釈しはじめた。
義弘は腕を組んで瞑目した。
『才槌頭が、いつまで形や数にとらわれておるのか』
男の器量の限界でなろだろう。
三成には永遠に人の心が読めぬ、いまだに毛利や小早川が狼煙の合図で動くと思っているらしい。
身内にたぎる熱気が去り、怒りはしだいに諦感に変わってゆく、義弘は薄目をあけ、焦燥した三成
の横顔を見やった。
『これが敗軍の将の顔か』
痩せこけた三成を哀れにさえ思ったという。
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島津義弘の関ケ原 その62
『徳川家康の陰謀 その29』
薩摩人は、みな一言居士(ひとこと意見を言わずにはいられない人)であるという。
どんなに自身の立場が危うくなろうとも、その場で言うべきことを言う。
島津義弘公

「諜報戦は家康の得意とするところ、これは大垣城の籠城を解かせ、野戦に持ち込むための誘いで
ありもす。東軍の諸大名が大坂城の人質を気にかけておるくらいなら、初めから内府にはなびかん。
むざむざ敵の謀略に乗るなど愚の骨頂じゃ」
愚者よばわりされ、冷静な三成も気色ばんだ。
「ならば聞こう。惟新公は兵をどう動かされると申されるのか」
「治部少輔のお言葉どおり、兵を動かすことが勝利への道でありもす。受け身の陣をいくら張って
も家康の首は取れもはん。近場の桃配山まで家康が出張った今こそ好機じゃ、すぐさま進軍し、関
ケ原を突っ切って徳川本体へ夜襲をかける。およばずながら島津隊が先鋒をつとめもす」
義弘には勝算があった。
今までも、不利な形勢を一発の夜襲で逆転させてきた。
古今、夜襲をかけた側が敗れたという戦史はないという。
また現実に、見晴らしのきく日中の合戦は西軍にすこぶる不利だった。なにせ主力の毛利軍は、南
宮山に登って戦況を見定めている。
松尾山に籠る小早川秀秋の大軍も、眼下の戦いを凝視して勝った側につくであろう。
口にこそ出さないが、義弘は西軍諸大名に疑心を抱いていたのです。
『だからこそ、暗夜の合戦にかぎる』
夜襲戦にはそうした含みがあった。
夜襲戦には、そうした含みがあったのです。闇夜では、毛利も小早川も状況が把握できず、少なか
らずとも寝返って西軍に殺到することはない。
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薩摩人は、みな一言居士(ひとこと意見を言わずにはいられない人)であるという。
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島津義弘公

「諜報戦は家康の得意とするところ、これは大垣城の籠城を解かせ、野戦に持ち込むための誘いで
ありもす。東軍の諸大名が大坂城の人質を気にかけておるくらいなら、初めから内府にはなびかん。
むざむざ敵の謀略に乗るなど愚の骨頂じゃ」
愚者よばわりされ、冷静な三成も気色ばんだ。
「ならば聞こう。惟新公は兵をどう動かされると申されるのか」
「治部少輔のお言葉どおり、兵を動かすことが勝利への道でありもす。受け身の陣をいくら張って
も家康の首は取れもはん。近場の桃配山まで家康が出張った今こそ好機じゃ、すぐさま進軍し、関
ケ原を突っ切って徳川本体へ夜襲をかける。およばずながら島津隊が先鋒をつとめもす」
義弘には勝算があった。
今までも、不利な形勢を一発の夜襲で逆転させてきた。
古今、夜襲をかけた側が敗れたという戦史はないという。
また現実に、見晴らしのきく日中の合戦は西軍にすこぶる不利だった。なにせ主力の毛利軍は、南
宮山に登って戦況を見定めている。
松尾山に籠る小早川秀秋の大軍も、眼下の戦いを凝視して勝った側につくであろう。
口にこそ出さないが、義弘は西軍諸大名に疑心を抱いていたのです。
『だからこそ、暗夜の合戦にかぎる』
夜襲戦にはそうした含みがあった。
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らずとも寝返って西軍に殺到することはない。
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島津義弘の関ケ原 その61
『徳川家康の陰謀 その28』
数日ぶりに見る石田三成の顔貌は、げっそりと痩せこけている。神経性の腹下で脱水症状になって
いたのでしょう。
軍議を仕切る声までかれていた。
潭龍寺の石田三成公

「諜者の報によれば、東軍は佐和山城を襲ったのち、一気に大坂城へ攻め入る戦略を定めたとのこ
と。
多分に、大坂城にいる東軍諸将の人質奪還をもくろんでおるものだと察せられる。さすれば、明日
でも不破関を抜けるでありましょう」
三成の詳説を聞き、上座にすわる五大老の宇喜多秀家が即座に呼応した。
「敵の西上まちがいなし。関ケ原に網を張って、内府を迎え討つべし!」
「不破関は狭地なれば、左右よりいっきょに東軍を押し包んで撃滅できましょう。これより我らは
大垣城を出て、夜を徹して関ケ原に向かい、2段重ねの陣取りを」
「意義はござらぬな」
闘将・宇喜多秀家が、きつい視線で座を見まわした。
秋月、熊谷、福原などの九州将校は気圧されてうなずいた。
「待たれよ」
弘義は挙手し、西軍総参謀の三成を直視した。
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いたのでしょう。
軍議を仕切る声までかれていた。
潭龍寺の石田三成公

「諜者の報によれば、東軍は佐和山城を襲ったのち、一気に大坂城へ攻め入る戦略を定めたとのこ
と。
多分に、大坂城にいる東軍諸将の人質奪還をもくろんでおるものだと察せられる。さすれば、明日
でも不破関を抜けるでありましょう」
三成の詳説を聞き、上座にすわる五大老の宇喜多秀家が即座に呼応した。
「敵の西上まちがいなし。関ケ原に網を張って、内府を迎え討つべし!」
「不破関は狭地なれば、左右よりいっきょに東軍を押し包んで撃滅できましょう。これより我らは
大垣城を出て、夜を徹して関ケ原に向かい、2段重ねの陣取りを」
「意義はござらぬな」
闘将・宇喜多秀家が、きつい視線で座を見まわした。
秋月、熊谷、福原などの九州将校は気圧されてうなずいた。
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弘義は挙手し、西軍総参謀の三成を直視した。
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島津義弘の関ケ原 その60
『徳川家康の陰謀 その27』
関ケ原は底の低い盆地で、周辺を小高い山々に囲まれています。
石田三成の陣から見る関ケ原

また、南北に細長く伸びた広野である。ここは中仙道と北国街道が結びつく交通の要衝であるので、
大きな戦乱があると必ずこの地を大軍が通過する地であった。
戦火勃発の時が迫り、在所の百姓たちは、手荷物だけを持って伊吹山の奥里へと逃れたという。
9月14日には、大垣城で石田三成が西軍の諸大名を集めて軍議を開いた。
外に陣を置く義弘にも登城の知らせが届いた。
「これが最後の軍議になりもそ」
今までの行きがかりを捨て、義弘は東軍打破の秘策を言上するため、城中に登城した。
席上には、義弘のほか小西行長と宇喜多秀家、それに九州から来た小大名たちがいた。
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関ケ原は底の低い盆地で、周辺を小高い山々に囲まれています。
石田三成の陣から見る関ケ原

また、南北に細長く伸びた広野である。ここは中仙道と北国街道が結びつく交通の要衝であるので、
大きな戦乱があると必ずこの地を大軍が通過する地であった。
戦火勃発の時が迫り、在所の百姓たちは、手荷物だけを持って伊吹山の奥里へと逃れたという。
9月14日には、大垣城で石田三成が西軍の諸大名を集めて軍議を開いた。
外に陣を置く義弘にも登城の知らせが届いた。
「これが最後の軍議になりもそ」
今までの行きがかりを捨て、義弘は東軍打破の秘策を言上するため、城中に登城した。
席上には、義弘のほか小西行長と宇喜多秀家、それに九州から来た小大名たちがいた。
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