島津義弘の関ケ原 その122
『敵影は濃霧の中にあり その20』
傷ついて逃げる小兎は追いたくなるものです。
加世田城の大手門を開け、実久軍は烈しく追撃してきた。
加世田城

「追えや、追え!日新斎を討ち取れ!」
伊作領まで深追いしてしてきた実久軍を、吉利原の松林に伏せた貴久の別動隊が、横合いから襲っ
て槍を突き入れた。
「突きまくれ。伊作の地からひとりも生きて帰すな!」
「はたかれたか、伏兵じゃ」
たちまち実久軍は総崩れとなり、加世田城へと退却しはじめた。
日新斎は馬首をめぐらし、大きく半円を描いて敵の逃げ道をふさいだ。
「回り込んで退路を断て!」
挟み撃ちにされた実久軍は、将兵300数人が首をとられた。
どうにか加世田城に逃げ帰った者たちも傷を負い、戦意をなくしていた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
傷ついて逃げる小兎は追いたくなるものです。
加世田城の大手門を開け、実久軍は烈しく追撃してきた。
加世田城

「追えや、追え!日新斎を討ち取れ!」
伊作領まで深追いしてしてきた実久軍を、吉利原の松林に伏せた貴久の別動隊が、横合いから襲っ
て槍を突き入れた。
「突きまくれ。伊作の地からひとりも生きて帰すな!」
「はたかれたか、伏兵じゃ」
たちまち実久軍は総崩れとなり、加世田城へと退却しはじめた。
日新斎は馬首をめぐらし、大きく半円を描いて敵の逃げ道をふさいだ。
「回り込んで退路を断て!」
挟み撃ちにされた実久軍は、将兵300数人が首をとられた。
どうにか加世田城に逃げ帰った者たちも傷を負い、戦意をなくしていた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
スポンサーサイト
島津義弘の関ケ原 その121
『敵影は濃霧の中にあり その19』
天文7年(1538年)12月中旬、軍備を整えた日新斎は、1200の兵を率いて加世田城を攻めて
います。
しかし、歴戦の実久は手強く、三重の防御陣を固めていた。
加世田城案内板

<クリックで拡大します>
日新斎は敵兵の反撃にあって惨敗し、早々に伊作に撤退した。
負け戦も、また戦略のひとつです。
圧勝した実久軍は、加世田城を出て伊作へと進攻してきた。
「勝ちに乗じた逆襲は深追いをまねく」
日新斎はそう読んでいたのです。
堅固な城は、攻めての屍をどれほど積み上げても落ちないものです。
加世田城から敵兵を誘い出すことが勝利への近道であった。
だからこそ無理攻めして惨敗を喫した。
日新斎は背を向けて逃げ、敵兵の失笑まで買った。みずからが哀れな標的となってみせたのです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
天文7年(1538年)12月中旬、軍備を整えた日新斎は、1200の兵を率いて加世田城を攻めて
います。
しかし、歴戦の実久は手強く、三重の防御陣を固めていた。
加世田城案内板

<クリックで拡大します>
日新斎は敵兵の反撃にあって惨敗し、早々に伊作に撤退した。
負け戦も、また戦略のひとつです。
圧勝した実久軍は、加世田城を出て伊作へと進攻してきた。
「勝ちに乗じた逆襲は深追いをまねく」
日新斎はそう読んでいたのです。
堅固な城は、攻めての屍をどれほど積み上げても落ちないものです。
加世田城から敵兵を誘い出すことが勝利への近道であった。
だからこそ無理攻めして惨敗を喫した。
日新斎は背を向けて逃げ、敵兵の失笑まで買った。みずからが哀れな標的となってみせたのです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
島津義弘の関ケ原 その120
『敵影は濃霧の中にあり その18』
3日後に実久から返事が届いた。
「薩摩に2人の覇者はいらぬ。次は戦場にて相まみえましょうぞ」
「島津実久こそ、薩摩の闘将ぞ」
島津貴久(1514ー1571年)

日新斎には、敵将の心根が痛いほどわかっていた。
力は互角。城取り合戦も一進一退。ましてや島津の血縁なれば、とうてい相手の下風には立てない。
和睦に応じて臣下になるぐらいなら、斬り死にしたほうが潔い。
それは、傍流の伊作島津氏から守護職にまでのし上がった貴久父子も同じであった。
いずれ決着をつけねばならない。
「底力をたくわえよ!」
日新斎は家臣だけでなく、沼田に足を突っ込んで領民たちをも鼓舞した。
父子は領地の治水を整備し、地道に石高を増やしていった。
荒れた火山灰地に川水が浸透し、緑の田畑に変貌し、それとともに兵員を増強していった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
3日後に実久から返事が届いた。
「薩摩に2人の覇者はいらぬ。次は戦場にて相まみえましょうぞ」
「島津実久こそ、薩摩の闘将ぞ」
島津貴久(1514ー1571年)

日新斎には、敵将の心根が痛いほどわかっていた。
力は互角。城取り合戦も一進一退。ましてや島津の血縁なれば、とうてい相手の下風には立てない。
和睦に応じて臣下になるぐらいなら、斬り死にしたほうが潔い。
それは、傍流の伊作島津氏から守護職にまでのし上がった貴久父子も同じであった。
いずれ決着をつけねばならない。
「底力をたくわえよ!」
日新斎は家臣だけでなく、沼田に足を突っ込んで領民たちをも鼓舞した。
父子は領地の治水を整備し、地道に石高を増やしていった。
荒れた火山灰地に川水が浸透し、緑の田畑に変貌し、それとともに兵員を増強していった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
島津義弘の関ケ原 その119
『敵影は濃霧の中にあり その17』
「寺暮らしなど老人のすることじゃ」
島津義弘が生まれた翌春、天文5年(1536年)3月7日、守護職の島津貴久は実父の日新斎と
馬首をならべ、日置領に接する伊集院城を攻め落とした。
加世田城(別府城)

父子が力を合わせ、宿敵の実久に奪われていた拠点を取り戻した。
しかし、敵将の実久はとり逃がしてしまった。
またも薩摩統一は遠のいた。
民は飢え、田畑は荒れるばかりであった。
日新斎は死を賭けて、単騎で伊作の西南にしりぞいた実久に迫った。
そして加世田城に籠る実久に『永世の和』を申し込んだ。
「骨肉の争いは、島津一族だけでなく薩摩の民を疲弊させるのみ。今こそ互いに和して、百年の計を
立てるべきとき」
日新斎の命がけの談判を、実久は静かに聞き入った。
即答はなく、豪華な宴席を設けて日新斎を歓待した。
2人は親しく酒を酌み交わし、武将としての礼をつくした。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
「寺暮らしなど老人のすることじゃ」
島津義弘が生まれた翌春、天文5年(1536年)3月7日、守護職の島津貴久は実父の日新斎と
馬首をならべ、日置領に接する伊集院城を攻め落とした。
加世田城(別府城)

父子が力を合わせ、宿敵の実久に奪われていた拠点を取り戻した。
しかし、敵将の実久はとり逃がしてしまった。
またも薩摩統一は遠のいた。
民は飢え、田畑は荒れるばかりであった。
日新斎は死を賭けて、単騎で伊作の西南にしりぞいた実久に迫った。
そして加世田城に籠る実久に『永世の和』を申し込んだ。
「骨肉の争いは、島津一族だけでなく薩摩の民を疲弊させるのみ。今こそ互いに和して、百年の計を
立てるべきとき」
日新斎の命がけの談判を、実久は静かに聞き入った。
即答はなく、豪華な宴席を設けて日新斎を歓待した。
2人は親しく酒を酌み交わし、武将としての礼をつくした。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
島津義弘の関ケ原 その118
『敵影は濃霧の中にあり その16』
「寺暮らしなど老人のすることじゃ」
定見のない島津当主は寺を逃げ出し、鹿児島に帰って還俗した。
日新斎(島津忠良)

そればかりか、なんと仇敵の島津実久と和睦し、守護職争奪の不穏な動きを見せたのです。
本家当主の島津勝久は、まさしく雑念の人であった。
「薩摩騒乱の根源は勝久にあったのか・・・」
日新斎はやっと気づいた。
やがて実久も、狷介な島津当主を見捨て、討ちとろうと謀った。
それに気づいた勝久は逃げに逃げ、各地の縁戚を頼って、蒲生、栗野、都城と点々とし、ついには遠く
豊後の沖の浜まで漂泊して波乱の生涯を閉じた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
「寺暮らしなど老人のすることじゃ」
定見のない島津当主は寺を逃げ出し、鹿児島に帰って還俗した。
日新斎(島津忠良)

そればかりか、なんと仇敵の島津実久と和睦し、守護職争奪の不穏な動きを見せたのです。
本家当主の島津勝久は、まさしく雑念の人であった。
「薩摩騒乱の根源は勝久にあったのか・・・」
日新斎はやっと気づいた。
やがて実久も、狷介な島津当主を見捨て、討ちとろうと謀った。
それに気づいた勝久は逃げに逃げ、各地の縁戚を頼って、蒲生、栗野、都城と点々とし、ついには遠く
豊後の沖の浜まで漂泊して波乱の生涯を閉じた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
TOKYO 2020
島津義弘の関ケ原 その117
『敵影は濃霧の中にあり その15』
大永6年(1526年)11月27日、虎寿丸は宗家の居館がある清水城で元服し、名を又三郎貴久と
改めた。
美姫・常盤の血を引く若者は、晴れて本家の後継者となった。
薩摩国清水城跡碑(現在は清水小学校)

翌年、島津家当主の勝久は、守護職を養子の貴久にゆずって隠居した。
世俗を離れ、剃髪して寺に籠ったのです。
実父も忠良もそれにならい、髷を切った。
「世を捨て、雑念を払い、互いに大護摩の平穏をば御仏に願いもそ」
義父の勝久と、実父の忠良は、ともに剃髪入道して不戦の誓いをたてたのです。
が、勝久は世を捨てきれなかった。現世にたっぷりと未練があったのです。
無理もない。
隠居した義父の勝久は、まだ25歳であった。
戦乱を離れてみると、無性に矢弾の音が懐かしく見えてくる。
そして命をすり減らし、権謀術策にふけった頃が色濃く蘇ってきた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
大永6年(1526年)11月27日、虎寿丸は宗家の居館がある清水城で元服し、名を又三郎貴久と
改めた。
美姫・常盤の血を引く若者は、晴れて本家の後継者となった。
薩摩国清水城跡碑(現在は清水小学校)

翌年、島津家当主の勝久は、守護職を養子の貴久にゆずって隠居した。
世俗を離れ、剃髪して寺に籠ったのです。
実父も忠良もそれにならい、髷を切った。
「世を捨て、雑念を払い、互いに大護摩の平穏をば御仏に願いもそ」
義父の勝久と、実父の忠良は、ともに剃髪入道して不戦の誓いをたてたのです。
が、勝久は世を捨てきれなかった。現世にたっぷりと未練があったのです。
無理もない。
隠居した義父の勝久は、まだ25歳であった。
戦乱を離れてみると、無性に矢弾の音が懐かしく見えてくる。
そして命をすり減らし、権謀術策にふけった頃が色濃く蘇ってきた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>