島津義弘の関ヶ原 その148
『銃撃と血刃と乱戦と その9』
西軍への加担を決めた時、伏見にいた義弘は3百の手勢しか持っていなかった。
軍費は底をついているのが分かっており、総動員令も出せなかったのです。
島津義弘隊(CG画像)

また、島津氏には大軍を上方へ回せない訳があったのです。
近隣の都城に勢力をもつ伊集院忠真が、反乱の気配を見せていたのです。
国元を手薄にすれば、伊集院氏に三州を丸ごと乗っ取られる恐れがおったからです。
兄の義久は、ひそかに地頭らに通達した。
「国元に暗雲あり、所々の郷士らは上方に参るべからず」
だが、それでも国元の臣下たちは義弘の心中を察し、鎧櫃を担いで、はるばる戦場へと馳せ参じたの
です。
島津軍の総数、13百余人。
なんと、そのうちの千人が自費参加の兵士であった。
寡兵だが、心強い。
義弘の苦境を救ってくれるのは、いつも血気盛んな薩摩隼人たちだった。
3百の手勢が千にふくらみ、開戦時には13百人を超えていた。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
西軍への加担を決めた時、伏見にいた義弘は3百の手勢しか持っていなかった。
軍費は底をついているのが分かっており、総動員令も出せなかったのです。
島津義弘隊(CG画像)

また、島津氏には大軍を上方へ回せない訳があったのです。
近隣の都城に勢力をもつ伊集院忠真が、反乱の気配を見せていたのです。
国元を手薄にすれば、伊集院氏に三州を丸ごと乗っ取られる恐れがおったからです。
兄の義久は、ひそかに地頭らに通達した。
「国元に暗雲あり、所々の郷士らは上方に参るべからず」
だが、それでも国元の臣下たちは義弘の心中を察し、鎧櫃を担いで、はるばる戦場へと馳せ参じたの
です。
島津軍の総数、13百余人。
なんと、そのうちの千人が自費参加の兵士であった。
寡兵だが、心強い。
義弘の苦境を救ってくれるのは、いつも血気盛んな薩摩隼人たちだった。
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島津義弘の関ヶ原 その147
『銃撃と血刃と乱戦と その8』
公称77万石の島津領土は疲弊しきっている。
狭い山地や痩せた火山灰地が多く、実際の石高は60万石を切っていた。
戦が止まず、領民たちは稗や粟粥をすする暮らしぶりだった。
守護職・島津家も、同族間の争いや秀吉の島津征伐、朝鮮出兵などで戦費を使いはたし、財政難に
陥っていた。
石田三成(1560-1600年)

そこへ三成と家康の遺恨戦が起こった。
両陣営はともに豊臣家の遺志と称し、大名たちに縛りをかけた。
どちらに加担するかで一族の運命が決まる。
たしかに義弘は迷った。
戦乱をくぐりぬけてきた老将には、『家康有利、三成不利』の状況は読めていた。
だが同年輩ゆえか、姑息な家康とはどうも肌があわない。
先に小狡さがみえてしまう。
人の世は、結局のところ『好き嫌い』で成り立っているものらしい。東西両軍に別れた大名たちの
分岐点もそこにあった。
参陣のそれらしき理由は、後からつけたのに過ぎない。三成憎しの福島正則らは家康を立て、家康
ぎらいの義弘は三成に与した。
『大儀は三成にあり』
それは秀吉の島津征伐のおり、講和使節となり、いろいろと便宜をはかってくれた石田三成への義
理返しでもあったのでしょう。
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公称77万石の島津領土は疲弊しきっている。
狭い山地や痩せた火山灰地が多く、実際の石高は60万石を切っていた。
戦が止まず、領民たちは稗や粟粥をすする暮らしぶりだった。
守護職・島津家も、同族間の争いや秀吉の島津征伐、朝鮮出兵などで戦費を使いはたし、財政難に
陥っていた。
石田三成(1560-1600年)

そこへ三成と家康の遺恨戦が起こった。
両陣営はともに豊臣家の遺志と称し、大名たちに縛りをかけた。
どちらに加担するかで一族の運命が決まる。
たしかに義弘は迷った。
戦乱をくぐりぬけてきた老将には、『家康有利、三成不利』の状況は読めていた。
だが同年輩ゆえか、姑息な家康とはどうも肌があわない。
先に小狡さがみえてしまう。
人の世は、結局のところ『好き嫌い』で成り立っているものらしい。東西両軍に別れた大名たちの
分岐点もそこにあった。
参陣のそれらしき理由は、後からつけたのに過ぎない。三成憎しの福島正則らは家康を立て、家康
ぎらいの義弘は三成に与した。
『大儀は三成にあり』
それは秀吉の島津征伐のおり、講和使節となり、いろいろと便宜をはかってくれた石田三成への義
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島津義弘の関ヶ原 その146
『銃撃と血刃と乱戦と その7』
戦いの火ぶたは切って落とされ、関ケ原を囲む山々に銃声がこだましている。
また左右の陣営では、東西両軍の死闘が繰り広げられていた。
関ケ原開戦の地碑

しかし、島津軍団だけは、まるで庭先の置き石のごとく静まりかえっている。
「来ぬな」
義弘は腕組みをし、苦笑をもらした。
おもむろに、軍師の新納旅庵が
「先ほど、兵員数を調べましたところ、わが島津軍の総数は1300余人。開戦の法螺貝がなっても、
まだ、2人3人と馳せ参じる者もおります」
「なんと忠義な。なるばると・・・」
「御意。薩摩は遠くにありもす」
薩州の一領具足たちは、妻子や近親を残し、自分の意志で遠く関ケ原まで駆けつけ、命を投げ出そう
としている。
もとより、東西決戦は島津氏の望んだものではない。
秀吉の没後、石田三成と徳川家康の反目はしだいに強まり、古今未曽有の大規模な武力衝突にまで
突き進んでいった。
中央政権には、つかず離れず。
それが島津家の家訓であったので、できれば、義弘は傍観者でいたかったのです。
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戦いの火ぶたは切って落とされ、関ケ原を囲む山々に銃声がこだましている。
また左右の陣営では、東西両軍の死闘が繰り広げられていた。
関ケ原開戦の地碑

しかし、島津軍団だけは、まるで庭先の置き石のごとく静まりかえっている。
「来ぬな」
義弘は腕組みをし、苦笑をもらした。
おもむろに、軍師の新納旅庵が
「先ほど、兵員数を調べましたところ、わが島津軍の総数は1300余人。開戦の法螺貝がなっても、
まだ、2人3人と馳せ参じる者もおります」
「なんと忠義な。なるばると・・・」
「御意。薩摩は遠くにありもす」
薩州の一領具足たちは、妻子や近親を残し、自分の意志で遠く関ケ原まで駆けつけ、命を投げ出そう
としている。
もとより、東西決戦は島津氏の望んだものではない。
秀吉の没後、石田三成と徳川家康の反目はしだいに強まり、古今未曽有の大規模な武力衝突にまで
突き進んでいった。
中央政権には、つかず離れず。
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島津義弘の関ヶ原 その145
『銃撃と血刃と乱戦と その6』
関ケ原に立つ老将には、ひとつの心残りがあった。
大坂城で人質になっている、老妻の楓の身の上であった。
思い返せば、正室の楓も幸薄い薩摩女である。
人生の大半を人質として囚われてきた。
今もまた、夫の島津義弘が西軍に与する証として、大坂城に軟禁されている。
もし戦場で義弘が東軍に寝返れば、即座に楓の命は絶たれることになるだろう。
黒田長政(1568-1623年)

薄霧の中に銃声や雄叫びが渦巻いている。東西両軍は、北国街道をはさんで間近に対峙していた。
開戦の法螺貝が鳴れば、まず真正面の敵と槍を交えることになる。
軍師格の新納旅庵が、義弘のもとへ報告にきた。
「お館さまに申しあぐる。左辺にては、石田勢と黒田長政軍が激突し、右辺では小西勢に対し、古田
康勝、佐久間安政らの東軍諸隊が銃撃をくわえておりまする」
「して、西軍が頼りとする宇喜多秀家どのの戦いぶりは」
「前哨戦にて勝利との吉報。宇喜多秀家さまは五段重ねの堅陣を敷き、一段目の前衛部隊のみで、押
し寄せる福島正則の先鋒隊を蹴散らしもうした」
「正則め、功をあせりおって、それにしても不思議やのう。左右では矢弾が飛んでおるのに、わが島
津軍は捨ておかれでごわす」
「ひとえに、惟新公の武名でありもそ」
たしかに島津軍の強さは際立っていた。
「眠れる巨龍には触れず、さわらず・・・」
暗黙のうちに、東軍の諸大名はそう衆議一致しているらしい。
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関ケ原に立つ老将には、ひとつの心残りがあった。
大坂城で人質になっている、老妻の楓の身の上であった。
思い返せば、正室の楓も幸薄い薩摩女である。
人生の大半を人質として囚われてきた。
今もまた、夫の島津義弘が西軍に与する証として、大坂城に軟禁されている。
もし戦場で義弘が東軍に寝返れば、即座に楓の命は絶たれることになるだろう。
黒田長政(1568-1623年)

薄霧の中に銃声や雄叫びが渦巻いている。東西両軍は、北国街道をはさんで間近に対峙していた。
開戦の法螺貝が鳴れば、まず真正面の敵と槍を交えることになる。
軍師格の新納旅庵が、義弘のもとへ報告にきた。
「お館さまに申しあぐる。左辺にては、石田勢と黒田長政軍が激突し、右辺では小西勢に対し、古田
康勝、佐久間安政らの東軍諸隊が銃撃をくわえておりまする」
「して、西軍が頼りとする宇喜多秀家どのの戦いぶりは」
「前哨戦にて勝利との吉報。宇喜多秀家さまは五段重ねの堅陣を敷き、一段目の前衛部隊のみで、押
し寄せる福島正則の先鋒隊を蹴散らしもうした」
「正則め、功をあせりおって、それにしても不思議やのう。左右では矢弾が飛んでおるのに、わが島
津軍は捨ておかれでごわす」
「ひとえに、惟新公の武名でありもそ」
たしかに島津軍の強さは際立っていた。
「眠れる巨龍には触れず、さわらず・・・」
暗黙のうちに、東軍の諸大名はそう衆議一致しているらしい。
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島津義弘の関ヶ原 その144
『銃撃と血刃と乱戦と その5』
欺瞞こそ、家康の本領なのです。
無価値の起請文は、吉川広家宛てにだけ送られたのではなかったのです。
徳川家康(1543-1616年)

家康は本営で次々に書面をしたため、西軍の内応武将に『領国安泰』のお墨付けを送り付けたのでした。
「西軍の叛将に神の御加護などない。望むままにいくらでも誓文を記せばよい」
もとよりお墨付など、砂上に書いた騙し絵である。戦火の大波が打ち寄せて去れば、跡形もなく消えてしまう。
幼少より苦難の道を歩んできた家康には、歴戦歴賞の誇りがある。
豊臣家の庇護のもとに成り上がった年下の戦国大名たちを、心の底で侮っていたのです。
「じゃが、この関ケ原に、梃子(てこ)でも動かぬ老いた武辺者がひとりだけおる・・・」
ふと家康は、霧の彼方に陣取る島津義弘の雄姿を思い描いていたという。
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欺瞞こそ、家康の本領なのです。
無価値の起請文は、吉川広家宛てにだけ送られたのではなかったのです。
徳川家康(1543-1616年)

家康は本営で次々に書面をしたため、西軍の内応武将に『領国安泰』のお墨付けを送り付けたのでした。
「西軍の叛将に神の御加護などない。望むままにいくらでも誓文を記せばよい」
もとよりお墨付など、砂上に書いた騙し絵である。戦火の大波が打ち寄せて去れば、跡形もなく消えてしまう。
幼少より苦難の道を歩んできた家康には、歴戦歴賞の誇りがある。
豊臣家の庇護のもとに成り上がった年下の戦国大名たちを、心の底で侮っていたのです。
「じゃが、この関ケ原に、梃子(てこ)でも動かぬ老いた武辺者がひとりだけおる・・・」
ふと家康は、霧の彼方に陣取る島津義弘の雄姿を思い描いていたという。
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島津義弘の関ヶ原 その143
『銃撃と血刃と乱戦と その4』
開戦前夜の9月14日になって、やっと吉川広家の陣営に徳川方の密書が届いた。
領地安泰を願う広家を、老獪な家康はとことんじらしたのです。
井伊直政陣跡

『吉川広家殿 ひとえに御忠節極め候わば、家康公直々のお墨付、輝元へ取り候て進すべく候・・・』
その起請文には、徳川家重臣の井伊直政と本多忠勝が連署血判していた。
「これで毛利の知行地を守りきった」
広家は起請文を握りしめ、南宮山の高所に布陣する毛利本隊を見上げた。
が、家康はどこまでも冷徹である。
「開戦前の起請文など価値はない。馬にでも食わせてやれ」
心中ではそう思っていたでしょう。
まして、広家に送った誓文には家康の署名はなかったのです。
南宮山に布陣する毛利の大軍を釘づけにするために、麓にいる吉川広家軍を盾替わりに利用したの
です。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
開戦前夜の9月14日になって、やっと吉川広家の陣営に徳川方の密書が届いた。
領地安泰を願う広家を、老獪な家康はとことんじらしたのです。
井伊直政陣跡

『吉川広家殿 ひとえに御忠節極め候わば、家康公直々のお墨付、輝元へ取り候て進すべく候・・・』
その起請文には、徳川家重臣の井伊直政と本多忠勝が連署血判していた。
「これで毛利の知行地を守りきった」
広家は起請文を握りしめ、南宮山の高所に布陣する毛利本隊を見上げた。
が、家康はどこまでも冷徹である。
「開戦前の起請文など価値はない。馬にでも食わせてやれ」
心中ではそう思っていたでしょう。
まして、広家に送った誓文には家康の署名はなかったのです。
南宮山に布陣する毛利の大軍を釘づけにするために、麓にいる吉川広家軍を盾替わりに利用したの
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島津義弘の関ヶ原 その142
『銃撃と血刃と乱戦と その3』
しかし、家康の心は揺れていた。
戦いのさなか、叛将たちが将棋倒しにバタバタと裏切れば、たちまち西軍は自滅する。
だが、それは単なる図式にすぎない。
家康と毛利軍の陣地位置

懐疑心のつよい家康は、いまだ西軍叛将たちの動きを警戒していた。
南宮山の西麓に隆起した桃栗山からは、関ケ原の四方が見渡せる。同時に、高所にいる毛利軍が攻
め下ってくれば、包み斬りにされる危険地帯でもあった。
両者の緩衝役として、西軍の吉川広家が南宮山の麓に腰をすえ、本家・毛利軍の降下をさえぎる陣
形をとっていた。
吉川広家は、交戦よりも対話を望んだという。
本家の毛利輝元が西軍の総師にかつぎ上げられたことを危惧し、広家は独断で徳川方の近臣と不戦
の密約を交わしていた。
「何事も毛利本家のため」
戦場傍観の見返りは『毛利領国120万石の安泰』の誓文であった。
広家はその起請文を信じた。
たとえ腰抜けの叛徒と呼ばれても、毛利一族は乱世を生き延びなければならないのです。
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しかし、家康の心は揺れていた。
戦いのさなか、叛将たちが将棋倒しにバタバタと裏切れば、たちまち西軍は自滅する。
だが、それは単なる図式にすぎない。
家康と毛利軍の陣地位置

懐疑心のつよい家康は、いまだ西軍叛将たちの動きを警戒していた。
南宮山の西麓に隆起した桃栗山からは、関ケ原の四方が見渡せる。同時に、高所にいる毛利軍が攻
め下ってくれば、包み斬りにされる危険地帯でもあった。
両者の緩衝役として、西軍の吉川広家が南宮山の麓に腰をすえ、本家・毛利軍の降下をさえぎる陣
形をとっていた。
吉川広家は、交戦よりも対話を望んだという。
本家の毛利輝元が西軍の総師にかつぎ上げられたことを危惧し、広家は独断で徳川方の近臣と不戦
の密約を交わしていた。
「何事も毛利本家のため」
戦場傍観の見返りは『毛利領国120万石の安泰』の誓文であった。
広家はその起請文を信じた。
たとえ腰抜けの叛徒と呼ばれても、毛利一族は乱世を生き延びなければならないのです。
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