島津義弘の関ヶ原 その177
『必死は必生につながる その13』
人の気配がしてふりむくと、陣幕の横に三成が立っていた。
西軍最高位の謀将が、一介の使番となって島津陣営を訪れ、馬から下乗して義弘との面談を乞うている。
「何たること・・・」
天地人の三成・小栗さん

義弘は眉をひそめ、小柄な佐和山城主を見やった。
わずか19万4千石の身で、家康打倒の兵を組織し、関ケ原に迎撃した。
今日の戦いに大勝し、家康を打ち取れば『天下人』ともなる男である。
しかし、義弘の眼の前でたたずむのは、憔悴しきった哀れな小男にすぎない。
兜をとった才槌頭が左右に揺れ、まるで叱られた童のようであった。
「惟新どの、逢えてよかった」
肩で息をしながら、三成はゆっくり近づいてきた。
見張りの島津兵も、謀将がみずから訪れて来ては、むやみに追い返すことはできなかったのです。
義弘は感情を表に出さず、声を低めていった。
「して、ご用件は」
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
人の気配がしてふりむくと、陣幕の横に三成が立っていた。
西軍最高位の謀将が、一介の使番となって島津陣営を訪れ、馬から下乗して義弘との面談を乞うている。
「何たること・・・」
天地人の三成・小栗さん

義弘は眉をひそめ、小柄な佐和山城主を見やった。
わずか19万4千石の身で、家康打倒の兵を組織し、関ケ原に迎撃した。
今日の戦いに大勝し、家康を打ち取れば『天下人』ともなる男である。
しかし、義弘の眼の前でたたずむのは、憔悴しきった哀れな小男にすぎない。
兜をとった才槌頭が左右に揺れ、まるで叱られた童のようであった。
「惟新どの、逢えてよかった」
肩で息をしながら、三成はゆっくり近づいてきた。
見張りの島津兵も、謀将がみずから訪れて来ては、むやみに追い返すことはできなかったのです。
義弘は感情を表に出さず、声を低めていった。
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島津義弘の関ヶ原 その176
『必死は必生につながる その12』
聞く耳はもたぬ。義弘は西軍総参謀の三成を見限っている。島津の将兵たちの心も西軍から離れてい
た。
島津義弘(1535ー1619年)

開戦にいたる軍議において、動員兵の少ない島津は軽んじられた。
前哨戦においても、島津隊は墨俣の最前線に置き去りにされた。
義弘が奉じた『家康陣夜襲』の奇策も、田舎戦法にすぎぬと嘲られた。
情におぼれ、将としての三成の資質を見誤った。しょせん三成は、秀吉に仕える忠臣にすぎなかった。
百戦錬磨の武将連を束ね、その上に立つには了見がせますぎる。
何よりも不動心が足りなかった。
悔やんでもおそい。
すでにサイは投げられ、東西両軍は血戦のさなかにある。長くは傍観できない。
いずれは島津陣営にも東軍の矢弾がとんでくる。
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聞く耳はもたぬ。義弘は西軍総参謀の三成を見限っている。島津の将兵たちの心も西軍から離れてい
た。
島津義弘(1535ー1619年)

開戦にいたる軍議において、動員兵の少ない島津は軽んじられた。
前哨戦においても、島津隊は墨俣の最前線に置き去りにされた。
義弘が奉じた『家康陣夜襲』の奇策も、田舎戦法にすぎぬと嘲られた。
情におぼれ、将としての三成の資質を見誤った。しょせん三成は、秀吉に仕える忠臣にすぎなかった。
百戦錬磨の武将連を束ね、その上に立つには了見がせますぎる。
何よりも不動心が足りなかった。
悔やんでもおそい。
すでにサイは投げられ、東西両軍は血戦のさなかにある。長くは傍観できない。
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島津義弘の関ヶ原 その175
『必死は必生につながる その11』
東国大名の徳川家康とは縁がうすく、肌もあわない。
苦労人の家康は『実』をめざし、義弘は『義』に生きている。
徳川家康(1543-1616年)

会津出征のおり、義弘には伏見城の留守居役について家康に虚言を食わられた。
同世代の老人同士なのだが、両人はなぜか話が通じない。
互いに意志の齟齬があったにせよ、また無かったにせよ、義弘が小狡い家康に背を向けるのは当然の
ことだったのでしょう。
「家康に一矢むくいる」
そでが老将・島津義弘の意地であった。それもまた家康との因果かもしれない。
豊久からの伝令が走り寄ってきた。
「大殿、先ほど石田三成さまの陣営より、催促の軍使が来もうした」
「で、何と応えた」
「八十島助左衛門なる者が、馬を降りぬまま横柄に言伝いたしましたので、物頭が斬りつけましたとこ
ろ自陣へと逃げ帰りました」
「それでよか」
「また催促が参ったときは」
「追い帰せ」
義弘は短く命じた」
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東国大名の徳川家康とは縁がうすく、肌もあわない。
苦労人の家康は『実』をめざし、義弘は『義』に生きている。
徳川家康(1543-1616年)

会津出征のおり、義弘には伏見城の留守居役について家康に虚言を食わられた。
同世代の老人同士なのだが、両人はなぜか話が通じない。
互いに意志の齟齬があったにせよ、また無かったにせよ、義弘が小狡い家康に背を向けるのは当然の
ことだったのでしょう。
「家康に一矢むくいる」
そでが老将・島津義弘の意地であった。それもまた家康との因果かもしれない。
豊久からの伝令が走り寄ってきた。
「大殿、先ほど石田三成さまの陣営より、催促の軍使が来もうした」
「で、何と応えた」
「八十島助左衛門なる者が、馬を降りぬまま横柄に言伝いたしましたので、物頭が斬りつけましたとこ
ろ自陣へと逃げ帰りました」
「それでよか」
「また催促が参ったときは」
「追い帰せ」
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島津義弘の関ヶ原 その174
『必死は必生につながる その10』
「勤め人は、主人からもらう禄高をすべて使いきらねばならない。自身や子孫のために金を残すのは、
主人の禄を盗むのにひとしい」
三成には金銭への欲がない。
水口城

まだ、水口4万石の小領主にすぎなかった時代、禄高の1万5千石を割いて島左近を迎えたのも、秀
吉への忠節心のあらわれだった。
また、三成は和漢を学びおさめ、教養が高かったという。
主人・秀吉の望むことを先に読んで実行した。それを鼻持ちならず『茶坊主』と見る者も多い。
奉行職の三成は、傲慢な豊臣家の武将たちにはきびしくあたっていた。
そのかわり、敗者や弱者への思いやりはが深い。稲枯れや朝鮮出兵で財政難に陥った島津氏に、さり
げなく多額の援助金を貸与してくれたのも石田三成であった。
『三成には恩義がある』
最終的には、その一点で島津義弘は西軍についたのでしょう。
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「勤め人は、主人からもらう禄高をすべて使いきらねばならない。自身や子孫のために金を残すのは、
主人の禄を盗むのにひとしい」
三成には金銭への欲がない。
水口城

まだ、水口4万石の小領主にすぎなかった時代、禄高の1万5千石を割いて島左近を迎えたのも、秀
吉への忠節心のあらわれだった。
また、三成は和漢を学びおさめ、教養が高かったという。
主人・秀吉の望むことを先に読んで実行した。それを鼻持ちならず『茶坊主』と見る者も多い。
奉行職の三成は、傲慢な豊臣家の武将たちにはきびしくあたっていた。
そのかわり、敗者や弱者への思いやりはが深い。稲枯れや朝鮮出兵で財政難に陥った島津氏に、さり
げなく多額の援助金を貸与してくれたのも石田三成であった。
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最終的には、その一点で島津義弘は西軍についたのでしょう。
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島津義弘の関ヶ原 その173
『必死は必生につながる その9』
銃声とどろく関ケ原の戦場で、義弘は一人沈思していた。
心ならずも西軍方についたののも、石田三成との因縁だった。
石田三成(1560-1600年)

かつて義弘が太閤秀吉の軍門に下ったとき、その折衝役となったのが三成であった。
秀吉の前で敗将の義弘をねぎらい、まるで島津方の忠臣のごとく、三成は才槌頭をふりながら熱弁
した。
「島津に名君多しと聞きおよびまする。南九州の安定には、鎌倉期より源頼朝さまの尊い血をひく
島津一族の力が必要と存ずる」
降伏した島津の健闘を讃えられ、さほどの知行も削られずに済んだのも、若い三成の助言によるも
のであった。
三成はつねに秀吉の側にひかえ、取り次ぎ役をつとめていた。
才知に恵まれ、職務にも忠実だった。
暴君の秀吉に寵愛されたのも、その誠意を買われたからであったのでしょう。
三成は日夜の務めに励んだ。
暴風雨の夜半に登城して、すぐに翌朝には壁襖などの破損個所を修復した。
その精励ぶりは、信長に仕えていたころの若い秀吉と同じであった。
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銃声とどろく関ケ原の戦場で、義弘は一人沈思していた。
心ならずも西軍方についたののも、石田三成との因縁だった。
石田三成(1560-1600年)

かつて義弘が太閤秀吉の軍門に下ったとき、その折衝役となったのが三成であった。
秀吉の前で敗将の義弘をねぎらい、まるで島津方の忠臣のごとく、三成は才槌頭をふりながら熱弁
した。
「島津に名君多しと聞きおよびまする。南九州の安定には、鎌倉期より源頼朝さまの尊い血をひく
島津一族の力が必要と存ずる」
降伏した島津の健闘を讃えられ、さほどの知行も削られずに済んだのも、若い三成の助言によるも
のであった。
三成はつねに秀吉の側にひかえ、取り次ぎ役をつとめていた。
才知に恵まれ、職務にも忠実だった。
暴君の秀吉に寵愛されたのも、その誠意を買われたからであったのでしょう。
三成は日夜の務めに励んだ。
暴風雨の夜半に登城して、すぐに翌朝には壁襖などの破損個所を修復した。
その精励ぶりは、信長に仕えていたころの若い秀吉と同じであった。
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島津義弘の関ヶ原 その172
『必死は必生につながる その8』
自陣内に戻っても、いっこうに震えは止まらない。
軍使の八十島は息を整え、それから小走りに本営へと向かった。
三成陣跡で遊ぶpiglet

待ちかねている三成への復命を、八十島は巧みにすりかえて申し述べた。
「島津の見聞せまく。戦況も見えず、軍使の話を聞く耳すらもちませぬ。惟新公への取次もはかどらず、
兵が抜刀して、追い立てられました」
「なんと無礼な・・・」
「田舎武士ゆえ大戦の気にのまれ、われも見失っておるかと存ずる」
平常心を失っているのは、使番の八十島自身であった。
そして、将の三成も腰が軽すぎた。
「わしが行く」
目の前の戦いが一進一退の膠着状態とはいえ、謀将が自陣を離れて使番になったのです。
「何を思うぞ、島津義弘」
鞍上で低くつぶやく。
応えはない。
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自陣内に戻っても、いっこうに震えは止まらない。
軍使の八十島は息を整え、それから小走りに本営へと向かった。
三成陣跡で遊ぶpiglet

待ちかねている三成への復命を、八十島は巧みにすりかえて申し述べた。
「島津の見聞せまく。戦況も見えず、軍使の話を聞く耳すらもちませぬ。惟新公への取次もはかどらず、
兵が抜刀して、追い立てられました」
「なんと無礼な・・・」
「田舎武士ゆえ大戦の気にのまれ、われも見失っておるかと存ずる」
平常心を失っているのは、使番の八十島自身であった。
そして、将の三成も腰が軽すぎた。
「わしが行く」
目の前の戦いが一進一退の膠着状態とはいえ、謀将が自陣を離れて使番になったのです。
「何を思うぞ、島津義弘」
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島津義弘の関ヶ原 その171
『必死は必生につながる その7』
高揚しきった八十島は自身の非礼に気づかない。
馬から下りず、流れるような弁舌を長々と続けた。
島津軍陣所跡

「にわかに霧も晴れ、合戦の法螺貝は鳴りもうした。また再三再四、西軍総攻撃の狼煙も上げまして
ござる。聞こえませぬか。見えませぬか。屈強の島津さまにおいて、何をためらうことがありましょ
うや。わが石田軍勢の果敢な突撃により、東軍の足並みは乱れておりまする。今こそ好機、島津隊が
立ち上がって柵内より連射し、猛攻を開始すれば・・・」
八十島の長広舌がとぎれた。
「不埒者、死ねや!」
物頭の原蔵人が抜刀して、三成の使番に斬りつけようとした。
一本気の原は、八十島の不遜な口上を聞いて激昂したらしい。
八十島はひるみ、蒼ざめて顔で言った。
「何をなさる、狂われたか。われは西軍総参謀・石田三成さまの軍使なるぞ」
「その方こそ物狂いじゃ。軍礼を忘れて馬上から助成を督促するとは。長居すれば、この豊久が斬り
捨てる」
「許されよ。心得ちがいでござった」
高揚した心が瞬時に凍りついた。あわてて馬首をまわし、ガチガチと奥歯を鳴らしながら駆け去った。
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高揚しきった八十島は自身の非礼に気づかない。
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島津軍陣所跡

「にわかに霧も晴れ、合戦の法螺貝は鳴りもうした。また再三再四、西軍総攻撃の狼煙も上げまして
ござる。聞こえませぬか。見えませぬか。屈強の島津さまにおいて、何をためらうことがありましょ
うや。わが石田軍勢の果敢な突撃により、東軍の足並みは乱れておりまする。今こそ好機、島津隊が
立ち上がって柵内より連射し、猛攻を開始すれば・・・」
八十島の長広舌がとぎれた。
「不埒者、死ねや!」
物頭の原蔵人が抜刀して、三成の使番に斬りつけようとした。
一本気の原は、八十島の不遜な口上を聞いて激昂したらしい。
八十島はひるみ、蒼ざめて顔で言った。
「何をなさる、狂われたか。われは西軍総参謀・石田三成さまの軍使なるぞ」
「その方こそ物狂いじゃ。軍礼を忘れて馬上から助成を督促するとは。長居すれば、この豊久が斬り
捨てる」
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高揚した心が瞬時に凍りついた。あわてて馬首をまわし、ガチガチと奥歯を鳴らしながら駆け去った。
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