島津義弘の関ヶ原 その205
『裏切りのゆくえ その13』
東軍苦戦のなか、これを傍観して見過ごせば、かわいい我が子も容赦なく首をはねられるだろう。
見殺しにはできぬ・・・。
松尾山縄張り

山裾から、家康の催促の銃音がひびいた。
山頂の本営で放心している若い主君に直言した。
「殿、早う出陣のお支度を、今動かねば禍根を残しまする」
「まて、正成。まだ思案が定まらぬ・・・」
秀秋はうなだれ、うつけた声調で言った。
老臣の顔がこわばる。
「何を迷われる。内府さまがお怒りあそばして、山麓より銃撃されております。捨ておけば、徳川3
万の本陣が攻めあがって来ましょうぞ」
「それはできぬだろう。見よ、正成。東軍は押されて持ち場を離れられぬゆえ」
「なにを今さら」
「決めかねる。勝敗が決定づけられてから、山を下りてもよかろうものを」
19歳の主君は、小狡そうな笑みを浮かべて意見を述べた。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
東軍苦戦のなか、これを傍観して見過ごせば、かわいい我が子も容赦なく首をはねられるだろう。
見殺しにはできぬ・・・。
松尾山縄張り

山裾から、家康の催促の銃音がひびいた。
山頂の本営で放心している若い主君に直言した。
「殿、早う出陣のお支度を、今動かねば禍根を残しまする」
「まて、正成。まだ思案が定まらぬ・・・」
秀秋はうなだれ、うつけた声調で言った。
老臣の顔がこわばる。
「何を迷われる。内府さまがお怒りあそばして、山麓より銃撃されております。捨ておけば、徳川3
万の本陣が攻めあがって来ましょうぞ」
「それはできぬだろう。見よ、正成。東軍は押されて持ち場を離れられぬゆえ」
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島津義弘の関ヶ原 その204
『裏切りのゆくえ その12』
稲葉正成は、美濃の豪将・稲葉重通の娘婿であった。
それまで浪人として諸国を放浪し、辛苦をなめてきたので気配りがきく。とくに幼児をやさしく教え
導くことに長けていた。
稲葉成正(1571-1628年)

そこを北政所に見込まれ、年若の秀秋の養育係となった。
夫婦は、長く添えば互いに似てくるものらしい。
時を経て、稲葉正成の妻は家康に請われ、三代将軍・徳川家光の乳母に推挙され、そして大奥を仕切
る『春日の局』として、後世にその名を残すことになります。
主君の小早川秀秋と違って、正成には固い信念があった。
『これは裏切りではない。戦術の一環にすぎぬ』
初めから、稲葉正成の心は東軍にあったのです。
稲葉の本家が東軍についた以上、分家はこれに従う。
しかも正成は分家の入り婿だったのです。
小早川家よりも、稲葉家に借りがあった。もし、小早川勢が裏切りの刻を失して西軍が勝利すれば、
本家の稲葉貞通は腹を切らされる。
それだけでは済まない。
正成は別心のない証として、わが子を人質として家康のもとへ送っていたのです。
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それまで浪人として諸国を放浪し、辛苦をなめてきたので気配りがきく。とくに幼児をやさしく教え
導くことに長けていた。
稲葉成正(1571-1628年)

そこを北政所に見込まれ、年若の秀秋の養育係となった。
夫婦は、長く添えば互いに似てくるものらしい。
時を経て、稲葉正成の妻は家康に請われ、三代将軍・徳川家光の乳母に推挙され、そして大奥を仕切
る『春日の局』として、後世にその名を残すことになります。
主君の小早川秀秋と違って、正成には固い信念があった。
『これは裏切りではない。戦術の一環にすぎぬ』
初めから、稲葉正成の心は東軍にあったのです。
稲葉の本家が東軍についた以上、分家はこれに従う。
しかも正成は分家の入り婿だったのです。
小早川家よりも、稲葉家に借りがあった。もし、小早川勢が裏切りの刻を失して西軍が勝利すれば、
本家の稲葉貞通は腹を切らされる。
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島津義弘の関ヶ原 その203
『裏切りのゆくえ その11』
松尾山の小早川秀秋は、困惑を両眉根にこもらせていた。
切迫した状況のなかで前も後ろも見えない。はらわたが痺れるような焦りだけがあった。
小早川秀秋(1582-1602年)

『身が裂ける』
極度の緊張で息もつけず、秀秋はぜいぜいとあえいだ。
前夜、秀秋は西軍謀将の三成に二心がないことを誓った。すぐその後、東軍総師の家康にも裏切りを
約する書面を送っている。
見苦しい二股膏薬であった。
しかし、それは年若い小早川秀秋だけの不義ではなかったのです。
他の西軍大名たちも、それぞれが自領を守るため術策を練り、東軍に内応していた。
小早川家の老臣・稲葉正成は、合戦前から三成を憎みぬき、家康に通じていた。ひそかに東軍に与し
て寝返りのチャンスを待っていた。
『秀吉公に讒言し、幼い秀秋さまを大減封に追い込んだ石田三成めに思いしらせる』
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松尾山の小早川秀秋は、困惑を両眉根にこもらせていた。
切迫した状況のなかで前も後ろも見えない。はらわたが痺れるような焦りだけがあった。
小早川秀秋(1582-1602年)

『身が裂ける』
極度の緊張で息もつけず、秀秋はぜいぜいとあえいだ。
前夜、秀秋は西軍謀将の三成に二心がないことを誓った。すぐその後、東軍総師の家康にも裏切りを
約する書面を送っている。
見苦しい二股膏薬であった。
しかし、それは年若い小早川秀秋だけの不義ではなかったのです。
他の西軍大名たちも、それぞれが自領を守るため術策を練り、東軍に内応していた。
小早川家の老臣・稲葉正成は、合戦前から三成を憎みぬき、家康に通じていた。ひそかに東軍に与し
て寝返りのチャンスを待っていた。
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島津義弘の関ヶ原 その202
『裏切りのゆくえ その10』
池縁で『家康調伏』を念ずる乱丸が、ふっと憑かれたように言った。
「邪鬼がめざめもした」
霊力をもつ美童の言葉をうけて、義弘はじろりと右辺の山並みを見やった。
関ケ原・松尾山

「松尾山にこもりし鬼か・・・」
「はい、謀心にもだえている様が目に映じまする」
「金吾め、裏切りおるな」
それまで静かだった松尾山の周辺がにわかに騒がしい。
麓から、徳川の鉄砲衆が間断なく山頂の小早川本営へと撃ち放っている。
『催促の銃弾に違いない』
義弘は、小早川秀秋という人物をよく知らない。
まだ、20歳にも満たぬ大名の気持ちなど、わかりようもなかった。
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「邪鬼がめざめもした」
霊力をもつ美童の言葉をうけて、義弘はじろりと右辺の山並みを見やった。
関ケ原・松尾山

「松尾山にこもりし鬼か・・・」
「はい、謀心にもだえている様が目に映じまする」
「金吾め、裏切りおるな」
それまで静かだった松尾山の周辺がにわかに騒がしい。
麓から、徳川の鉄砲衆が間断なく山頂の小早川本営へと撃ち放っている。
『催促の銃弾に違いない』
義弘は、小早川秀秋という人物をよく知らない。
まだ、20歳にも満たぬ大名の気持ちなど、わかりようもなかった。
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島津義弘の関ヶ原 その201
『裏切りのゆくえ その9』
決戦の日は迫った。
三成に催促され、しかたなく関ケ原に兵を進めた。
小早川秀秋の陣・松尾山

秀秋が松尾山に布陣したのは、運命のいたずらであった。
それまで小早川秀秋の兵団は、東西両軍のどちらからも信頼されていなかった。
盤上の捨て駒に過ぎなかったのです。
しかし、東軍総師の家康が松尾山山麓に本営を置いたことにより、がぜん秀秋の動きが注視されだした。
前夜には、西軍謀将の三成と会談し、狼煙を合図に家康の横腹を突くことを承諾した。
そして刻をおかず、家康と密書を交わして裏切りを確約していた。
「どうする、金吾・・・」
義弘だけでなく、関ケ原に集結した将兵のすべてが、秀秋の心情を思い馳せた。
その小早川秀秋は、まだ20歳にもなっていなかった。
古今未曽有の大決戦は、凡庸な19歳の少年に決断によって、左右されることになったのです。
突然、松尾山の麓で徳川勢の鉄砲が轟きわたった。
催促の銃声が山頂まで噴き上げてきた。
「裏切りの広野か・・・」
19歳の秀秋は、うつろな声で言った。
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決戦の日は迫った。
三成に催促され、しかたなく関ケ原に兵を進めた。
小早川秀秋の陣・松尾山

秀秋が松尾山に布陣したのは、運命のいたずらであった。
それまで小早川秀秋の兵団は、東西両軍のどちらからも信頼されていなかった。
盤上の捨て駒に過ぎなかったのです。
しかし、東軍総師の家康が松尾山山麓に本営を置いたことにより、がぜん秀秋の動きが注視されだした。
前夜には、西軍謀将の三成と会談し、狼煙を合図に家康の横腹を突くことを承諾した。
そして刻をおかず、家康と密書を交わして裏切りを確約していた。
「どうする、金吾・・・」
義弘だけでなく、関ケ原に集結した将兵のすべてが、秀秋の心情を思い馳せた。
その小早川秀秋は、まだ20歳にもなっていなかった。
古今未曽有の大決戦は、凡庸な19歳の少年に決断によって、左右されることになったのです。
突然、松尾山の麓で徳川勢の鉄砲が轟きわたった。
催促の銃声が山頂まで噴き上げてきた。
「裏切りの広野か・・・」
19歳の秀秋は、うつろな声で言った。
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島津義弘の関ヶ原 その200
『裏切りのゆくえ その8』
心ならずも西軍に与したのは、秀秋の優柔不断の性格によるものであったという。
三成が『家康誅滅』の兵を挙げたとき、上洛した秀秋はすぐ北政所に相談を持ち掛けたという。
北政所(ねね)(1542?ー1624年)

これまで秀秋は、自分の手で運命を切り開いたことは一度もなかった。
北政所の言葉は意外なものだった。
「今の豊臣家は淀殿が生んだ秀頼公の血脈。われらと無縁の流れでありましょう。迷うことはない、家
康どのに従いなされ」
「はい」
その夜、秀秋は得心して帰路についた。
が、早くも翌日には迷いが生じた。上方にいると西国から続々と兵が集結し、西軍のほうが断然有利に映
るのです。
三成の使者として大谷吉継が訪れ、らいを病んだ顔を近づけて強談判された。
「今こそ豊臣家の恩義に報いるとき、中納言どの、誓って二心はあるまいな」
「はい」
ここでも、秀秋は得心してうなずいた。
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心ならずも西軍に与したのは、秀秋の優柔不断の性格によるものであったという。
三成が『家康誅滅』の兵を挙げたとき、上洛した秀秋はすぐ北政所に相談を持ち掛けたという。
北政所(ねね)(1542?ー1624年)

これまで秀秋は、自分の手で運命を切り開いたことは一度もなかった。
北政所の言葉は意外なものだった。
「今の豊臣家は淀殿が生んだ秀頼公の血脈。われらと無縁の流れでありましょう。迷うことはない、家
康どのに従いなされ」
「はい」
その夜、秀秋は得心して帰路についた。
が、早くも翌日には迷いが生じた。上方にいると西国から続々と兵が集結し、西軍のほうが断然有利に映
るのです。
三成の使者として大谷吉継が訪れ、らいを病んだ顔を近づけて強談判された。
「今こそ豊臣家の恩義に報いるとき、中納言どの、誓って二心はあるまいな」
「はい」
ここでも、秀秋は得心してうなずいた。
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島津義弘の関ヶ原 その199
『裏切りのゆくえ その7』
慶長3年(1598年)8月、秀吉が衰弱死した。
秀秋は涙も出なかったという。
豊臣秀吉(1537-1598年)

五大老筆頭の徳川家康は懐柔策として、秀秋を旧領地へ復帰させた。
しかも2万1千石加増され、35万7千石を領する大身となった。
「脳乱した太閤殿下に恩義などない。家康公こそ慈悲の人ぞ」
秀秋は目先のことだけを考えていた。
履歴だけ見れば、小早川秀秋が西軍の石田三成に味方する理由はどこにもなかった。
太閤秀吉を憎み、側近の三成を毛嫌いしている。
その反動として、いつも甘やかせてくれる大人の家康を実父のように慕っていた。
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慶長3年(1598年)8月、秀吉が衰弱死した。
秀秋は涙も出なかったという。
豊臣秀吉(1537-1598年)

五大老筆頭の徳川家康は懐柔策として、秀秋を旧領地へ復帰させた。
しかも2万1千石加増され、35万7千石を領する大身となった。
「脳乱した太閤殿下に恩義などない。家康公こそ慈悲の人ぞ」
秀秋は目先のことだけを考えていた。
履歴だけ見れば、小早川秀秋が西軍の石田三成に味方する理由はどこにもなかった。
太閤秀吉を憎み、側近の三成を毛嫌いしている。
その反動として、いつも甘やかせてくれる大人の家康を実父のように慕っていた。
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