島津義弘の関ヶ原 その231
『関ケ原の敵中大突破 その20』
4月末、塩漬けの虎肉と肝を食した秀吉は、ねぎらいの書状を義弘あてに記した。
『虎の儀、仰せ遣わされ候処、即に肉腸いろいろ取り揃え入念に到来す。別して悦び思し召し候、こ
の上はもはや入らず候。以下虎狩一切無用に候』
大阪城の秀吉像

虎肉は、非常にまずかったらしいのです。
それよりも肉質が固く、歯欠け老人の秀吉は、不死の妙薬をわずか2、3片だけ噛みしめるにとどま
ったという。
稀なる武功として書面で、島津義弘を称賛したが、それ以後、秀吉は虎狩を命じることはなかった。
帰国を許された義弘は、文禄4年(1595年)5月に唐島を発った。
領国にもどる前に上方に向かい、秀吉がいる伏見城に拝参した。
少し逢わぬ間に、天下人秀吉は無惨なほど老け込んでいた。
いかにも貧相な笑いを浮かべて義弘を出迎えた。
「島津義弘こそ日の本一の古武士ぞ」
朝鮮での島津軍の奮闘を讃え、秀吉は愛用の茶入れと、織田信長の遺品の兜を義弘に下げ渡した。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
4月末、塩漬けの虎肉と肝を食した秀吉は、ねぎらいの書状を義弘あてに記した。
『虎の儀、仰せ遣わされ候処、即に肉腸いろいろ取り揃え入念に到来す。別して悦び思し召し候、こ
の上はもはや入らず候。以下虎狩一切無用に候』
大阪城の秀吉像

虎肉は、非常にまずかったらしいのです。
それよりも肉質が固く、歯欠け老人の秀吉は、不死の妙薬をわずか2、3片だけ噛みしめるにとどま
ったという。
稀なる武功として書面で、島津義弘を称賛したが、それ以後、秀吉は虎狩を命じることはなかった。
帰国を許された義弘は、文禄4年(1595年)5月に唐島を発った。
領国にもどる前に上方に向かい、秀吉がいる伏見城に拝参した。
少し逢わぬ間に、天下人秀吉は無惨なほど老け込んでいた。
いかにも貧相な笑いを浮かべて義弘を出迎えた。
「島津義弘こそ日の本一の古武士ぞ」
朝鮮での島津軍の奮闘を讃え、秀吉は愛用の茶入れと、織田信長の遺品の兜を義弘に下げ渡した。
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島津義弘の関ヶ原 その230
『関ケ原の敵中大突破 その19』
どれほど荒唐無稽な話でも、暴君の指令は達成しなければならない。
義弘は、虎狩隊を組織して唐島から昌原の荒野へと足を踏み入れた。
島津義弘(戦国無双)

昌原は巨済島の僻地にあり、人家もまばらな朝鮮虎の棲息地であった。
大型獣なのに魔風のように俊敏である。
「追っても無駄じゃ。気ままな猫と同じく、近寄れば逃げるし、黙っていれば近づいてくる。おびき
寄せることにしもそう」
義弘は灌木に生き餌の小牛をつなぎ、虎の出現を待った。
2日目の夕刻、腹をすかせた雄虎が木陰から猛然と小牛に踊りかかった。
「まさに大敵!」
待機していた安田治郎兵衛は、太刀を腰だめにして雄虎に体当たりした。
恐れを知らぬ薩摩隼人の突き技であった。
剣先は、牙をむいた虎の口中へのまれて太い首骨を刺し砕いた。
『突きの治郎兵衛』と畏怖(いふ)された勇士の、必殺の一撃だった。
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どれほど荒唐無稽な話でも、暴君の指令は達成しなければならない。
義弘は、虎狩隊を組織して唐島から昌原の荒野へと足を踏み入れた。
島津義弘(戦国無双)

昌原は巨済島の僻地にあり、人家もまばらな朝鮮虎の棲息地であった。
大型獣なのに魔風のように俊敏である。
「追っても無駄じゃ。気ままな猫と同じく、近寄れば逃げるし、黙っていれば近づいてくる。おびき
寄せることにしもそう」
義弘は灌木に生き餌の小牛をつなぎ、虎の出現を待った。
2日目の夕刻、腹をすかせた雄虎が木陰から猛然と小牛に踊りかかった。
「まさに大敵!」
待機していた安田治郎兵衛は、太刀を腰だめにして雄虎に体当たりした。
恐れを知らぬ薩摩隼人の突き技であった。
剣先は、牙をむいた虎の口中へのまれて太い首骨を刺し砕いた。
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島津義弘の関ヶ原 その229
『関ケ原の敵中大突破 その18』
一番先に虎をしとめたのは義弘の配下であった。
文禄4年(1595年)1月。当時、唐島にいた義弘は秀吉からの奇抜な奉書を受け取った。
朝鮮虎(アムールトラ)

小児のたわごとめいた文面であった。
「はて、大虎を丸ごと一頭所望とは・・・」
まるで珍奇な虎の肝を得るために朝鮮へ出兵したかのようだ。
絶対権力者にとって『不死』は見果てぬ夢であるらしい。
そのために、海を渡った日本兵は朝鮮各地で殺戮を繰り返し、義弘も大事な後継ぎの久保を失った。
島津義弘もすでに老境の59歳。
子に先立たれたのは、無益な殺生を行った報いだと感じている。
義弘は嘆き、薩摩独自の流儀として、敵味方の戦死者を慰撫する供養塔を同地に建立した。
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一番先に虎をしとめたのは義弘の配下であった。
文禄4年(1595年)1月。当時、唐島にいた義弘は秀吉からの奇抜な奉書を受け取った。
朝鮮虎(アムールトラ)

小児のたわごとめいた文面であった。
「はて、大虎を丸ごと一頭所望とは・・・」
まるで珍奇な虎の肝を得るために朝鮮へ出兵したかのようだ。
絶対権力者にとって『不死』は見果てぬ夢であるらしい。
そのために、海を渡った日本兵は朝鮮各地で殺戮を繰り返し、義弘も大事な後継ぎの久保を失った。
島津義弘もすでに老境の59歳。
子に先立たれたのは、無益な殺生を行った報いだと感じている。
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島津義弘の関ヶ原 その228
『関ケ原の敵中大突破 その17』
慢心した秀吉には、朝鮮出兵は気晴らしの物見遊山めいたところがあった。
展望もなく小事にばかりこだわった。
豊臣秀吉

『虎狩り』もそのひとつです。
漢方医が妙なことを天下人に吹き込んだ。
「虎肉こそ百薬の長。さらにその肝を食らえば永遠の御命も・・・」
老いにむしばまれた秀吉は、さっそく朝鮮に在陣する大名たちに虎狩を命じた。
それもまた戦功であり、諸将たちは競って虎退治にのりだした。
「これは快事じゃ」
加藤清正などは、明・朝鮮連合との決戦を放り出し、深く山中に分け入って虎退治に熱中した。
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慢心した秀吉には、朝鮮出兵は気晴らしの物見遊山めいたところがあった。
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豊臣秀吉

『虎狩り』もそのひとつです。
漢方医が妙なことを天下人に吹き込んだ。
「虎肉こそ百薬の長。さらにその肝を食らえば永遠の御命も・・・」
老いにむしばまれた秀吉は、さっそく朝鮮に在陣する大名たちに虎狩を命じた。
それもまた戦功であり、諸将たちは競って虎退治にのりだした。
「これは快事じゃ」
加藤清正などは、明・朝鮮連合との決戦を放り出し、深く山中に分け入って虎退治に熱中した。
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島津義弘の関ヶ原 その227
『関ケ原の敵中大突破 その16』
連勝・連勝の報を受け、名護屋に陣取る秀吉はさらに高揚していた。
名護屋城模型(名護屋城博物館)

「朝鮮、明の制圧がすめば、天竺へも攻め入るべし」
豪語しただけではなく、天皇行幸の下準備まで整えた。
明の首都・北京に後陽成天皇を招き、10ヵ国を進呈するというのである。
「進めや、進め」
渡朝した諸大名も、先制権力者の秀吉の下知にしたがって、朝鮮全土を支配すべく安易に兵を散らば
らせた。
義弘ひきいる島津隊は、最奥地の金化へと向かった。
敵の真っただ中であった。
各所で朝鮮兵と小競り合いがあったが、たやすく撃退した。
しかし、それは長い抵抗戦の始まりにすぎなかった。
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いつもありがとうございます。
ま~だぁ~

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連勝・連勝の報を受け、名護屋に陣取る秀吉はさらに高揚していた。
名護屋城模型(名護屋城博物館)

「朝鮮、明の制圧がすめば、天竺へも攻め入るべし」
豪語しただけではなく、天皇行幸の下準備まで整えた。
明の首都・北京に後陽成天皇を招き、10ヵ国を進呈するというのである。
「進めや、進め」
渡朝した諸大名も、先制権力者の秀吉の下知にしたがって、朝鮮全土を支配すべく安易に兵を散らば
らせた。
義弘ひきいる島津隊は、最奥地の金化へと向かった。
敵の真っただ中であった。
各所で朝鮮兵と小競り合いがあったが、たやすく撃退した。
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島津義弘の関ヶ原 その226
『関ケ原の敵中大突破 その15』
政商上がりの小西行長は、いつも計算が先に立った。
老将に不満があると見てとったらしく、なだめるように膝を進め、もみ手をしながら言い述べた。
朝鮮8道

「これはさて、朝鮮8道の区切りに不服もありましょう。島津におかれては、江原道の知行では瘦地ゆえに
御意を得ませぬか」
「さにあらず。われらは薩摩隼人なれば、遠い他国に生きても面白うなか。江原道は若い毛利吉成どのにお
任せします。これにて8道の国割は成りもそ」
義弘は席を立った。
老将の意外な提言によって、漢城会議はすんなりと集結した。
1番隊・小西行長 (平安道)
2番隊・加藤清正 (咸鏡道)
3番隊・黒田長政 (黄海道)
4番隊・島津義弘 (なし)
5番隊・福島正則 (忠清道)
6番隊・小早川隆景 (全羅道)
7番隊・毛利輝元 (慶尚道)
8番隊・宇喜多秀家(京畿道)
別動隊・毛利吉成 (江原道)
諸大名は互いに誓書を交わし合った。
莫大な外征費を使いながら、島津はひとにぎりの土地も求めなかったのです。
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老将に不満があると見てとったらしく、なだめるように膝を進め、もみ手をしながら言い述べた。
朝鮮8道

「これはさて、朝鮮8道の区切りに不服もありましょう。島津におかれては、江原道の知行では瘦地ゆえに
御意を得ませぬか」
「さにあらず。われらは薩摩隼人なれば、遠い他国に生きても面白うなか。江原道は若い毛利吉成どのにお
任せします。これにて8道の国割は成りもそ」
義弘は席を立った。
老将の意外な提言によって、漢城会議はすんなりと集結した。
1番隊・小西行長 (平安道)
2番隊・加藤清正 (咸鏡道)
3番隊・黒田長政 (黄海道)
4番隊・島津義弘 (なし)
5番隊・福島正則 (忠清道)
6番隊・小早川隆景 (全羅道)
7番隊・毛利輝元 (慶尚道)
8番隊・宇喜多秀家(京畿道)
別動隊・毛利吉成 (江原道)
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莫大な外征費を使いながら、島津はひとにぎりの土地も求めなかったのです。
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島津義弘の関ヶ原 その225
『関ケ原の敵中大突破 その14』
加藤清正らは緒戦快勝の論功を言い立て、激論が深夜まで続いた。
しかし、最長老の島津義弘は一声も発しない。
島津義弘(1535-1619年)

一番隊の小西行長が不審に思い、老将の意見を求めた。
「義弘どの、島津勢の攻略せし地はいかがなされる」
「無用でごわす」
「はて、無用とは」
「薩摩、大隅、日向の三州を肥やせと秀吉公に言われもした」
「それは故国での話。今われらが談合せしは朝鮮国の分割でござる。屈強の島津されば切り取りも思い
のまま。遠慮なく、存分に申されよ」
「尺土もいりもはん」
義弘はきっぱりと言った。
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加藤清正らは緒戦快勝の論功を言い立て、激論が深夜まで続いた。
しかし、最長老の島津義弘は一声も発しない。
島津義弘(1535-1619年)

一番隊の小西行長が不審に思い、老将の意見を求めた。
「義弘どの、島津勢の攻略せし地はいかがなされる」
「無用でごわす」
「はて、無用とは」
「薩摩、大隅、日向の三州を肥やせと秀吉公に言われもした」
「それは故国での話。今われらが談合せしは朝鮮国の分割でござる。屈強の島津されば切り取りも思い
のまま。遠慮なく、存分に申されよ」
「尺土もいりもはん」
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