島津義弘の関ヶ原 その287
『武士の意気地を見るべし その33』
心こそ戦する身の命なれ
そろゆけば生きそろわねば死す
義弘は駕籠にゆられながら、祖父・日新斎(島津忠良)の『いろは歌』を呟いた。
島津忠良(1492-1568年)

将兵の心はひとつに揃っている。
たとえ島津軍団が全滅しても、大薩摩の長(おさ)を生かして故国へ還(かえ)す気だった。
副将の島津豊久は、義弘には何も告げずその場に居残った。
「おさらば・・・」
サッと片手をおがみして、伯父の載った山駕籠を見送った。
追撃は急である。
このままでは逃げ切れない。敵をかく乱して時をかせぐ必要があった。
豊久の傍にはわずかばかりの臣下が付き従っている。
豊久は先鋒をうけもち、300の手勢はことごとく討ち死にした。からくも生き残った18人も、死
の同行者になろうとしていた。
豊久が主君の伯父を守りぬこうとするように、彼らもまた豊久の身を最後まで防ぎきる覚悟であった。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
心こそ戦する身の命なれ
そろゆけば生きそろわねば死す
義弘は駕籠にゆられながら、祖父・日新斎(島津忠良)の『いろは歌』を呟いた。
島津忠良(1492-1568年)

将兵の心はひとつに揃っている。
たとえ島津軍団が全滅しても、大薩摩の長(おさ)を生かして故国へ還(かえ)す気だった。
副将の島津豊久は、義弘には何も告げずその場に居残った。
「おさらば・・・」
サッと片手をおがみして、伯父の載った山駕籠を見送った。
追撃は急である。
このままでは逃げ切れない。敵をかく乱して時をかせぐ必要があった。
豊久の傍にはわずかばかりの臣下が付き従っている。
豊久は先鋒をうけもち、300の手勢はことごとく討ち死にした。からくも生き残った18人も、死
の同行者になろうとしていた。
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島津義弘の関ヶ原 その286
『武士の意気地を見るべし その32』
無足衆の藤井兄弟は、合戦前後の偵察行で手柄を立て、すでに義弘から知行地を与えられていた。
だが、兄弟そろって国の地を踏むことはできなかった。
牧田川

吾介は牧田川の畔で力つきた。銃創を受けても痛みを堪え、体中の血がすべて流れ出るまで走り抜
いた。
「俺(おい)が代わって前棒を持とう」
中島大蔵が、ひょいと山駕籠を担いだ。
巨漢の大蔵は200石どりの上士である。
他の担ぎ手の3人は無足衆であった。しかし、危急のさいは身分は問われない。
本多忠勝の追撃軍が、すぐ背後に迫っている。
そして、牧田川の対岸には井伊の騎馬隊が蹄(ひずめ)がひびいていた。
義弘は短く言った。
「走れ!」
山駕籠が上がった。
こんどは陣形を『逆矢』に組み替え、隊の後尾を矢先にして牧田川の土手を突っ走った。
山駕籠は速さを増した。
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無足衆の藤井兄弟は、合戦前後の偵察行で手柄を立て、すでに義弘から知行地を与えられていた。
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牧田川

吾介は牧田川の畔で力つきた。銃創を受けても痛みを堪え、体中の血がすべて流れ出るまで走り抜
いた。
「俺(おい)が代わって前棒を持とう」
中島大蔵が、ひょいと山駕籠を担いだ。
巨漢の大蔵は200石どりの上士である。
他の担ぎ手の3人は無足衆であった。しかし、危急のさいは身分は問われない。
本多忠勝の追撃軍が、すぐ背後に迫っている。
そして、牧田川の対岸には井伊の騎馬隊が蹄(ひずめ)がひびいていた。
義弘は短く言った。
「走れ!」
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島津義弘の関ヶ原 その285
『武士の意気地を見るべし その31』
本多忠勝は、すばやく3千の兵を束ねて島津隊を追いはじめた。
まけじと井伊直政も騎馬隊8百で猛追した。
井伊直政(1561-1602年)

追われる身はつらい。
家康の本陣めがけて突き進んでいるときは、ひたすら前だけを見ていたが、大軍の人壁を突き抜ける
と背後が気になる。
闘志が空回りして恐怖心にとらわれる。
牧田川の土手道で山駕籠がぐらついた。
担ぎ手が傷ついているらしい。
「止めよ」
義弘はいったん駕籠から下りた。
前棒を支えていた藤井吾介が、脇腹と左脚を撃ち抜かれてあえいでいる。
「申しわけごわはん。俺(おい)はもう担げんけえ、誰ぞ代わってもんせ」
「吾介、よくぞ耐えて走った」
「大殿、早く行きやんせ。韋駄天(いだてん)も脚を撃たれたら駄馬に劣りもす。久介、国元に帰った
ら約束の知行ばもろて、母者(ははじゃ)に白飯を腹いっぱい食わせろや」
それが最後の言葉となった。
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本多忠勝は、すばやく3千の兵を束ねて島津隊を追いはじめた。
まけじと井伊直政も騎馬隊8百で猛追した。
井伊直政(1561-1602年)

追われる身はつらい。
家康の本陣めがけて突き進んでいるときは、ひたすら前だけを見ていたが、大軍の人壁を突き抜ける
と背後が気になる。
闘志が空回りして恐怖心にとらわれる。
牧田川の土手道で山駕籠がぐらついた。
担ぎ手が傷ついているらしい。
「止めよ」
義弘はいったん駕籠から下りた。
前棒を支えていた藤井吾介が、脇腹と左脚を撃ち抜かれてあえいでいる。
「申しわけごわはん。俺(おい)はもう担げんけえ、誰ぞ代わってもんせ」
「吾介、よくぞ耐えて走った」
「大殿、早く行きやんせ。韋駄天(いだてん)も脚を撃たれたら駄馬に劣りもす。久介、国元に帰った
ら約束の知行ばもろて、母者(ははじゃ)に白飯を腹いっぱい食わせろや」
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島津義弘の関ヶ原 その284
『武士の意気地を見るべし その30』
徳川本軍3万は強い鋼(はがね)であった。
寡兵の島津隊は芽抜くことができず、烏頭坂から北西へと進路を変え、牧田村の畔道へと流れ下って
いった。
本多忠勝(1548-1610年)

「それた!」
義弘は、思わず嘆息した。
家康の本陣にあと1丁(109m)にまで迫りながら、はじき返された。
「かすった!」
一声放ち、家康は大口をあけて笑った。
陣内でひとしきり笑ったあと、駆け参じた本多忠勝と井伊直政に追撃を命じた。
東軍総師の本営をかすめて行き過ぎた島津隊を、むざむざ見逃すわけにはいかない。
「追え! ひとりも薩摩に帰すな」
「では、急ぎて」
2人の将は競い合うことになった。
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いった。
本多忠勝(1548-1610年)

「それた!」
義弘は、思わず嘆息した。
家康の本陣にあと1丁(109m)にまで迫りながら、はじき返された。
「かすった!」
一声放ち、家康は大口をあけて笑った。
陣内でひとしきり笑ったあと、駆け参じた本多忠勝と井伊直政に追撃を命じた。
東軍総師の本営をかすめて行き過ぎた島津隊を、むざむざ見逃すわけにはいかない。
「追え! ひとりも薩摩に帰すな」
「では、急ぎて」
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島津義弘の関ヶ原 その283
『武士の意気地を見るべし その29』
尖った薩摩の野生がむきだしとなった。
「槍衾(やりふすま)を作り、薩人を前へ行かすな!」
徳川本隊も必死で防いだ。
島津隊

壮烈な接近戦となった。
斜面で人馬がこすれ合い、太刀をふるえば敵味方なく人肉が切り裂かれた。
密集地で射撃すれば、一弾で数人が死傷した。
「一歩も本陣へ踏み込ませるな!」
さすがに徳川本隊は強力である。
刀を放り出し、体当たりして島津兵に組み付いてくる。蹴っても刺しても足首をつかんではなさない。
互いに主君を守ろうとしていた。
泥まみれになって島津兵は前へ進み、徳川の最精鋭部隊はそれを阻んだ。
義弘の山駕籠は速歩をゆるめず、渦巻く群衆のなかを突き切っていく。
騎馬隊がしっかりと駕籠の横腹を守っていた。
「次郎坊、大殿の楯となれ」
「兄者、2発くらった」
「ならば、あの世にて・・・」
「父上に相まみえん」
義弘の左右を警護していた樺山太郎坊と次郎坊も、数発の銃弾を浴びて乱戦の中に没していった。
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尖った薩摩の野生がむきだしとなった。
「槍衾(やりふすま)を作り、薩人を前へ行かすな!」
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島津隊

壮烈な接近戦となった。
斜面で人馬がこすれ合い、太刀をふるえば敵味方なく人肉が切り裂かれた。
密集地で射撃すれば、一弾で数人が死傷した。
「一歩も本陣へ踏み込ませるな!」
さすがに徳川本隊は強力である。
刀を放り出し、体当たりして島津兵に組み付いてくる。蹴っても刺しても足首をつかんではなさない。
互いに主君を守ろうとしていた。
泥まみれになって島津兵は前へ進み、徳川の最精鋭部隊はそれを阻んだ。
義弘の山駕籠は速歩をゆるめず、渦巻く群衆のなかを突き切っていく。
騎馬隊がしっかりと駕籠の横腹を守っていた。
「次郎坊、大殿の楯となれ」
「兄者、2発くらった」
「ならば、あの世にて・・・」
「父上に相まみえん」
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島津義弘の関ヶ原 その282
『武士の意気地を見るべし その28』
「チェストーッ、チェストーッ!」
薩人は天をつくばかりの雄叫びをあげた。
かまわず人群れに突入した。
家康本陣と島津隊

視界の中に膨大な軍勢が波打っていた。四方はすべて敵兵であった。
先鋒はとくに損傷が烈しくすり切れ、50人足らずとなっていた。
義弘の本隊と合わせても、島津軍団の総数は300人に満たない。
大薩摩の長は、とうに死の真境こえている。
棲愴な笑みを頬に刻んで叱咤した。
「あの金扇を斬り落とせ!」
「任せてもんせ、刳(く)り貫きもす!」
乱れた隊伍を固めなおし、欠けた矢先で3万の人垣へズンッと突き刺さった。
間近に銃弾がとびかい、刃が嚙み合って、島津兵の血肉が裂けた。
それでもねじ込むように前に出る。
300の島津隊は、傍若無人にも3万の堅陣を芽抜こうとした。
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「チェストーッ、チェストーッ!」
薩人は天をつくばかりの雄叫びをあげた。
かまわず人群れに突入した。
家康本陣と島津隊

視界の中に膨大な軍勢が波打っていた。四方はすべて敵兵であった。
先鋒はとくに損傷が烈しくすり切れ、50人足らずとなっていた。
義弘の本隊と合わせても、島津軍団の総数は300人に満たない。
大薩摩の長は、とうに死の真境こえている。
棲愴な笑みを頬に刻んで叱咤した。
「あの金扇を斬り落とせ!」
「任せてもんせ、刳(く)り貫きもす!」
乱れた隊伍を固めなおし、欠けた矢先で3万の人垣へズンッと突き刺さった。
間近に銃弾がとびかい、刃が嚙み合って、島津兵の血肉が裂けた。
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島津義弘の関ヶ原 その281
『武士の意気地を見るべし その27』
さらに島津の先鋒隊は、鋭利な矢先となって邁進した。
ぽっと小さな裂け目があいた。
「ついにくり貫いたぞ!」
豊久は歓喜した。
家康本陣跡

島津の矢は、大軍の壁を芽抜いた。
敵は分断され、家康の本陣にあと2丁(218m)にまで迫った。
戦場では何が起こるかわからない。死に物狂いで突進するうち、ふと見やれば東軍総師の本営が目前
にあった。
義弘は、山駕籠から身を乗り出して丘陵地を見上げた。
思わぬ近間に、徳川家康の馬印の『金扇』が見通せた。
まさに千載一遇の好機であった。
「家康を討ち取る、まっすぐ攻めのぼれ!
島津軍団は馬蹄のひびきを轟かせ、黒いつむじ風となって家康本陣へ殺到した。
たしかに家康の本営は近い。
すぐそこに見える。
だが、その2丁ほどの坂には3万余りの徳川本軍が人垣をつくってひしめき合っている。
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さらに島津の先鋒隊は、鋭利な矢先となって邁進した。
ぽっと小さな裂け目があいた。
「ついにくり貫いたぞ!」
豊久は歓喜した。
家康本陣跡

島津の矢は、大軍の壁を芽抜いた。
敵は分断され、家康の本陣にあと2丁(218m)にまで迫った。
戦場では何が起こるかわからない。死に物狂いで突進するうち、ふと見やれば東軍総師の本営が目前
にあった。
義弘は、山駕籠から身を乗り出して丘陵地を見上げた。
思わぬ近間に、徳川家康の馬印の『金扇』が見通せた。
まさに千載一遇の好機であった。
「家康を討ち取る、まっすぐ攻めのぼれ!
島津軍団は馬蹄のひびきを轟かせ、黒いつむじ風となって家康本陣へ殺到した。
たしかに家康の本営は近い。
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