徳川家光 その12
『斎藤利三』
信長は怒り、光秀の襟元をつかみ
「おれが言うことを聞かぬか。推参なるやつめ!」
と怒鳴って、2、3間も突き飛ばしたばかりか、斬ろうとして脇差を抜きかけまでした。
斎藤利三(1534-1582年)

光秀はすばやく隣り座敷に逃げたので、事無く済んだという。
「面目を失うた」
と言って退出した。
この斎藤利三の争奪にかかわることを、光秀謀反の原因にしている説もあります。
利三は光秀の反乱においても、ずいぶん働いているし、山崎合戦でも奮戦したが、戦い敗れると巧みに
戦場を離脱して、生国の美濃に潜伏するつもりだったのか、あるいは当時は秀吉に対抗する大名らが多
数いたから、それらの元に頼るつもりだったのか、東に向かい大津まで行ったとき、捕らわれています。
明智光秀が最も頼みとした人物として、秀吉の増悪が集まっていたのでハリツケに処せられています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
信長は怒り、光秀の襟元をつかみ
「おれが言うことを聞かぬか。推参なるやつめ!」
と怒鳴って、2、3間も突き飛ばしたばかりか、斬ろうとして脇差を抜きかけまでした。
斎藤利三(1534-1582年)

光秀はすばやく隣り座敷に逃げたので、事無く済んだという。
「面目を失うた」
と言って退出した。
この斎藤利三の争奪にかかわることを、光秀謀反の原因にしている説もあります。
利三は光秀の反乱においても、ずいぶん働いているし、山崎合戦でも奮戦したが、戦い敗れると巧みに
戦場を離脱して、生国の美濃に潜伏するつもりだったのか、あるいは当時は秀吉に対抗する大名らが多
数いたから、それらの元に頼るつもりだったのか、東に向かい大津まで行ったとき、捕らわれています。
明智光秀が最も頼みとした人物として、秀吉の増悪が集まっていたのでハリツケに処せられています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
スポンサーサイト
徳川家光 その11
『春日局の出目』
家光を論じる場合、絶対に逸することができないのは、春日局です。
春日局は美濃の豪族で、戦国末期に一流の勇士として、まだ明智光秀の腹心の重臣として有名であっ
た斎藤利三の娘です。
春日の局(1597-1643年)

名は「お福」。
斎藤利三がどれほどの豪傑であったかは、こんな話が伝わります。
利三は一時、やはり美濃侍で姻戚でもある稲葉一鉄に仕えていたが、光秀がよく武士を遇すると聞
いて、一鉄のもとを去り、光秀に仕えた。
一鉄は光秀の返してくれるように交渉したが、光秀は聞かないので、信長に訴えた。
信長は光秀を呼んで
「斎藤は一鉄が家来の由、返しつかわせ」
と命じたところ、光秀は
「斎藤は得がたき知勇の武士であります。かかる者を拙者が召抱えましたのも、他に理由はありま
せん。ひとえに君のおんためよき働きしてご奉公せんがためであります」
と抗弁した。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
家光を論じる場合、絶対に逸することができないのは、春日局です。
春日局は美濃の豪族で、戦国末期に一流の勇士として、まだ明智光秀の腹心の重臣として有名であっ
た斎藤利三の娘です。
春日の局(1597-1643年)

名は「お福」。
斎藤利三がどれほどの豪傑であったかは、こんな話が伝わります。
利三は一時、やはり美濃侍で姻戚でもある稲葉一鉄に仕えていたが、光秀がよく武士を遇すると聞
いて、一鉄のもとを去り、光秀に仕えた。
一鉄は光秀の返してくれるように交渉したが、光秀は聞かないので、信長に訴えた。
信長は光秀を呼んで
「斎藤は一鉄が家来の由、返しつかわせ」
と命じたところ、光秀は
「斎藤は得がたき知勇の武士であります。かかる者を拙者が召抱えましたのも、他に理由はありま
せん。ひとえに君のおんためよき働きしてご奉公せんがためであります」
と抗弁した。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
徳川家光 その10
『年子の連続』
秀忠は晩年に一度だけ大奥の端下女に手をつけ、妊娠させた。
それを知ると青くなって狼狽し、その女をぜったい秘密と厳命して家来に預けた。
徳川秀忠(1579-1632年)

生まれた子(会津藩祖・正之)が生まれたが、秀忠は認知もせず、対面もしなかったといいます。
お江の怒りが恐くて、できなかったのです。
こんな訳で、お江はせっせと男子3人、女子5人をせっせと産んでいます。
最初は「千姫」で、慶長2年に伏見城で生まれていますから、結婚の翌々年です。
次は「ねね」。慶長4年生まれ、江戸城で誕生し、成長の後、加賀の前田家に嫁いでいます。
次は「勝姫」。慶長5年生まれの年子です。成長の後、越前の宰相忠直に嫁いでいます。
次は「長丸」。慶長6年生まれ、これも年子です。はじめての男の子で、皆よろこんだが翌年病死。
次は「初」。これも年子です。成長の後、京極忠高に嫁ぎます。忠高は高次の子で、いとこ同士の結
婚です。
以上、年子の連続です。
お江が手をゆるめず秀忠を押さえつけていたことが伺えます。
は頻繁に子供を産んでいますので、体質も強健であったのでしょう。
次に生まれたのが、本編の主人公・家光です。
慶長9年7月17日の誕生です。
幼名・竹千代。
次が忠長。慶長11年12月3日生まれ。幼名・国丸。
一説には国千代、また一説には国松。
この国松が最も広く通用しています。
次が和子。また年子です。成長の後、後水尾天皇に入内して中宮となり、東福門院と称されるように
なります。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
秀忠は晩年に一度だけ大奥の端下女に手をつけ、妊娠させた。
それを知ると青くなって狼狽し、その女をぜったい秘密と厳命して家来に預けた。
徳川秀忠(1579-1632年)

生まれた子(会津藩祖・正之)が生まれたが、秀忠は認知もせず、対面もしなかったといいます。
お江の怒りが恐くて、できなかったのです。
こんな訳で、お江はせっせと男子3人、女子5人をせっせと産んでいます。
最初は「千姫」で、慶長2年に伏見城で生まれていますから、結婚の翌々年です。
次は「ねね」。慶長4年生まれ、江戸城で誕生し、成長の後、加賀の前田家に嫁いでいます。
次は「勝姫」。慶長5年生まれの年子です。成長の後、越前の宰相忠直に嫁いでいます。
次は「長丸」。慶長6年生まれ、これも年子です。はじめての男の子で、皆よろこんだが翌年病死。
次は「初」。これも年子です。成長の後、京極忠高に嫁ぎます。忠高は高次の子で、いとこ同士の結
婚です。
以上、年子の連続です。
お江が手をゆるめず秀忠を押さえつけていたことが伺えます。
は頻繁に子供を産んでいますので、体質も強健であったのでしょう。
次に生まれたのが、本編の主人公・家光です。
慶長9年7月17日の誕生です。
幼名・竹千代。
次が忠長。慶長11年12月3日生まれ。幼名・国丸。
一説には国千代、また一説には国松。
この国松が最も広く通用しています。
次が和子。また年子です。成長の後、後水尾天皇に入内して中宮となり、東福門院と称されるように
なります。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
徳川家光 その9
『姉さん女房』
女性には天性母性愛があります。
妹が兄を母性愛ともういうべき愛情をもって世話する例をよく聞きます。
妻が夫に対する世話のしぶりにもそれがあります。
お江~姫たちの戦国~(上野樹里さん)

その夫婦がもし妻の方が年上であれば、それはいっそう強くあらわれといいます。
年下の夫は可愛いものだと、よく言われるものがそれです。
それは往々にして最も強烈な独占欲となってくる。
姉女房に、嫉妬深くて、夫を常に手元に引きつけておかないと安心できないという人がいますが、それは
このためだといいます。
お江は姉女房であった。
おかげで秀忠は、若い時は天下一の大大名の嫡子という身分であり、中年以後は征夷大将軍でありなが
ら、お江ひとりを守り続け、ひとりの側室も置くことはできなかった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
女性には天性母性愛があります。
妹が兄を母性愛ともういうべき愛情をもって世話する例をよく聞きます。
妻が夫に対する世話のしぶりにもそれがあります。
お江~姫たちの戦国~(上野樹里さん)

その夫婦がもし妻の方が年上であれば、それはいっそう強くあらわれといいます。
年下の夫は可愛いものだと、よく言われるものがそれです。
それは往々にして最も強烈な独占欲となってくる。
姉女房に、嫉妬深くて、夫を常に手元に引きつけておかないと安心できないという人がいますが、それは
このためだといいます。
お江は姉女房であった。
おかげで秀忠は、若い時は天下一の大大名の嫡子という身分であり、中年以後は征夷大将軍でありなが
ら、お江ひとりを守り続け、ひとりの側室も置くことはできなかった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
徳川家光 その8
『お江徳川家へ』
秀吉は、お江を今度は九条左大臣道房に3婚させ、2女を生んだ後、また道房と死別したとあります
が、しかし、九条道房はこの時代には、まだ生まれていません。
徳川秀忠(1579-1632年)

羽柴秀勝とお江との間に女子がひとり誕生しているが、この娘を後に九条家に縁づけて、その後、道
房が生まれたともあります。
ともあれ寡婦となったお江を、秀吉は文禄4年9月17日に、家康の跡継ぎ秀忠におしつけています。
おしつけたとはひどい言い方ですが、秀忠はこの時17歳、いっぽうお江は23歳。
しかも再婚ないし3婚した人です。
母のお市や姉の淀殿に似て美しくはあったのでしょうが、欲しがってもらうほどの相手ではなかった
でしょう。
結婚の場所は伏見であったといいますから、伏見の徳川邸に輿入れしたのでしょう。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
秀吉は、お江を今度は九条左大臣道房に3婚させ、2女を生んだ後、また道房と死別したとあります
が、しかし、九条道房はこの時代には、まだ生まれていません。
徳川秀忠(1579-1632年)

羽柴秀勝とお江との間に女子がひとり誕生しているが、この娘を後に九条家に縁づけて、その後、道
房が生まれたともあります。
ともあれ寡婦となったお江を、秀吉は文禄4年9月17日に、家康の跡継ぎ秀忠におしつけています。
おしつけたとはひどい言い方ですが、秀忠はこの時17歳、いっぽうお江は23歳。
しかも再婚ないし3婚した人です。
母のお市や姉の淀殿に似て美しくはあったのでしょうが、欲しがってもらうほどの相手ではなかった
でしょう。
結婚の場所は伏見であったといいますから、伏見の徳川邸に輿入れしたのでしょう。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
徳川家光 その7
『お江の再婚』
秀吉は佐治が家康に船を提供したことに怒って、お江をとり返した。
先ず使者を大野に送って
豊臣秀吉(1537-1598年)

「茶々が病気である。お江に会いたがっている故、至急よこしてくれるよう」
と言って、お江を呼び寄せ
「佐治はおれが相婿たるには不足の男じゃ」
といって、大野に帰さなかった。
佐治は恥じいきどおり、男がすたったので入道して清哉と号して隠居したという。
秀吉はお江を養女とし、羽柴秀勝に嫁がせます。
ところが、この当時、羽柴秀勝という人物が2人いるのです。
ひとりは信長の4男で秀吉の養子となった人物。
もうひとりは秀吉の姉・瑞竜院日秀の次男。
お江の再婚相手はどちらの秀勝であったのか、古来、誰も突き止めていないようです。
もし、信長の4男の秀勝であるなら、お江の再婚生活は1年しかなく、日秀婆さんのせがれの方なら
8年くらいは再婚生活をしていることになります。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
秀吉は佐治が家康に船を提供したことに怒って、お江をとり返した。
先ず使者を大野に送って
豊臣秀吉(1537-1598年)

「茶々が病気である。お江に会いたがっている故、至急よこしてくれるよう」
と言って、お江を呼び寄せ
「佐治はおれが相婿たるには不足の男じゃ」
といって、大野に帰さなかった。
佐治は恥じいきどおり、男がすたったので入道して清哉と号して隠居したという。
秀吉はお江を養女とし、羽柴秀勝に嫁がせます。
ところが、この当時、羽柴秀勝という人物が2人いるのです。
ひとりは信長の4男で秀吉の養子となった人物。
もうひとりは秀吉の姉・瑞竜院日秀の次男。
お江の再婚相手はどちらの秀勝であったのか、古来、誰も突き止めていないようです。
もし、信長の4男の秀勝であるなら、お江の再婚生活は1年しかなく、日秀婆さんのせがれの方なら
8年くらいは再婚生活をしていることになります。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
徳川家光 その6
『お江は佐治家へ』
お江は、最初、尾張知多郡の大野城主・佐治与九郎に嫁いでいます。
佐治氏は6万石ぐらいの大名であったが、織田信長の家と身代の違いはあっても対等につきあってい
る家で、お市の次の妹は佐治八郎信方に嫁いでいます。
お江が嫁いだ大野城

与九郎の名は一茂、八郎の子です。
だから、お江もいとこ同士の結婚だったのです。
ところが、この翌年、小牧・長久手の合戦が始まります。
佐治はその居城がある場所からいっても、これまでの織田家との関係からいっても織田信雄・徳川家
康の連合軍側となるより他はなかった。
しかし、妻の関係上秀吉側との親しみがないわけではない。
佐治の立場は苦しかったでしょう。
そのためか、名前がでるほどの善戦はしていません。
ただひとつ、玉興記に、戦争が終わり家康が尾州西部から引き揚げようとして、佐屋川にさしかかる
と船がなかったので、佐治は船を取り寄せて家康に提供したという。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
お江は、最初、尾張知多郡の大野城主・佐治与九郎に嫁いでいます。
佐治氏は6万石ぐらいの大名であったが、織田信長の家と身代の違いはあっても対等につきあってい
る家で、お市の次の妹は佐治八郎信方に嫁いでいます。
お江が嫁いだ大野城

与九郎の名は一茂、八郎の子です。
だから、お江もいとこ同士の結婚だったのです。
ところが、この翌年、小牧・長久手の合戦が始まります。
佐治はその居城がある場所からいっても、これまでの織田家との関係からいっても織田信雄・徳川家
康の連合軍側となるより他はなかった。
しかし、妻の関係上秀吉側との親しみがないわけではない。
佐治の立場は苦しかったでしょう。
そのためか、名前がでるほどの善戦はしていません。
ただひとつ、玉興記に、戦争が終わり家康が尾州西部から引き揚げようとして、佐屋川にさしかかる
と船がなかったので、佐治は船を取り寄せて家康に提供したという。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>