蒲生氏郷 その7
蒲生氏郷 その6
『六角氏、信長を拒絶』
定秀は六角父子を居城・日野城に迎えておいて、後藤但馬守とその一味の者どもと折衝し、和睦を
まとめ上げ、六角父子を観音寺城に帰した。
観音寺城

以後、六角父子の定秀に対する信任は厚く、定秀は六角家の家老となった。
永禄11年、織田信長は足利義昭の依頼を受け、これを奉じて京に入る計画を立て、六角氏に協力
を要求したが、六角氏は拒絶した。
六角氏が拒絶したのは、当時、京極の権を握っていた三好党と志を通じていたからですが、ひとつ
には当時の信長ができ星の中成金的大名に過ぎないのを、名門大名らしく軽蔑したためであったの
でしょう。
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<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
定秀は六角父子を居城・日野城に迎えておいて、後藤但馬守とその一味の者どもと折衝し、和睦を
まとめ上げ、六角父子を観音寺城に帰した。
観音寺城

以後、六角父子の定秀に対する信任は厚く、定秀は六角家の家老となった。
永禄11年、織田信長は足利義昭の依頼を受け、これを奉じて京に入る計画を立て、六角氏に協力
を要求したが、六角氏は拒絶した。
六角氏が拒絶したのは、当時、京極の権を握っていた三好党と志を通じていたからですが、ひとつ
には当時の信長ができ星の中成金的大名に過ぎないのを、名門大名らしく軽蔑したためであったの
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蒲生氏郷 その5
『武士の道のつらさ』
蒲生氏はその所領・蒲生郡が江州の東南地方に位置しているから、六角家の被官になっていたが、
定秀の時、この六角家の家臣・後藤但馬守という者が、六角承禎をうらむことがあって朋輩をさそ
い合わせ、土民を煽動し謀反を起こした。
蒲生定秀(1508-1579年)

勢い強く、承禎とその子・義弼はどうすることもできず、危機に瀕した。
承禎は定秀に救いを求めた。
定秀は後藤但馬守とは特別に親しいなかであった。
息子の賢秀の嫁として但馬守の姉を貰っていたのです。
定秀は思案した後、賢秀を呼んで
「今度の騒ぎはそちも知っているであろうが、それについて観音寺(六角氏の居城のある場所)の
お屋形から、しかじかと頼んできた。臣従を誓って被官となっているだけで、格別ご恩というほど
のものは預かったこともないが、名のみにしても主従は主従だ。こうなれば、力かぎりのことはせ
ねばならぬ。ついてはお屋形にお疑いを抱かせ申してはならぬ。そなたが嫁、あわれであるが、離
縁いたすよう」
と申渡した。
武士の道のつらさです。
賢秀はかしこまって、あきもあかれもせぬ妻を離縁した。
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蒲生氏はその所領・蒲生郡が江州の東南地方に位置しているから、六角家の被官になっていたが、
定秀の時、この六角家の家臣・後藤但馬守という者が、六角承禎をうらむことがあって朋輩をさそ
い合わせ、土民を煽動し謀反を起こした。
蒲生定秀(1508-1579年)

勢い強く、承禎とその子・義弼はどうすることもできず、危機に瀕した。
承禎は定秀に救いを求めた。
定秀は後藤但馬守とは特別に親しいなかであった。
息子の賢秀の嫁として但馬守の姉を貰っていたのです。
定秀は思案した後、賢秀を呼んで
「今度の騒ぎはそちも知っているであろうが、それについて観音寺(六角氏の居城のある場所)の
お屋形から、しかじかと頼んできた。臣従を誓って被官となっているだけで、格別ご恩というほど
のものは預かったこともないが、名のみにしても主従は主従だ。こうなれば、力かぎりのことはせ
ねばならぬ。ついてはお屋形にお疑いを抱かせ申してはならぬ。そなたが嫁、あわれであるが、離
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と申渡した。
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蒲生氏郷 その4
『六角家と京極家』
秘蔵第一の名馬・生月を寵臣・梶原景時の長男・景季に乞われても、「これは俺が出陣のとき、の
乗料にするのだ」とて、第二の馬・磨墨を与え、四郎高綱には乞われもしないのに生月を与えた。
源頼朝(1147ー1199年)

これが有名な宇治川の先陣争いになることは、ご存じの方も多いと思います。
四郎高綱だけでなく、四郎の兄3人もそれぞれの居場所から駆けつけて、頼朝に忠勤した。
こんなわけで、頼朝が佐々木氏に対する恩寵は一方でなく、その一族で近江の守護職をはじめとし
て17ヵ国の守護職をしめたというほど栄えた。
近江は本国であるから、総領家が世襲していたが、これが鎌倉中期に両家にわかれ、近江を南北に
2つに分けて、それぞれそのひとつを領有することになった。
南を六角家といい、北を京極家という。
両家の京の屋敷が、六角と京極にあったので、それが苗字になったのだという。
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秘蔵第一の名馬・生月を寵臣・梶原景時の長男・景季に乞われても、「これは俺が出陣のとき、の
乗料にするのだ」とて、第二の馬・磨墨を与え、四郎高綱には乞われもしないのに生月を与えた。
源頼朝(1147ー1199年)

これが有名な宇治川の先陣争いになることは、ご存じの方も多いと思います。
四郎高綱だけでなく、四郎の兄3人もそれぞれの居場所から駆けつけて、頼朝に忠勤した。
こんなわけで、頼朝が佐々木氏に対する恩寵は一方でなく、その一族で近江の守護職をはじめとし
て17ヵ国の守護職をしめたというほど栄えた。
近江は本国であるから、総領家が世襲していたが、これが鎌倉中期に両家にわかれ、近江を南北に
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南を六角家といい、北を京極家という。
両家の京の屋敷が、六角と京極にあったので、それが苗字になったのだという。
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蒲生氏郷 その3
『祖父・定秀から台頭』
蒲生氏はいつの時代からか、近江の蒲生郡に居住し、蒲生をもって氏とするようになったが、たい
した人物も出なかったと見えて、ほとんど聞こえるところがありません。
蒲生郡

聞こえるようになったのは、氏郷の祖父・定秀からです。
鎌倉時代以来、近江で最も勢力があったのは佐々木氏です。
佐々木一族は四郎高綱の話でもわかるように、頼朝の最初の挙兵当時から忠勤を抜きんでていた。
高綱は頼朝が挙兵するということを聞いたが、貧しくて馬もないので徒歩でてくてくと下って来る途
中、道連れになった者を刺殺して馬を奪い、それに乗って駆け付けた。
頼朝の感動はひととおりでなかったという。
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した人物も出なかったと見えて、ほとんど聞こえるところがありません。
蒲生郡

聞こえるようになったのは、氏郷の祖父・定秀からです。
鎌倉時代以来、近江で最も勢力があったのは佐々木氏です。
佐々木一族は四郎高綱の話でもわかるように、頼朝の最初の挙兵当時から忠勤を抜きんでていた。
高綱は頼朝が挙兵するということを聞いたが、貧しくて馬もないので徒歩でてくてくと下って来る途
中、道連れになった者を刺殺して馬を奪い、それに乗って駆け付けた。
頼朝の感動はひととおりでなかったという。
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蒲生氏郷 その2
『佐藤さん、首藤さん、近藤さん、武藤さん』
秀郷の子孫は北関東にひろがって、結城・小山などの諸氏となり、ついには奥州にもおよび、平泉の
藤原氏もその姓をおかしていたことは周知のとおりです。
大石内蔵助(良雄)(1659-1703年)

この平泉藤原氏の一族に源義経の郎党・佐藤継信・忠信の兄弟、西行法師(俗名・佐藤義清)がおり、
今でも奥州地方に多い、佐藤・首藤・近藤・武藤等は、みな秀郷の子孫、あるいは子孫と称している
といいます。
一方、近江地方にも広がり、蒲生・大石等の諸氏となっています。
大石内蔵助の家は、この大石氏で、田原郷に隣接して、今日でも大石郷があります。
内蔵助の家は、彼から2、3代前の先祖が下野の小山から来て大石郷の領主となったと伝えられてい
ますが、大石郷の領主が死に絶えたので、同族である関東の小山氏から跡継ぎに来てもらったのだと
思います。
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藤原氏もその姓をおかしていたことは周知のとおりです。
大石内蔵助(良雄)(1659-1703年)

この平泉藤原氏の一族に源義経の郎党・佐藤継信・忠信の兄弟、西行法師(俗名・佐藤義清)がおり、
今でも奥州地方に多い、佐藤・首藤・近藤・武藤等は、みな秀郷の子孫、あるいは子孫と称している
といいます。
一方、近江地方にも広がり、蒲生・大石等の諸氏となっています。
大石内蔵助の家は、この大石氏で、田原郷に隣接して、今日でも大石郷があります。
内蔵助の家は、彼から2、3代前の先祖が下野の小山から来て大石郷の領主となったと伝えられてい
ますが、大石郷の領主が死に絶えたので、同族である関東の小山氏から跡継ぎに来てもらったのだと
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蒲生氏郷 その1
『蒲生氏の本拠は関東下野だった』
蒲生氏は田原藤太秀郷の子孫です。
蒲生氏郷(1556-1595年)

秀郷は後に関東下野に居住し、平将門の反乱を鎮定して関東一の豪族となり、鎮守府将軍にまでなっ
たが、そのはじめは近江の栗太郡田原の庄にいたので、田原ノ藤太と呼ばれたというのが昔からの通
説ですが、秀郷は祖父・豊沢の代から下野に土着していた。
今、宇都宮市の北方に田原という土地があり、ここにいたので田原ノ藤太と呼ばれ、やがて将門を退
治して武名が上がり、中央政界にも顔が利くようになり、近江に荘園をこしらえ、時にはここに居る
こともあったので、下野の居住地の名をここに移して田原と呼ぶことにしたのではないかと思われま
す。
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蒲生氏は田原藤太秀郷の子孫です。
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秀郷は後に関東下野に居住し、平将門の反乱を鎮定して関東一の豪族となり、鎮守府将軍にまでなっ
たが、そのはじめは近江の栗太郡田原の庄にいたので、田原ノ藤太と呼ばれたというのが昔からの通
説ですが、秀郷は祖父・豊沢の代から下野に土着していた。
今、宇都宮市の北方に田原という土地があり、ここにいたので田原ノ藤太と呼ばれ、やがて将門を退
治して武名が上がり、中央政界にも顔が利くようになり、近江に荘園をこしらえ、時にはここに居る
こともあったので、下野の居住地の名をここに移して田原と呼ぶことにしたのではないかと思われま
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