蒲生氏郷 その38
蒲生氏郷 その37
『討死の覚悟で』
秀吉の許可が出たので、氏郷は大いに喜び、秀吉の言葉を家臣らに告げ
「皆々討死の覚悟で働いてくれい」
と、下知した。
豊臣秀吉(1537-1598年)

「家中の者どもひしひしと用意す」
と、氏郷記は叙述しています。
秀吉は重ねて命令を下した。
「城中の人数ことのほかに多いとのことなれば、氏郷の人数だけでは不足であろう。前田利長・羽柴
秀勝・石川数正をして加勢させる。おれも明日は早朝から後詰して柞原山に本陣をすえ、見物してい
るぞ。よく働け」
秀吉が桟敷から見物している。
最も晴れがましい城攻めになったわけです。
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<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
秀吉の許可が出たので、氏郷は大いに喜び、秀吉の言葉を家臣らに告げ
「皆々討死の覚悟で働いてくれい」
と、下知した。
豊臣秀吉(1537-1598年)

「家中の者どもひしひしと用意す」
と、氏郷記は叙述しています。
秀吉は重ねて命令を下した。
「城中の人数ことのほかに多いとのことなれば、氏郷の人数だけでは不足であろう。前田利長・羽柴
秀勝・石川数正をして加勢させる。おれも明日は早朝から後詰して柞原山に本陣をすえ、見物してい
るぞ。よく働け」
秀吉が桟敷から見物している。
最も晴れがましい城攻めになったわけです。
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蒲生氏郷 その36
『攻めあぐんだら切腹』
町野は秀吉の本陣へ行き、牧野兵部大輔・戸田三郎四郎をとり次として、氏郷に言われたとおり願い
出た。
蒲生氏郷像(滋賀県日野町)

すると、秀吉は
「岩石は聞こゆる名城であるうえ、武勇すぐれた者どもが数人大将として籠っている。もし攻めあぐ
むようなことがあっては、影響するところが大きい。もちろん攻め落とせばよい影響のあることはわ
かっているが、冒険に過ぎる。先ずはやめにせい」
とて、許さなかった。
氏郷は左近の復命を聞き、また左近を遣わして
「必ず易々と攻落し申すべし」
と言わせたが、秀吉はやはり許さない。
氏郷は三度、乞うた。
ついに秀吉は承知して
「さほどまで申すならば許そう。もし、攻めあぐみたらば切腹つかまつれ」
このへん秀吉の機略の存するところでしょう。
秀吉ほどの人だから、氏郷の口上を聞いて、やってられないことはないと悟ったのでしょうが、ひ
と通りのことでは成功おぼつかないと見て、氏郷を激させようとしてなかなか許可しないでおいて、
最後に許し、こんな言葉を添えたのでしょう。
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町野は秀吉の本陣へ行き、牧野兵部大輔・戸田三郎四郎をとり次として、氏郷に言われたとおり願い
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すると、秀吉は
「岩石は聞こゆる名城であるうえ、武勇すぐれた者どもが数人大将として籠っている。もし攻めあぐ
むようなことがあっては、影響するところが大きい。もちろん攻め落とせばよい影響のあることはわ
かっているが、冒険に過ぎる。先ずはやめにせい」
とて、許さなかった。
氏郷は左近の復命を聞き、また左近を遣わして
「必ず易々と攻落し申すべし」
と言わせたが、秀吉はやはり許さない。
氏郷は三度、乞うた。
ついに秀吉は承知して
「さほどまで申すならば許そう。もし、攻めあぐみたらば切腹つかまつれ」
このへん秀吉の機略の存するところでしょう。
秀吉ほどの人だから、氏郷の口上を聞いて、やってられないことはないと悟ったのでしょうが、ひ
と通りのことでは成功おぼつかないと見て、氏郷を激させようとしてなかなか許可しないでおいて、
最後に許し、こんな言葉を添えたのでしょう。
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蒲生氏郷 その35
『岩石城の攻撃を乞う』
氏郷は布施次郎衛門・土田久介というさらに心得のある武士を選んで、しかじかである故、念を入れ
て見てくるよう、と命じてつかわした。
2人は出て行ったが、帰ってきて、
「飯粒以外は特別なことは見当たり申さず、いつ退いたかわかりません」
と報告する。
岩石城

氏郷は3度、人を遣わす。
今度は蒲生四郎兵衛をつかわした。
氏郷が姓を与えて重役にしているほどの武士です。
なぜ氏郷がこうまで念を入れたかというと、この城の攻撃を秀吉に乞う決心でいたからです。
「かしこまりました」
四郎兵衛は出て行ったが、帰って来て
「岩石城の麓の在所の者どもは10日以前に立ち退きました」
とはっきりと言った。
「ほう、その理由は?」
「路面に足跡が見えませんが、これは雨のために消えたのであると判断します。雨は10日前に降っ
ただけで、その後は天気続きでござる。すなわち10日以前に立ち退いたこと疑いないと存じます」
「よく見た」
氏郷は感心し、家老の町野左近を呼び
「その方関白殿下のご本陣へまいり、岩石城は攻め落とし得べき体に見えますれば、攻撃お許しくだ
さるようと、お願いしてまいれ」
と命じた。
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氏郷は布施次郎衛門・土田久介というさらに心得のある武士を選んで、しかじかである故、念を入れ
て見てくるよう、と命じてつかわした。
2人は出て行ったが、帰ってきて、
「飯粒以外は特別なことは見当たり申さず、いつ退いたかわかりません」
と報告する。
岩石城

氏郷は3度、人を遣わす。
今度は蒲生四郎兵衛をつかわした。
氏郷が姓を与えて重役にしているほどの武士です。
なぜ氏郷がこうまで念を入れたかというと、この城の攻撃を秀吉に乞う決心でいたからです。
「かしこまりました」
四郎兵衛は出て行ったが、帰って来て
「岩石城の麓の在所の者どもは10日以前に立ち退きました」
とはっきりと言った。
「ほう、その理由は?」
「路面に足跡が見えませんが、これは雨のために消えたのであると判断します。雨は10日前に降っ
ただけで、その後は天気続きでござる。すなわち10日以前に立ち退いたこと疑いないと存じます」
「よく見た」
氏郷は感心し、家老の町野左近を呼び
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さるようと、お願いしてまいれ」
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蒲生氏郷 その34
『気性の烈しい氏郷』
岩石城の抑えを命ぜられたのは、前田利家の子・前田利長、秀吉の養子・羽柴秀勝(信長の実子)、
それと氏郷であった。
前田利長(1562-1614年)

氏郷は気性の烈しい人です。
秀吉軍の主力が秋月城攻めにどんどん進軍して行くのに、あとに残って城の抑えなどしているのが
無念でならない。
岩石城を攻め落してやろうと思った。
そこで先ず偵察にかかり、もの慣れた武者2人に、岩石の山の麓一帯をよく見てまいれ、どうやら
俺の目には麓の在所には人がいないように見ゆる。
と命じた。
「かしこまりました」
2人は出かけて行ったが、やがて帰って来た。
「仰せのとおりひとりもいません。在所の家々に立ち退く際に食したと思わるる飯のかけらなど散
らばっていましたが、すべてカチカチにからびております。よほど前に立ち退いたと思われます」
「いつ頃じゃと思うか」
「さあ、それは・・・」
と顔を見合わせるばかりであった。
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それと氏郷であった。
前田利長(1562-1614年)

氏郷は気性の烈しい人です。
秀吉軍の主力が秋月城攻めにどんどん進軍して行くのに、あとに残って城の抑えなどしているのが
無念でならない。
岩石城を攻め落してやろうと思った。
そこで先ず偵察にかかり、もの慣れた武者2人に、岩石の山の麓一帯をよく見てまいれ、どうやら
俺の目には麓の在所には人がいないように見ゆる。
と命じた。
「かしこまりました」
2人は出かけて行ったが、やがて帰って来た。
「仰せのとおりひとりもいません。在所の家々に立ち退く際に食したと思わるる飯のかけらなど散
らばっていましたが、すべてカチカチにからびております。よほど前に立ち退いたと思われます」
「いつ頃じゃと思うか」
「さあ、それは・・・」
と顔を見合わせるばかりであった。
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蒲生氏郷 その33
『盤石な攻め』
秀吉は両城の地形を見て、岩石城にはおさえの兵をおいて、先ず秋月城を攻めることにした。
岩石城は天然の要害に位置しているうえに、ここに籠っている熊谷越中守久重と芥川六兵衛というの
がなかなかの豪傑であり、兵も3千いるという。
岩石城(添田町まちづくり課編『岩石者(がんじゃくもん)』より)

親征の第一歩に攻めあぐむようなことがあっては、去年の先発隊の失敗があるだけに、関白軍の権威
に関する。
「上方へのへろへろ武士どもが相手じゃけん、あぎゃん勝たしゃたとばい。九州にござってはまるで
ザマなかと。いっちょんおそろしゅうなかばい。こぎゃん風じゃ薩摩征伐も怪しかもんたい」
と、言い出さないものでもないし、島津に心を通ずる者が出ないものでもないし、そうなれば戦局も
はかばかしく進まないであろうし、それはやがて中央や東国の形勢にも影響して来るであろうから、
秀吉としては大事を踏む必要があった。
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がなかなかの豪傑であり、兵も3千いるという。
岩石城(添田町まちづくり課編『岩石者(がんじゃくもん)』より)

親征の第一歩に攻めあぐむようなことがあっては、去年の先発隊の失敗があるだけに、関白軍の権威
に関する。
「上方へのへろへろ武士どもが相手じゃけん、あぎゃん勝たしゃたとばい。九州にござってはまるで
ザマなかと。いっちょんおそろしゅうなかばい。こぎゃん風じゃ薩摩征伐も怪しかもんたい」
と、言い出さないものでもないし、島津に心を通ずる者が出ないものでもないし、そうなれば戦局も
はかばかしく進まないであろうし、それはやがて中央や東国の形勢にも影響して来るであろうから、
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蒲生氏郷 その32
『秀吉の親征』
秀吉は翌年春、親征の途につき、3月25日に赤間関についた。
秀吉が九州に着いた時、北九州に出張っていた島津勢は、北九州を去って薩摩・大隅・日向の南半
に引き上げてしまっていた。
秋月城

島津に征服されて間のない北九州の諸豪が、秀吉が来ると聞いて、安心ならない様子を見せ始めた
ので、本国で戦うのが有利と見たのでしょう。
ところが、この北九州に2つだけ島津方の城があった。
ひとつは筑前の秋月城であり、ひとつは豊前の巌石城です。
両城とも秋月の秋月種実の持城です。
島津氏に対してなにか特別な義理か友愛があったのでしょう。
争って秀吉に降伏を申し送る北九州の諸豪の中で、ただひとり反抗の色を見せ、両城を堅固に守っ
ていた。
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秀吉が九州に着いた時、北九州に出張っていた島津勢は、北九州を去って薩摩・大隅・日向の南半
に引き上げてしまっていた。
秋月城

島津に征服されて間のない北九州の諸豪が、秀吉が来ると聞いて、安心ならない様子を見せ始めた
ので、本国で戦うのが有利と見たのでしょう。
ところが、この北九州に2つだけ島津方の城があった。
ひとつは筑前の秋月城であり、ひとつは豊前の巌石城です。
両城とも秋月の秋月種実の持城です。
島津氏に対してなにか特別な義理か友愛があったのでしょう。
争って秀吉に降伏を申し送る北九州の諸豪の中で、ただひとり反抗の色を見せ、両城を堅固に守っ
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