蒲生氏郷 その68
『奉公構い』
奉公構(ほうこうかま)いとは、召し抱えることを禁止するということです。
秀吉から構われれば、秀吉の勢力圏内にある大名らがみな召し抱えないことは勿論ですが、大名で
もそれができたのです。
後藤又兵衛(基次)(1560-1615年)

他の大名らに
「何々と申す者はお召し抱えくださらぬよう」
と通告すれば、そこはお互いのことで、誰も召し抱えない。
きかずに召し抱えれば大名同士の喧嘩になるのです。
塙団右衛門や後藤又兵衛が旧主の加藤善明や黒田長政に奉公に構われ、どこの大名も召し抱えて
くれず、ついに大坂に入城して悲壮な戦いをして死んだのは、このためです。
太閤の遺徳を慕い、徳川家の狡猾強欲をいきどおってのないことは説明するまでもありません。
行き場がないから、事成らば大大名になろう。
事成らずば最も男らしく最期を遂げるまでの大ばくちの心だったのです。
それはともあれ、秀吉は氏郷の請いを許した。
そこで氏郷は、早速多くの勇士らを召し抱えた。
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<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
奉公構(ほうこうかま)いとは、召し抱えることを禁止するということです。
秀吉から構われれば、秀吉の勢力圏内にある大名らがみな召し抱えないことは勿論ですが、大名で
もそれができたのです。
後藤又兵衛(基次)(1560-1615年)

他の大名らに
「何々と申す者はお召し抱えくださらぬよう」
と通告すれば、そこはお互いのことで、誰も召し抱えない。
きかずに召し抱えれば大名同士の喧嘩になるのです。
塙団右衛門や後藤又兵衛が旧主の加藤善明や黒田長政に奉公に構われ、どこの大名も召し抱えて
くれず、ついに大坂に入城して悲壮な戦いをして死んだのは、このためです。
太閤の遺徳を慕い、徳川家の狡猾強欲をいきどおってのないことは説明するまでもありません。
行き場がないから、事成らば大大名になろう。
事成らずば最も男らしく最期を遂げるまでの大ばくちの心だったのです。
それはともあれ、秀吉は氏郷の請いを許した。
そこで氏郷は、早速多くの勇士らを召し抱えた。
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蒲生氏郷 その67
『木村吉清父子の援護要請』
秀吉は氏郷に会津転封を命じたとき、葛西・大崎の地に封じた木村吉清父子に向かって
「その方どもは木村を親とも主とも思って仕えよ。木村のもとに時々ご機嫌伺いに参ぜよ。しかし、
俺のもとへは当分まいらんでもよい」
福島城址(現福島県庁)

と言い、氏郷には
「その方は木村父子を子ども弟とも思っていたわりくれるよう。木村は小身者であるゆえ、地侍ども
が侮って一揆などを起こすこともあろうが、その時はその方は木村を先手として、木村父子の勢を引
き連れて切り平げるよう。くれぐれも父子のものを見捨てぬよう」
と、申し渡したと、蒲生氏郷記は伝えます。
氏郷は、この時、秀吉に
「大任を承りましたにつき、武勇すぐれた武士どもを多数召し抱えたく存じます。ついては、これま
で殿下の敵方の者であったり、諸大名の怒りに触れたりして、奉公を構われている者どもを召し使え
ることをお許しいただきとうございます」
と願い出た。
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秀吉は氏郷に会津転封を命じたとき、葛西・大崎の地に封じた木村吉清父子に向かって
「その方どもは木村を親とも主とも思って仕えよ。木村のもとに時々ご機嫌伺いに参ぜよ。しかし、
俺のもとへは当分まいらんでもよい」
福島城址(現福島県庁)

と言い、氏郷には
「その方は木村父子を子ども弟とも思っていたわりくれるよう。木村は小身者であるゆえ、地侍ども
が侮って一揆などを起こすこともあろうが、その時はその方は木村を先手として、木村父子の勢を引
き連れて切り平げるよう。くれぐれも父子のものを見捨てぬよう」
と、申し渡したと、蒲生氏郷記は伝えます。
氏郷は、この時、秀吉に
「大任を承りましたにつき、武勇すぐれた武士どもを多数召し抱えたく存じます。ついては、これま
で殿下の敵方の者であったり、諸大名の怒りに触れたりして、奉公を構われている者どもを召し使え
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蒲生氏郷 その66
『家康は関東へ』
家康を東海道筋の要地に置くことは危険千万だということで、家康には小田原が落ちると、すぐ
「関八州をおことに進ぜる」
と言って、関東に国替えさせたばかりか、東海道筋の要地には数珠を連ねたように腹心の大名らを
封じた。
岡崎城の徳川家康公

甲斐もそうです。
取立ての大名・加藤光康をおいた。
家康を関東に封じ込めるためです。
氏郷を会津にすえたのも、この家康封じ込めの一環であったのです。
氏郷もその覚悟があって、ある時
「徳川殿が万一殿下に謀反を起こし京へ上がろうとされても、おれが尻にくらいついて、一寸も動か
しはせぬ」
と言った話もあります。
もし、秀吉と家康が互いに適任者と思う人物の名を書いて見せ合ったというのが事実なら、家康は自
分の監視を選んだ訳になりますが、そこは家康のことです。
当分は雌伏が第一、秀吉が死にさえすれば、監視人の心などどうでもなるわいと料簡して、最も適任
と信じる者の名を書いたのでしょう。
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家康を東海道筋の要地に置くことは危険千万だということで、家康には小田原が落ちると、すぐ
「関八州をおことに進ぜる」
と言って、関東に国替えさせたばかりか、東海道筋の要地には数珠を連ねたように腹心の大名らを
封じた。
岡崎城の徳川家康公

甲斐もそうです。
取立ての大名・加藤光康をおいた。
家康を関東に封じ込めるためです。
氏郷を会津にすえたのも、この家康封じ込めの一環であったのです。
氏郷もその覚悟があって、ある時
「徳川殿が万一殿下に謀反を起こし京へ上がろうとされても、おれが尻にくらいついて、一寸も動か
しはせぬ」
と言った話もあります。
もし、秀吉と家康が互いに適任者と思う人物の名を書いて見せ合ったというのが事実なら、家康は自
分の監視を選んだ訳になりますが、そこは家康のことです。
当分は雌伏が第一、秀吉が死にさえすれば、監視人の心などどうでもなるわいと料簡して、最も適任
と信じる者の名を書いたのでしょう。
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蒲生氏郷 その65
『会津転封を喜ばない氏郷』
松坂は12万石ですが、会津は蒲生氏郷記によると70万石とあり、蒲生軍紀には42万石とあり、
いずれにしても飛躍的な増封です。
しかし、氏郷が会津転封を喜ばなかったことは事実のようです。
伊達政宗(1567-1636年)

秀吉が氏郷を会津に封じたのは、氏郷を敬遠したのだという説が昔からあります。
それもあったのでしょう。
氏郷は小身であるが、年若くして大器である。
故・信長の娘婿でもあるのです。秀吉が気を許せなかったのも無理はない。
しかし、秀吉としては優れた人物を会津に置く必要があったのです。
伊達政宗という人物が油断もすきもならないうえに、奥州は新付の地です。
うっかりすると肥後のように一揆さわぎなど起こるかも知れない。
また何よりも、難物は徳川家康です。
秀吉は武力をもっては家康に勝っていないのです。
しかもその財力、その武力は諸大名中ずば抜けている。
油断のならないことは言うまでもありません。
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いずれにしても飛躍的な増封です。
しかし、氏郷が会津転封を喜ばなかったことは事実のようです。
伊達政宗(1567-1636年)

秀吉が氏郷を会津に封じたのは、氏郷を敬遠したのだという説が昔からあります。
それもあったのでしょう。
氏郷は小身であるが、年若くして大器である。
故・信長の娘婿でもあるのです。秀吉が気を許せなかったのも無理はない。
しかし、秀吉としては優れた人物を会津に置く必要があったのです。
伊達政宗という人物が油断もすきもならないうえに、奥州は新付の地です。
うっかりすると肥後のように一揆さわぎなど起こるかも知れない。
また何よりも、難物は徳川家康です。
秀吉は武力をもっては家康に勝っていないのです。
しかもその財力、その武力は諸大名中ずば抜けている。
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蒲生氏郷 その64
『氏郷の野望』
また、一説では、秀吉が徳川家康に向かって
「誰が良いと思わっしゃるか、ひとつお互いに見せ合うてみましょう」
といって、互いに書いて交換してみると、秀吉の札には『1番・堀久太郎、2番・蒲生』とあり、家
康のには『1番・蒲生、2番・堀』とあったという。
徳川家康(1543-1616年)

この任命を受けた後、氏郷が会津城の広間の柱により、涙ぐんでいる様子なので、山崎右近という者
が側により
「大封を受けられ、感涙にむせばるること、ごもっともに存ずる」
というと、氏郷は小声で
「さようにてはなし、小身なりとも都近くいただば、天下に望みを掛けることも出来るが、なにほど
大身になったとて、片田舎人となってはいたし方はない。われらはすたり者になったと思い、不覚の
涙をもうようしたのである」
といった有名な話があります。
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「誰が良いと思わっしゃるか、ひとつお互いに見せ合うてみましょう」
といって、互いに書いて交換してみると、秀吉の札には『1番・堀久太郎、2番・蒲生』とあり、家
康のには『1番・蒲生、2番・堀』とあったという。
徳川家康(1543-1616年)

この任命を受けた後、氏郷が会津城の広間の柱により、涙ぐんでいる様子なので、山崎右近という者
が側により
「大封を受けられ、感涙にむせばるること、ごもっともに存ずる」
というと、氏郷は小声で
「さようにてはなし、小身なりとも都近くいただば、天下に望みを掛けることも出来るが、なにほど
大身になったとて、片田舎人となってはいたし方はない。われらはすたり者になったと思い、不覚の
涙をもうようしたのである」
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蒲生氏郷 その63
『会津は東北の要鎮』
小田原城の落城は、7月6日であった。
秀吉は兵を率いて奥州に入り、会津まで行って大いに奥州人に兵威を示し、会津で奥羽地方の土地を
処分した。
会津若松城

その内容は、陸前名生城の大崎氏、同登米の葛西氏等を断絶にして所領を没収し、あとは木村吉清
父子に与えたが、その際、会津に氏郷を転封することにした。
この時のこととして、こんな話が伝わります。
秀吉は諸将を集め、
「会津は東北の要鎮である。よほどにすぐれた者を置かねばならぬ。誰を置いたらよいか、その方ども
遠慮なく意見を書いてみよ」
と、入札させてにたところ、細川忠興しかるべしと書いたものが十中九までであった。
秀吉は笑って、
「わいの知恵の底が見えるわ。おれが天下取ったわけよ。ここは蒲生忠三郎のほかにおくべき者はない
わ」
と言って、氏郷に決めたという。
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秀吉は兵を率いて奥州に入り、会津まで行って大いに奥州人に兵威を示し、会津で奥羽地方の土地を
処分した。
会津若松城

その内容は、陸前名生城の大崎氏、同登米の葛西氏等を断絶にして所領を没収し、あとは木村吉清
父子に与えたが、その際、会津に氏郷を転封することにした。
この時のこととして、こんな話が伝わります。
秀吉は諸将を集め、
「会津は東北の要鎮である。よほどにすぐれた者を置かねばならぬ。誰を置いたらよいか、その方ども
遠慮なく意見を書いてみよ」
と、入札させてにたところ、細川忠興しかるべしと書いたものが十中九までであった。
秀吉は笑って、
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わ」
と言って、氏郷に決めたという。
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蒲生氏郷 その62
『当意即妙の機転』
小田原に着き、攻城にかかった時のこととして、氏郷記にはこんな話がでています。
ある夜、北条方から寄手の陣所へ夜襲をかけてきたので、寄せ手の陣所は大騒ぎとなり、人々みな
懸命に防戦した。
小田原城

この時、氏郷ははね起きるや、具足も着けず、槍をひっさげてすばやく敵の後方に廻り、さんざん
に突き立てた。
敵は味方の働きにより、退却にかかったが、氏郷は立ちふさがって突き立てるので、退きかね、横
にそれて堀に飛び込む者が多く、それを目がけて突き、首をとった味方の者も多かった。
このことが秀吉の本陣に聞こえると
「飛騨(氏郷)の働きはいつものことじゃが、今度の夜討に敵の後ろにまわり、ただ一人をもって
敵の退路を断って首あまた上げたこと、当意即妙の機転、古今まれの働きである」
と、誉めたという。
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ある夜、北条方から寄手の陣所へ夜襲をかけてきたので、寄せ手の陣所は大騒ぎとなり、人々みな
懸命に防戦した。
小田原城

この時、氏郷ははね起きるや、具足も着けず、槍をひっさげてすばやく敵の後方に廻り、さんざん
に突き立てた。
敵は味方の働きにより、退却にかかったが、氏郷は立ちふさがって突き立てるので、退きかね、横
にそれて堀に飛び込む者が多く、それを目がけて突き、首をとった味方の者も多かった。
このことが秀吉の本陣に聞こえると
「飛騨(氏郷)の働きはいつものことじゃが、今度の夜討に敵の後ろにまわり、ただ一人をもって
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