蒲生氏郷 その99
『須田の悪口』
氏郷は政宗に使を立て
「何とてその城を早々に攻落されぬぞ。攻めあぐみなさっているのであれば、一方の攻口をわれら
に渡されよ。即刻攻落し申そう」
青葉城の政宗公

と、言いおくったところ、政宗は
「早落去間際でござる」
というばかりで、格別きびしく攻めもせず、かえって須田伯耆のことを弁解する。
「須田伯耆がご陣に駆け入り、拙者逆心の由を申し上げた由、迷惑でござる。拙者には露覚えなき
ことでござる。須田儀はかようなもので」
と、さんざんに須田の悪口を言いやった。
ついに一揆方の城を落さず、引き上げてしまったという。
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<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
氏郷は政宗に使を立て
「何とてその城を早々に攻落されぬぞ。攻めあぐみなさっているのであれば、一方の攻口をわれら
に渡されよ。即刻攻落し申そう」
青葉城の政宗公

と、言いおくったところ、政宗は
「早落去間際でござる」
というばかりで、格別きびしく攻めもせず、かえって須田伯耆のことを弁解する。
「須田伯耆がご陣に駆け入り、拙者逆心の由を申し上げた由、迷惑でござる。拙者には露覚えなき
ことでござる。須田儀はかようなもので」
と、さんざんに須田の悪口を言いやった。
ついに一揆方の城を落さず、引き上げてしまったという。
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蒲生氏郷 その98
『氏郷の決意』
氏郷は
「そのお言葉は過分でござる。拙者は貴殿への友情によっていたしたのでござらぬ。殿下が会津を
拙者に賜った時のお言葉が無にならぬようにいたしたのでござる。もし拙者の駆けつけが間に合わ
蒲生氏郷(1556-1595年)

ず、貴殿らを死なせたならば、拙者は二度と会津へは帰らず、葛西・大崎の一揆どもを全部攻め潰
したうえ、討死せんと覚悟して、出陣したのでござる。そうなっても、後世の恥辱であるべきに、
こうして無事に対面出来たこと、生前の大幸これに過ぎ申さぬ。政宗は逆心と見えますれば、ある
いは一揆どもと合体して押し寄せることもないとは限らなぬ。その節は貴殿らとともに花々しく戦
い、同じ枕に討死つかまろう」
と応えた。
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氏郷は
「そのお言葉は過分でござる。拙者は貴殿への友情によっていたしたのでござらぬ。殿下が会津を
拙者に賜った時のお言葉が無にならぬようにいたしたのでござる。もし拙者の駆けつけが間に合わ
蒲生氏郷(1556-1595年)

ず、貴殿らを死なせたならば、拙者は二度と会津へは帰らず、葛西・大崎の一揆どもを全部攻め潰
したうえ、討死せんと覚悟して、出陣したのでござる。そうなっても、後世の恥辱であるべきに、
こうして無事に対面出来たこと、生前の大幸これに過ぎ申さぬ。政宗は逆心と見えますれば、ある
いは一揆どもと合体して押し寄せることもないとは限らなぬ。その節は貴殿らとともに花々しく戦
い、同じ枕に討死つかまろう」
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蒲生氏郷 その97
『木村父子と対面』
氏郷は安心したものの、佐沼城はにわかな籠城であり、兵糧もあるまいと思ったので、ここに引き上
げて来いといって、迎えの軍をつかわした。
佐沼城址(宮城県登米市)

一揆勢が退散したからといって、木村父子は城を出て近在の村へ兵糧徴発になど危険で行けない。
11月23日、木村父子は名生にやって来た。
父子は涙を流し、合掌して、入部以後日数も立たず、しかも寒空にこの迅速な出陣をしてくれたこと、
前代未聞のことと、礼を言って
「この20日以上雑炊ばかり食べていましたが、もはや3日の糧を残すばかりとなりましたので、餓
死するも無念、切って出て討死せんと覚悟を決めています時に、ご出陣あって、不思議に命が助かり
ました。命の親とはそなた様のことでござる。われら父子は、必定、流罪か死罪に仰せつけられるか
と存じますが、万一が一助命されましたなら、生涯そなた様の家来となって、草履をとり申すべし」
と、涙ながらに言った。
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氏郷は安心したものの、佐沼城はにわかな籠城であり、兵糧もあるまいと思ったので、ここに引き上
げて来いといって、迎えの軍をつかわした。
佐沼城址(宮城県登米市)

一揆勢が退散したからといって、木村父子は城を出て近在の村へ兵糧徴発になど危険で行けない。
11月23日、木村父子は名生にやって来た。
父子は涙を流し、合掌して、入部以後日数も立たず、しかも寒空にこの迅速な出陣をしてくれたこと、
前代未聞のことと、礼を言って
「この20日以上雑炊ばかり食べていましたが、もはや3日の糧を残すばかりとなりましたので、餓
死するも無念、切って出て討死せんと覚悟を決めています時に、ご出陣あって、不思議に命が助かり
ました。命の親とはそなた様のことでござる。われら父子は、必定、流罪か死罪に仰せつけられるか
と存じますが、万一が一助命されましたなら、生涯そなた様の家来となって、草履をとり申すべし」
と、涙ながらに言った。
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蒲生氏郷 その96
『一揆ども退散』
政宗は途中の飯坂城にとどまった。
そこから会津に討ち入ろうと思ったのでしょう。
伊達政宗

しかし、氏郷が早速に駆けつけるであろうと考えたので、踏み切れないでいた。
氏郷は氏郷で、佐沼を前進して一揆どもを踏みつぶし、木村父子を救い出すことは易いことだが、政
宗の動きを注意して進まない。
「この乱れのおおもとは政宗だ。これを踏みつぶせば一揆どもおのずから退散する道理」
と、名生城からはるかに飯坂の政宗の動きをにらんでいたと、記述している。
面白いですが、ここは氏郷記の方が正しいのでしょう。
氏郷記には氏郷は須田伯耆ら政宗家中の内通者らの密訴を聞いて
「さらば、しばらく政宗の出ようを見よう」
と、名生城に留まっていると、木村父子から飛脚が到着した。
「このほど一揆どもは、氏郷公が大崎表まで出陣し、名生の城を攻落し、やがては当表へ進み来ら
れるであろうから、われらは退散する、その方を攻殺さざること無念なりと罵って、ことごとく退散
いたしました」
という口上
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政宗は途中の飯坂城にとどまった。
そこから会津に討ち入ろうと思ったのでしょう。
伊達政宗

しかし、氏郷が早速に駆けつけるであろうと考えたので、踏み切れないでいた。
氏郷は氏郷で、佐沼を前進して一揆どもを踏みつぶし、木村父子を救い出すことは易いことだが、政
宗の動きを注意して進まない。
「この乱れのおおもとは政宗だ。これを踏みつぶせば一揆どもおのずから退散する道理」
と、名生城からはるかに飯坂の政宗の動きをにらんでいたと、記述している。
面白いですが、ここは氏郷記の方が正しいのでしょう。
氏郷記には氏郷は須田伯耆ら政宗家中の内通者らの密訴を聞いて
「さらば、しばらく政宗の出ようを見よう」
と、名生城に留まっていると、木村父子から飛脚が到着した。
「このほど一揆どもは、氏郷公が大崎表まで出陣し、名生の城を攻落し、やがては当表へ進み来ら
れるであろうから、われらは退散する、その方を攻殺さざること無念なりと罵って、ことごとく退散
いたしました」
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蒲生氏郷 その95
『政宗落城させず』
蒲生軍紀では、たいへんなことが書いてあります。
裏切り者が出て、自分の陰謀が氏郷に知られたと知った政宗は、いろいろと氏郷のところへ弁解を申
し送ったが、氏郷は
「拙者への弁解はいらぬことだ。ただ殿下がおんためを専一におぼし召されよ」
と返答した。
宮沢城址

その後も政宗は宮沢城を攻落さないので、氏郷は使者を立て
「その城お手にあまれば、われらも一方受け持って踏み破り申そう」
といってやった。
政宗は
「やがて攻落し申す」
と答えながらも、一向にはかばかしい戦争もせず日数を費やし、ついに城をそのままにして、12月
2日、引き上げることにした。
氏郷は大変怒り
「おれを踏みつけにして退陣するのか。ここを通らば、いかで心やすく通そう。その用意せよ」
と、300騎の兵をすぐり出し、持槍1本ずつ抜身のまま持たせ、見送るていに見せかけて、討ち取
ることにしたところ、政宗もさるもの、わき道を通って引き上げてしまった。
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蒲生軍紀では、たいへんなことが書いてあります。
裏切り者が出て、自分の陰謀が氏郷に知られたと知った政宗は、いろいろと氏郷のところへ弁解を申
し送ったが、氏郷は
「拙者への弁解はいらぬことだ。ただ殿下がおんためを専一におぼし召されよ」
と返答した。
宮沢城址

その後も政宗は宮沢城を攻落さないので、氏郷は使者を立て
「その城お手にあまれば、われらも一方受け持って踏み破り申そう」
といってやった。
政宗は
「やがて攻落し申す」
と答えながらも、一向にはかばかしい戦争もせず日数を費やし、ついに城をそのままにして、12月
2日、引き上げることにした。
氏郷は大変怒り
「おれを踏みつけにして退陣するのか。ここを通らば、いかで心やすく通そう。その用意せよ」
と、300騎の兵をすぐり出し、持槍1本ずつ抜身のまま持たせ、見送るていに見せかけて、討ち取
ることにしたところ、政宗もさるもの、わき道を通って引き上げてしまった。
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蒲生氏郷 その94
『証拠の手紙』
証拠が欲しいと思っているところに、政宗が一揆どもに宛てた手紙まで持って山戸田らが来たのです
から、氏郷は喜んだ。
名生城址

氏郷は書類をとり治め、3人を保護し、名生城に兵糧を取り入れ、厳重に籠城の支度にかかった。
いつどう政宗と一揆どもが出て来るかわからないからです。
このことを、伊達家側では、須田家は政宗の父・輝宗の代に伯耆入道道空が仕えた新参者で、輝宗が
死んだ時、伯耆入道が殉死したが、政宗は殉死しなければならないほど特別な関係もないものを新参
者の似合わぬことをすると、大して優遇もしなかったのを常に恨んでいたのでこういう無根なことを
誣告したのであると言っています。
また、山戸田と手越には触れていません。
その代わり、曾根四郎助という右筆が罪あって伊達家を出奔、蒲生家に仕えた、氏郷が政宗に一揆の
者どもに与えた手紙と称して、重大な証拠品としているのは、政宗の書風をよく知っているこの曾根
が偽造したものであると言っています。
この問題が、後に問題となってゆきます。
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から、氏郷は喜んだ。
名生城址

氏郷は書類をとり治め、3人を保護し、名生城に兵糧を取り入れ、厳重に籠城の支度にかかった。
いつどう政宗と一揆どもが出て来るかわからないからです。
このことを、伊達家側では、須田家は政宗の父・輝宗の代に伯耆入道道空が仕えた新参者で、輝宗が
死んだ時、伯耆入道が殉死したが、政宗は殉死しなければならないほど特別な関係もないものを新参
者の似合わぬことをすると、大して優遇もしなかったのを常に恨んでいたのでこういう無根なことを
誣告したのであると言っています。
また、山戸田と手越には触れていません。
その代わり、曾根四郎助という右筆が罪あって伊達家を出奔、蒲生家に仕えた、氏郷が政宗に一揆の
者どもに与えた手紙と称して、重大な証拠品としているのは、政宗の書風をよく知っているこの曾根
が偽造したものであると言っています。
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蒲生氏郷 その93
『疑惑を抱く氏郷』
政宗は宮沢に向かったが、一揆方との内々の申し合わせがあるので、形ばかりすさまじく鉄砲を撃ち
かけ、一向に実のある攻め方はしなかったと、蒲生側の記録は言っています。
青葉城の政宗公

氏郷は近々に高清水城に押し寄せようと、重臣に相談をしていると、ある夜中、山戸田八兵衛・手越
宗兵衛という伊達家の侍が蒲生源左衛門のもとに来て、政宗の陰謀の証拠となるべき政宗の手紙を差
し出して
「拙者どもは政宗の近習の者でござるが、恨みをふくむべき子細があって注進申すのでございます」
という。
源左衛門はすぐ氏郷に告げた。
氏郷は大いに喜んだ。
実はこの直前、やはり、伊達家の家来である須田伯耆という者が、やはり源左衛門の陣所に来て
「こんどの一揆は政宗の煽動で起こったのでござる。去る17日、黒川でのご参会の節に木村様を討
奉るべき陰謀があり、こんどの名生城攻めもしかじかの陰謀があったのでござるが、木村様のお働き
があまりにも素早くござったので、諸方手違いになったのでござる。今、政宗は宮沢城を攻めていま
す。
大体この城は手強く攻めれば即時に落ちるべき城でござるを、なかなか落ちぬは、一揆と申し合わせ
がある故、形ばかりの攻め方して、実のある攻め方をせぬからでござる。やがてごらんあれ、一揆方
は少しずつ逃げ去り、城が空となってから、政宗は乗り込むに違いありません」
と告げた。
政宗に対しては十分の疑惑を抱いている氏郷です。信用する気になったのだが、はっきりとした証拠が
ないのです。
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政宗は宮沢に向かったが、一揆方との内々の申し合わせがあるので、形ばかりすさまじく鉄砲を撃ち
かけ、一向に実のある攻め方はしなかったと、蒲生側の記録は言っています。
青葉城の政宗公

氏郷は近々に高清水城に押し寄せようと、重臣に相談をしていると、ある夜中、山戸田八兵衛・手越
宗兵衛という伊達家の侍が蒲生源左衛門のもとに来て、政宗の陰謀の証拠となるべき政宗の手紙を差
し出して
「拙者どもは政宗の近習の者でござるが、恨みをふくむべき子細があって注進申すのでございます」
という。
源左衛門はすぐ氏郷に告げた。
氏郷は大いに喜んだ。
実はこの直前、やはり、伊達家の家来である須田伯耆という者が、やはり源左衛門の陣所に来て
「こんどの一揆は政宗の煽動で起こったのでござる。去る17日、黒川でのご参会の節に木村様を討
奉るべき陰謀があり、こんどの名生城攻めもしかじかの陰謀があったのでござるが、木村様のお働き
があまりにも素早くござったので、諸方手違いになったのでござる。今、政宗は宮沢城を攻めていま
す。
大体この城は手強く攻めれば即時に落ちるべき城でござるを、なかなか落ちぬは、一揆と申し合わせ
がある故、形ばかりの攻め方して、実のある攻め方をせぬからでござる。やがてごらんあれ、一揆方
は少しずつ逃げ去り、城が空となってから、政宗は乗り込むに違いありません」
と告げた。
政宗に対しては十分の疑惑を抱いている氏郷です。信用する気になったのだが、はっきりとした証拠が
ないのです。
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