楠木正儀 その11
『評判が悪かった正儀』
正儀の評判が悪いといっても、戦争はなかなか上手であった。
さすがに正成の子だけあって、巧妙な戦いぶりをしています。
楠木正儀

彼の評判の悪さは、父兄ほどその行動が明朗でないところにありますが、それは時代の条件を考えな
いで一概に論壇してはよくないのでしょう。
人間は曇りなく一直線に行動ができる場合もあれば、含みをもって屈折多く行動するよりほかない時
もあります。
自分ならその時どうしたのであろうかと、自分のこととして考えてみた上でなければ、めったなこと
を言えないのではと思います。
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<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
正儀の評判が悪いといっても、戦争はなかなか上手であった。
さすがに正成の子だけあって、巧妙な戦いぶりをしています。
楠木正儀

彼の評判の悪さは、父兄ほどその行動が明朗でないところにありますが、それは時代の条件を考えな
いで一概に論壇してはよくないのでしょう。
人間は曇りなく一直線に行動ができる場合もあれば、含みをもって屈折多く行動するよりほかない時
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自分ならその時どうしたのであろうかと、自分のこととして考えてみた上でなければ、めったなこと
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楠木正儀 その10
『楠木一族の評価は高低上下する』
その後、さらに学問がさかんになり、儒教、とりわけ朱子学が盛んになり、大義名分ということを
言い出すようになると、楠木公を国民道徳の上から再認識しようということになり、ここに楠木氏
一族の大ブームが来ます。
楠木正成(1294-1336年)

「日本歴史に比類なき神人的聖雄」、「古今を絶した大忠人」ということになって、ついに3百数
十年、こんどの敗戦まで続いたが、敗戦後は反動もあって、ドカンと下落し、楠木正成を誉めて書
くと
「あいつ右翼じゃなかろうか」
と言われたといいます。
このように時代の潮のさしひきによって高低上下する楠木氏一族の評価のなかにあって、楠木正儀
(まさのり)だけは始終一貫低いようです。
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その後、さらに学問がさかんになり、儒教、とりわけ朱子学が盛んになり、大義名分ということを
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一族の大ブームが来ます。
楠木正成(1294-1336年)

「日本歴史に比類なき神人的聖雄」、「古今を絶した大忠人」ということになって、ついに3百数
十年、こんどの敗戦まで続いたが、敗戦後は反動もあって、ドカンと下落し、楠木正成を誉めて書
くと
「あいつ右翼じゃなかろうか」
と言われたといいます。
このように時代の潮のさしひきによって高低上下する楠木氏一族の評価のなかにあって、楠木正儀
(まさのり)だけは始終一貫低いようです。
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楠木正儀 その9
楠木正儀 その8
『軍学者と講釈師』
甲州流の軍学の成り立ちを見てもわかるように、軍学の材料とするところは軍紀です。
甲州流は『甲陽軍鑑』をテキストにして、信玄の戦術なり、信玄の武将としての心掛けなりを抽出し
て、系統をつけているわけですが、各流それぞれに軍紀類をテキストにしています。
甲府駅前の信玄公

こういう組織能力があり、また風采もよく、先祖に立派な武将をもち、運もよい人々は、立派な軍学
者としてなり上がっていったが、弁口だけ達者で、他の資格を欠いたり、運が悪かった人々は、軍学
者になろうという意思はありながらも、単に軍記を読むだけの舌耕の徒になってしまったようです。
軍学者と講釈師は、ともに同根から出たものです。
だから、今日でも講釈師の偉そうな口のきき方。
あれは軍学者になりそこねた武家浪人の名残が残っているからといいます。
今日では落語家も講釈師も紋つきの着物にはかまをはいていますが、大正年代までは縞の着物の着
流しで、紋つきはかまは講釈師だけであったそうです。
今日でも、講釈師は先生、落語家は師匠と呼んでいます。
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甲州流は『甲陽軍鑑』をテキストにして、信玄の戦術なり、信玄の武将としての心掛けなりを抽出し
て、系統をつけているわけですが、各流それぞれに軍紀類をテキストにしています。
甲府駅前の信玄公

こういう組織能力があり、また風采もよく、先祖に立派な武将をもち、運もよい人々は、立派な軍学
者としてなり上がっていったが、弁口だけ達者で、他の資格を欠いたり、運が悪かった人々は、軍学
者になろうという意思はありながらも、単に軍記を読むだけの舌耕の徒になってしまったようです。
軍学者と講釈師は、ともに同根から出たものです。
だから、今日でも講釈師の偉そうな口のきき方。
あれは軍学者になりそこねた武家浪人の名残が残っているからといいます。
今日では落語家も講釈師も紋つきの着物にはかまをはいていますが、大正年代までは縞の着物の着
流しで、紋つきはかまは講釈師だけであったそうです。
今日でも、講釈師は先生、落語家は師匠と呼んでいます。
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楠木正儀 その7
『日本軍学が流行る』
小幡景憲の日本的軍学の創始は時代に大いに歓迎された。
武家というものはもともと軍団の組織になっていて、一旦緩急の場合は直ちに出動しなければならな
い建前になっているのに、太平の時代となっては、実戦の経験のある者は次第に死に絶えて行くので、
まさかの場合に困る。
北条氏長(1609ー1670年)

どうして隊を編成してよいか、陣をはってよいか、敵とはどう対戦するのか、まるでわからない。
軍学はそれを教えてくれる学問だというので、恐ろしく受けたといいます。
景憲さんの門下には、多数の軍学青少年が集まった。
その中で、小田原北条氏の一族・北条氏長がおり、なかなか俊才で、師伝に工夫を加えて北条流を始
めた。
景憲と氏長の弟子に山鹿素行がいて、これまた師伝に自らの工夫を加えて山鹿流をはじめた。
これは景憲さんの系統の軍学ですが、この系統に対抗して上杉謙信の戦術を整理したと称して越後流
がはじまり、その他、長沼流、楠木流など多数の流派が出て来ています。
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武家というものはもともと軍団の組織になっていて、一旦緩急の場合は直ちに出動しなければならな
い建前になっているのに、太平の時代となっては、実戦の経験のある者は次第に死に絶えて行くので、
まさかの場合に困る。
北条氏長(1609ー1670年)

どうして隊を編成してよいか、陣をはってよいか、敵とはどう対戦するのか、まるでわからない。
軍学はそれを教えてくれる学問だというので、恐ろしく受けたといいます。
景憲さんの門下には、多数の軍学青少年が集まった。
その中で、小田原北条氏の一族・北条氏長がおり、なかなか俊才で、師伝に工夫を加えて北条流を始
めた。
景憲と氏長の弟子に山鹿素行がいて、これまた師伝に自らの工夫を加えて山鹿流をはじめた。
これは景憲さんの系統の軍学ですが、この系統に対抗して上杉謙信の戦術を整理したと称して越後流
がはじまり、その他、長沼流、楠木流など多数の流派が出て来ています。
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楠木正儀 その6
『甲州流』
甲州流という名が出てきましたが、これが日本の軍学のハシリだといわれます。
それまでの日本の軍学はすべて中国の兵書に基づいたもので、いわば輸入軍学であったのです。
信長の野望の小幡景憲

この甲州軍学を創始したのが、武田の遺臣・小幡昌盛の遺子・小幡景憲です。
彼が甲陽軍鑑を基礎にして、戦術戦略を研究し、武田信玄の兵法を整理大成したと称して、甲州流と
名づけて門戸をはったといいます。
景憲さんとしては、新たに軍学の専門家としてスタートしたのですから、中国と同じく専門の軍師なる者
が日本にもいたことにした方が自分の技術の売れ口にも都合がよい。
山本勘助の軍師としての実在性と重要性を否定しなかったという訳です。
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甲州流という名が出てきましたが、これが日本の軍学のハシリだといわれます。
それまでの日本の軍学はすべて中国の兵書に基づいたもので、いわば輸入軍学であったのです。
信長の野望の小幡景憲

この甲州軍学を創始したのが、武田の遺臣・小幡昌盛の遺子・小幡景憲です。
彼が甲陽軍鑑を基礎にして、戦術戦略を研究し、武田信玄の兵法を整理大成したと称して、甲州流と
名づけて門戸をはったといいます。
景憲さんとしては、新たに軍学の専門家としてスタートしたのですから、中国と同じく専門の軍師なる者
が日本にもいたことにした方が自分の技術の売れ口にも都合がよい。
山本勘助の軍師としての実在性と重要性を否定しなかったという訳です。
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楠木正儀 その5
『山本勘助』
武田信玄の家来・山本勘助が軍師であったといわれ、江戸時代を通じて信じられてきましたが、今日
の学者は信用していないようです。
山本勘助(1493-1561年)

勘助は実在の人物であったようですが、信玄の家臣・山県昌景が召し使っていたごく身分の低い者で、
せいぜい足軽2、30人の長であったといいます。
その勘助がどうして、信玄の軍師といわれるようになったかというと、勘助の遺子で妙心寺派の禅僧
になった者がいた。
多少の文才があることにまかせて、信玄一代の軍紀を書いたが、その中で勘助をすごく大物にし、信
玄の軍師に仕立てたというのです。
その書かれた書物が「甲陽軍艦」の原本で、この書が甲州流軍学のテキストになったからであるとい
います。
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武田信玄の家来・山本勘助が軍師であったといわれ、江戸時代を通じて信じられてきましたが、今日
の学者は信用していないようです。
山本勘助(1493-1561年)

勘助は実在の人物であったようですが、信玄の家臣・山県昌景が召し使っていたごく身分の低い者で、
せいぜい足軽2、30人の長であったといいます。
その勘助がどうして、信玄の軍師といわれるようになったかというと、勘助の遺子で妙心寺派の禅僧
になった者がいた。
多少の文才があることにまかせて、信玄一代の軍紀を書いたが、その中で勘助をすごく大物にし、信
玄の軍師に仕立てたというのです。
その書かれた書物が「甲陽軍艦」の原本で、この書が甲州流軍学のテキストになったからであるとい
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