楠木正儀 その38
『兵が集まらなかった?』
一つは兵が集まらなかったのかも知れない。
形勢の変化によって、足利方に味方する兵が大幅に増減したことは、すでに述べましたが、この点
では南朝方の兵もそうであったのでしょう。
楠木正儀(1333-1388年)

この時代の武士の行動が倫理的判断だけでされたと考えるのは人間というものの見方が甘すぎる。
ごく稀にはそういう人もいる。
例えば正成であるとか、正行であるとかいう人々がそれで、稀であればこそ百世の末まで珍重賞賛
されるべき価値がありますが、たいていの人間は利害によって動かされたのです。
この点に至っては、足利の武士はいうまでもなく、南朝方の武士だって、その本質においては大して
変わりはないのです。
わずかな軍勢をもって男山に孤立し、厳重に包囲されている南朝軍を救出に行くことは、冒険この上
もないことです。
正儀が兵を募っても応ずるものが殆んどいなかったと可能性は大いにあります。
正儀としては焦虜しつつも、どうすることも出来なかったと解釈しても良いと思われます。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
一つは兵が集まらなかったのかも知れない。
形勢の変化によって、足利方に味方する兵が大幅に増減したことは、すでに述べましたが、この点
では南朝方の兵もそうであったのでしょう。
楠木正儀(1333-1388年)

この時代の武士の行動が倫理的判断だけでされたと考えるのは人間というものの見方が甘すぎる。
ごく稀にはそういう人もいる。
例えば正成であるとか、正行であるとかいう人々がそれで、稀であればこそ百世の末まで珍重賞賛
されるべき価値がありますが、たいていの人間は利害によって動かされたのです。
この点に至っては、足利の武士はいうまでもなく、南朝方の武士だって、その本質においては大して
変わりはないのです。
わずかな軍勢をもって男山に孤立し、厳重に包囲されている南朝軍を救出に行くことは、冒険この上
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正儀が兵を募っても応ずるものが殆んどいなかったと可能性は大いにあります。
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楠木正儀 その37
『正儀の父は正成』
正儀と和田正忠は夜に乗じて城を出て、河内に帰ったが、運の悪さ、正忠は急病で死んでしまった。
正儀は、また正儀で、ぐずぐずして出陣しようとしなかった。
皇居外苑の正成公

このことを、太平記には
「楠木(正儀)は父にも似ず、兄にも代わって、気性が少しのんびりし過ぎているので、今日出よう、
明日立とうと言うばかりで、主上が大敵に囲まれていらっしゃるご危難を救おうと努力しなかったの
は、誠になげかわしい。賢人の子必ずしも賢人でないというものの、正儀の父は正成であり、兄は
正行である。どうして父にも兄にもこうまで劣るのであろうかと、そしらぬ人はなかった」
と、記述している。
なぜ、正儀がこうであったか、今となってはわかりませんが状況をもって判断しれば、3通り考えら
れます。
次回以降、考察してみたいと思います。
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正儀と和田正忠は夜に乗じて城を出て、河内に帰ったが、運の悪さ、正忠は急病で死んでしまった。
正儀は、また正儀で、ぐずぐずして出陣しようとしなかった。
皇居外苑の正成公

このことを、太平記には
「楠木(正儀)は父にも似ず、兄にも代わって、気性が少しのんびりし過ぎているので、今日出よう、
明日立とうと言うばかりで、主上が大敵に囲まれていらっしゃるご危難を救おうと努力しなかったの
は、誠になげかわしい。賢人の子必ずしも賢人でないというものの、正儀の父は正成であり、兄は
正行である。どうして父にも兄にもこうまで劣るのであろうかと、そしらぬ人はなかった」
と、記述している。
なぜ、正儀がこうであったか、今となってはわかりませんが状況をもって判断しれば、3通り考えら
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楠木正儀 その36
『男山攻囲される』
足利方は日に日に軍勢が集まって来るのに、男山の南朝方には一兵も新しく参加するものはいない。
そのうち、足利方は総攻撃にかかった。
男山(京都府八幡市)

南朝方は麓の村に降りて奮戦したが、敵が村に火をかけて猛攻撃にかかると、防ぎきれず、山上に逃
げ籠った。
足利方は洞ヶ峠を占領したばかりか、男山をとりまいて陣を構え、鹿垣を結い、いともきびしい攻囲
の策に出た。
南朝方では夜討ちをかけたりしたが、包囲陣は少しも乱れない。
どうにも窮地の打開法がない。
軍議が開かれ、正儀と和田正忠とを召して
「汝ら2人、ひそかに囲みを脱して本国に帰り、新手の兵を募って後巻いたすよう」
と命じた。
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そのうち、足利方は総攻撃にかかった。
男山(京都府八幡市)

南朝方は麓の村に降りて奮戦したが、敵が村に火をかけて猛攻撃にかかると、防ぎきれず、山上に逃
げ籠った。
足利方は洞ヶ峠を占領したばかりか、男山をとりまいて陣を構え、鹿垣を結い、いともきびしい攻囲
の策に出た。
南朝方では夜討ちをかけたりしたが、包囲陣は少しも乱れない。
どうにも窮地の打開法がない。
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楠木正儀 その35
『正儀は賢すぎた?』
悪五郎はかえりみず、なお逃げ続けたが、夕立に掘り流されている深い溝になっているがあり、そこ
を飛び越えたところ、運の悪さ、足踏みかけた崖が崩れた。
悪五郎は関将監を抱いたまま落ちてしまった。
土岐悪五郎の墓(大垣市)

薬研(やけん)のように底が狭くなっているところに、大男の甲冑を着たのが落ちたのですから、2
人とも身動きができない。
もがいているところに、正忠が追いついて薙刀で2人ともしとめたという。
正忠は2人の首はとることはできなかったが、悪五郎が引切り捨てた脇立を討ち取った証拠として持
ち帰り、後村上天皇に委細を奏上したところ、天皇は
「前代未聞の高名なり」
誉め讃えたという。
この夜、正儀は所詮敵しがたしとして、兵を率いて男山に引き返した。
正儀の評判の悪さは、このように見切りの早すぎるところもあるのでしょう。
彼は賢過ぎるところがあったのでしょう。
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悪五郎は関将監を抱いたまま落ちてしまった。
土岐悪五郎の墓(大垣市)

薬研(やけん)のように底が狭くなっているところに、大男の甲冑を着たのが落ちたのですから、2
人とも身動きができない。
もがいているところに、正忠が追いついて薙刀で2人ともしとめたという。
正忠は2人の首はとることはできなかったが、悪五郎が引切り捨てた脇立を討ち取った証拠として持
ち帰り、後村上天皇に委細を奏上したところ、天皇は
「前代未聞の高名なり」
誉め讃えたという。
この夜、正儀は所詮敵しがたしとして、兵を率いて男山に引き返した。
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楠木正儀 その34
『悪五郎』
細川清氏の郎党で関左近将監という者が、悪五郎の脇をちょろりと走り抜けて、正忠の前に立ちふさ
がった。
悪五郎の久々利城模型

正忠はそれを相手に切り結んでいると、正忠の中間が弓に矢つがえして小松の陰から走り出て、近々
と関将監へ忍び寄って放った。
関は胴中を射通され、小膝をついて倒れた。
悪五郎はこれを見て、走り寄って関を引き起こそうとしたが、中間はもう2つの矢をつがえていて、
悪五郎に向けて放った。
矢はアタリはしたが、よろいの脇立を射抜いただけで、身には怪我はなかった。
悪五郎は矢の立った脇立てを引きちぎって投げ捨て、近づく敵を大太刀をふるって、5、6人斬り伏
せ、関将監を引き起こし、小脇にかかえ、迫って来る敵を斬り払い、3町ほどさがった。
正忠は
「いづこまで逃げるぞ。土岐の悪五郎とて天下の人に謡わる身の恥を知れ」
と、呼ばわり追いかけた。
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細川清氏の郎党で関左近将監という者が、悪五郎の脇をちょろりと走り抜けて、正忠の前に立ちふさ
がった。
悪五郎の久々利城模型

正忠はそれを相手に切り結んでいると、正忠の中間が弓に矢つがえして小松の陰から走り出て、近々
と関将監へ忍び寄って放った。
関は胴中を射通され、小膝をついて倒れた。
悪五郎はこれを見て、走り寄って関を引き起こそうとしたが、中間はもう2つの矢をつがえていて、
悪五郎に向けて放った。
矢はアタリはしたが、よろいの脇立を射抜いただけで、身には怪我はなかった。
悪五郎は矢の立った脇立てを引きちぎって投げ捨て、近づく敵を大太刀をふるって、5、6人斬り伏
せ、関将監を引き起こし、小脇にかかえ、迫って来る敵を斬り払い、3町ほどさがった。
正忠は
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と、呼ばわり追いかけた。
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楠木正儀 その33
『足利軍侵攻』
足利軍は押し寄せるや、山路の戦いであるから麓に馬を乗り捨て、掛け声をあげながら押し上って
来た。
ところが山上に待ち構えていた楠木と和田の兵は
「かかる戦には元来馴れたる大和、河内の者どもなれば」
と、太平記には説明しています。
土岐悪五郎の久々利城址(可児市)

正成以来、ゲリラ的戦闘法には訓練を経てきているという意味なのでしょう。
岩の陰、崖の上を走り渡って、散々に射たので、寄せ手は進むことはできない。
寄せ手の大将にひとり、土岐悪五郎(久々利 頼興)は大刀、早わざ、打物とっての達者と、天下に
名の知れた勇士であったが、大太刀を抜いて肩にかけ、射向の袖をかざしながら、はるかに遠い山
路を、猪のようにまっしぐらに駆け上がって来、上り着くや、にっこと笑った。
和田正忠は盾のかげから、これを見ていたが
「あっぱれ敵や!」
というと、わが前に突き立てていた盾を投げ捨て、3尺5寸の小薙刀を茎短かにとって踊りで、名の
りをかけて走り寄った。
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足利軍は押し寄せるや、山路の戦いであるから麓に馬を乗り捨て、掛け声をあげながら押し上って
来た。
ところが山上に待ち構えていた楠木と和田の兵は
「かかる戦には元来馴れたる大和、河内の者どもなれば」
と、太平記には説明しています。
土岐悪五郎の久々利城址(可児市)

正成以来、ゲリラ的戦闘法には訓練を経てきているという意味なのでしょう。
岩の陰、崖の上を走り渡って、散々に射たので、寄せ手は進むことはできない。
寄せ手の大将にひとり、土岐悪五郎(久々利 頼興)は大刀、早わざ、打物とっての達者と、天下に
名の知れた勇士であったが、大太刀を抜いて肩にかけ、射向の袖をかざしながら、はるかに遠い山
路を、猪のようにまっしぐらに駆け上がって来、上り着くや、にっこと笑った。
和田正忠は盾のかげから、これを見ていたが
「あっぱれ敵や!」
というと、わが前に突き立てていた盾を投げ捨て、3尺5寸の小薙刀を茎短かにとって踊りで、名の
りをかけて走り寄った。
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楠木正儀 その32
『義詮洞ヶ峠へ』
義詮は3万余の大軍を率い、宇治路に入り、木津川を渡り、男山と峰続きの洞ヶ峠に陣をとるべく向
かった。
足利義詮(1330-1367年)

男山では驚き恐れた。
「洞ヶ峠を取られては、味方は河内・大和との連絡が切れ、糧道絶え、餓死するより他はない。とり
切られてはかなうまじ」
とて、にわかに戦さ評定があって、和田正忠と楠木正儀をつかわして撃退させることになった。
命を受けた2人は3千余騎の兵を率いて、荒坂山へ向かった。
荒坂山は今日の地名にはありませんが、男山と洞ヶ峠との中間の山地をそう呼んでいたのでしょう。
荒坂に着いて陣を構えていると、足利勢が押し寄せて来た。
細川清氏・同顕氏・土岐大膳大夫・舎弟悪五郎らに率いられた6千余騎であった。
烈しい攻防戦が行われたが、この攻防戦において太平記では和田正忠の奮戦ぶりは特筆しています
が、正儀のことは全然書いてありません。
この正忠はわずかに16歳であったという。
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義詮は3万余の大軍を率い、宇治路に入り、木津川を渡り、男山と峰続きの洞ヶ峠に陣をとるべく向
かった。
足利義詮(1330-1367年)

男山では驚き恐れた。
「洞ヶ峠を取られては、味方は河内・大和との連絡が切れ、糧道絶え、餓死するより他はない。とり
切られてはかなうまじ」
とて、にわかに戦さ評定があって、和田正忠と楠木正儀をつかわして撃退させることになった。
命を受けた2人は3千余騎の兵を率いて、荒坂山へ向かった。
荒坂山は今日の地名にはありませんが、男山と洞ヶ峠との中間の山地をそう呼んでいたのでしょう。
荒坂に着いて陣を構えていると、足利勢が押し寄せて来た。
細川清氏・同顕氏・土岐大膳大夫・舎弟悪五郎らに率いられた6千余騎であった。
烈しい攻防戦が行われたが、この攻防戦において太平記では和田正忠の奮戦ぶりは特筆しています
が、正儀のことは全然書いてありません。
この正忠はわずかに16歳であったという。
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