楠木正成 その7
『正成の代に名を上げる』
正成自身が、元弘元年以前にあらわれているのは、正中事変の前々年元亨2年です。
楠木正成公(皇居外苑)

「近年摂津国の住人・渡辺右衛門尉が野心をさしはさんでいるので、執権高時は河内国住人の楠正成
に命じて撃って平げさせた。また紀伊国の安田ノ庄司が逆心を抱いているので、同じく正成をして撃
って殺させ、安田の旧領を正成にあたえた。さらにまた大和国・越智ノ四郎というものが幕命に抗し
たので六波羅から軍勢をつかわして攻めさせたが、強勢で下すことができない。正成に命じてこれを
討たせたところ、正成はこれを撃滅した」
とあります。
この記述は、太平記古伝や紀伊続風土記にのせられている高野山文書にもあって、信頼できます。
父の名さえはっきりしんかった楠木氏がかなり勢力となってきたことと、正成の武略が出色のもので
あったことを語るものです。
古(いにしえ)から「楠氏」、「楠木氏」両様の書き方が行われていて、太平記は「楠」としるし、
大日本史もこれを踏襲しているが、当時の古文書や記録には「楠木」と書いていますから、「楠木」
と書くのが正しいと近年の歴史家の通説になっています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
正成自身が、元弘元年以前にあらわれているのは、正中事変の前々年元亨2年です。
楠木正成公(皇居外苑)

「近年摂津国の住人・渡辺右衛門尉が野心をさしはさんでいるので、執権高時は河内国住人の楠正成
に命じて撃って平げさせた。また紀伊国の安田ノ庄司が逆心を抱いているので、同じく正成をして撃
って殺させ、安田の旧領を正成にあたえた。さらにまた大和国・越智ノ四郎というものが幕命に抗し
たので六波羅から軍勢をつかわして攻めさせたが、強勢で下すことができない。正成に命じてこれを
討たせたところ、正成はこれを撃滅した」
とあります。
この記述は、太平記古伝や紀伊続風土記にのせられている高野山文書にもあって、信頼できます。
父の名さえはっきりしんかった楠木氏がかなり勢力となってきたことと、正成の武略が出色のもので
あったことを語るものです。
古(いにしえ)から「楠氏」、「楠木氏」両様の書き方が行われていて、太平記は「楠」としるし、
大日本史もこれを踏襲しているが、当時の古文書や記録には「楠木」と書いていますから、「楠木」
と書くのが正しいと近年の歴史家の通説になっています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
スポンサーサイト
楠木正成 その6
楠木正成 その5
『楠多聞兵衛正成』
寺僧・成就房律師を召して
「この地方に楠と申す武士はないか」
とお尋ねになると
楠木正成(1294-1336年)

「この辺ではさような名字の者は聞きませぬが、河内国金剛山の西に楠多聞兵衛正成とて、武勇
の名ある者がいます、敏達天皇4代の皇胤諸兄公の後胤ではございますが、民間に下って年久しく、
名家とはいえません。当主の正成はその母が大和の志貴山の毘沙門天に百日詣でて夢知らせを受
けて生んだ子であるとて、幼名を多聞丸と申しました」
と答える。
天皇は、さては夢の知らせはこの者のことであったと思われ
「それを召せ」
とて、藤原藤房を勅使にして召されたというのが、太平記の記述です。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
寺僧・成就房律師を召して
「この地方に楠と申す武士はないか」
とお尋ねになると
楠木正成(1294-1336年)

「この辺ではさような名字の者は聞きませぬが、河内国金剛山の西に楠多聞兵衛正成とて、武勇
の名ある者がいます、敏達天皇4代の皇胤諸兄公の後胤ではございますが、民間に下って年久しく、
名家とはいえません。当主の正成はその母が大和の志貴山の毘沙門天に百日詣でて夢知らせを受
けて生んだ子であるとて、幼名を多聞丸と申しました」
と答える。
天皇は、さては夢の知らせはこの者のことであったと思われ
「それを召せ」
とて、藤原藤房を勅使にして召されたというのが、太平記の記述です。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
楠木正成 その4
『楠という者』
大樹のその枝の陰に三公百位次を正して列座しているが、高くしつらえた南面の上席は空席になって
いる。
後醍醐天皇(1288-1339年)

「はて誰のために設けられた席であろう」
と思っておられると、髪をみずらに結った二童子が忽然として現れ、天皇の前にひざまずき、涙をこ
ぼしながら
「一天下のうちに陛下のおん身をいれさせ給うところがございませんが、唯あの席は陛下のために設
けたものでございます。しばらくあれへあわし候え」
と奏して、天に昇り去った。
夢さめて天皇は
「これは天のまろに告げてくれた夢であろう。木ヘンに南とつければ『楠』という文字になる。
必ずや楠という者がいて、まろを再び南面して天下を治めさせてくれるであろう」
と自ら夢判断されたという。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
大樹のその枝の陰に三公百位次を正して列座しているが、高くしつらえた南面の上席は空席になって
いる。
後醍醐天皇(1288-1339年)

「はて誰のために設けられた席であろう」
と思っておられると、髪をみずらに結った二童子が忽然として現れ、天皇の前にひざまずき、涙をこ
ぼしながら
「一天下のうちに陛下のおん身をいれさせ給うところがございませんが、唯あの席は陛下のために設
けたものでございます。しばらくあれへあわし候え」
と奏して、天に昇り去った。
夢さめて天皇は
「これは天のまろに告げてくれた夢であろう。木ヘンに南とつければ『楠』という文字になる。
必ずや楠という者がいて、まろを再び南面して天下を治めさせてくれるであろう」
と自ら夢判断されたという。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
楠木正成 その3
『皇居の警護もままならず』
笠置山の笠置寺は山伏の修行道場として、当時有名であったから、その山伏らを頼りにされたのでし
ょう。
笠置寺(京都府笠置町)

天皇はここに居て四方に勤王の士を募られたが、応ずる者が少ない。
「名ある武士、手勢100騎とも200騎とも、打たせる大名は一人も参らず」
と太平記にあります。
「これでは皇居の警護さえ不十分である」
と、天皇は憂慮しておられると、ある時とろとろとまどろまれての夢に、紫宸殿(ししんでん)の南
庭とおぼしいところに、一本のうっそうたる常緑樹の大樹があり、南へ差し伸べた枝がとりわけ大き
く繁って、涼しげな陰をつくっている。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
笠置山の笠置寺は山伏の修行道場として、当時有名であったから、その山伏らを頼りにされたのでし
ょう。
笠置寺(京都府笠置町)

天皇はここに居て四方に勤王の士を募られたが、応ずる者が少ない。
「名ある武士、手勢100騎とも200騎とも、打たせる大名は一人も参らず」
と太平記にあります。
「これでは皇居の警護さえ不十分である」
と、天皇は憂慮しておられると、ある時とろとろとまどろまれての夢に、紫宸殿(ししんでん)の南
庭とおぼしいところに、一本のうっそうたる常緑樹の大樹があり、南へ差し伸べた枝がとりわけ大き
く繁って、涼しげな陰をつくっている。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
楠木正成 その2
『御密謀がまた露見』
元弘元年(1331年)、正中の変から8年目。
御密謀がまた露見して、天皇の密命を受けて北条氏を呪詛(じゅそ)調伏する修法を行っていた僧・
円観、文観、中円らが捕らえられて流され、天皇側近の公卿・日野俊基は鎌倉に拘置された。
奈良東大寺

俊基は正中の変の時も日野資朝とともに鎌倉に拘置されたが、彼だけは言い訳が通り訪還されていた
のです。
2度もこういうことがあっては、天皇のお言訳も立つ筈はありません。
天皇はかねて工作しておかれた比叡山に花山師賢を天皇ということにして登らせ、自らは奈良の東大
寺を頼って落ちられたが、東大寺内に反対党があって安全でなかったため、去って笠置山に入られた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
元弘元年(1331年)、正中の変から8年目。
御密謀がまた露見して、天皇の密命を受けて北条氏を呪詛(じゅそ)調伏する修法を行っていた僧・
円観、文観、中円らが捕らえられて流され、天皇側近の公卿・日野俊基は鎌倉に拘置された。
奈良東大寺

俊基は正中の変の時も日野資朝とともに鎌倉に拘置されたが、彼だけは言い訳が通り訪還されていた
のです。
2度もこういうことがあっては、天皇のお言訳も立つ筈はありません。
天皇はかねて工作しておかれた比叡山に花山師賢を天皇ということにして登らせ、自らは奈良の東大
寺を頼って落ちられたが、東大寺内に反対党があって安全でなかったため、去って笠置山に入られた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>