楠木正成 その39
『足利尊氏の反逆』
正成は自分の行賞に対しては、一言も不平や不満の態度を見せなかったという。
後で説明しますが、彼は最も高潔な心事の人だったのです。
足利尊氏(1305-1358年)

足利尊氏の反逆が起こったのは、王政復古になってわずか2年3ヵ月であった。
北条高時の遺児・時行が信濃におこり、新政に不満の徒を糾合して鎌倉を目指して進発し、尊氏の
弟・直義を追って鎌倉に入り、幕府を再興したのが建武2年の7月末です。
尊氏はこれを討つを名義として、無断で京を離れて東し、これを破って鎌倉を回復した。
朝廷では召還の勅使を出したが、尊氏は命を奉ぜず、鎌倉に留まったばかりか、事実上の幕府を開
いた。
親政のでたらめに愛想をつかし、幕府政治に郷愁を感じていた武士たちは、風がなびくように尊氏
に帰服を申し出た。
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<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
正成は自分の行賞に対しては、一言も不平や不満の態度を見せなかったという。
後で説明しますが、彼は最も高潔な心事の人だったのです。
足利尊氏(1305-1358年)

足利尊氏の反逆が起こったのは、王政復古になってわずか2年3ヵ月であった。
北条高時の遺児・時行が信濃におこり、新政に不満の徒を糾合して鎌倉を目指して進発し、尊氏の
弟・直義を追って鎌倉に入り、幕府を再興したのが建武2年の7月末です。
尊氏はこれを討つを名義として、無断で京を離れて東し、これを破って鎌倉を回復した。
朝廷では召還の勅使を出したが、尊氏は命を奉ぜず、鎌倉に留まったばかりか、事実上の幕府を開
いた。
親政のでたらめに愛想をつかし、幕府政治に郷愁を感じていた武士たちは、風がなびくように尊氏
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楠木正成 その38
『公家社会の自尊意識』
王政復古がなったので行賞が行われたが、正成は検非違使(けびいし)、左衛門少尉兼河内・摂津守
に任じられ、翌年2月従五位下に叙せられた。
楠木正成(1294-1336年)

元来、楠木氏は名家ではないのだから、後醍醐としてはこれでも相当にはずんだつもりであったので
しょう。
しかし、正成の功績から考えると、これは軽少過ぎます。
河内守・摂津守はつまり河内知事・摂津知事ですが、今日の知事ほど重要な役目ではありません。
国内に荘園と称する私有地がたくさんあって、公地は1/100しかなかったと神皇正統記にあるく
らいですが、その国の知事で、たいしたことはありません。
また、左衛門少尉は警察署長程度の官で、これもまた卑官といってよいでしょう。
こんな除目をするなど、つまりは後醍醐を中心とする公家社会の自尊意識によるとしか思われます。
当時の公家さんらは、公家以外のものは自分たちに奉仕だけしていればいいというような観念を持っ
ていたのでしょう。
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王政復古がなったので行賞が行われたが、正成は検非違使(けびいし)、左衛門少尉兼河内・摂津守
に任じられ、翌年2月従五位下に叙せられた。
楠木正成(1294-1336年)

元来、楠木氏は名家ではないのだから、後醍醐としてはこれでも相当にはずんだつもりであったので
しょう。
しかし、正成の功績から考えると、これは軽少過ぎます。
河内守・摂津守はつまり河内知事・摂津知事ですが、今日の知事ほど重要な役目ではありません。
国内に荘園と称する私有地がたくさんあって、公地は1/100しかなかったと神皇正統記にあるく
らいですが、その国の知事で、たいしたことはありません。
また、左衛門少尉は警察署長程度の官で、これもまた卑官といってよいでしょう。
こんな除目をするなど、つまりは後醍醐を中心とする公家社会の自尊意識によるとしか思われます。
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楠木正成 その37
『鎌倉幕府滅亡』
5月22日には新田義貞に攻められて鎌倉も陥り、北条高塒以下自殺し、幕府はついに滅んだ。
この数日前、後醍醐は伯耆を出発して還幸の途につき、5月30日には兵庫に到着された。
正成は兵7千余騎を率いて、お迎えに参じた。
皇居外苑の正成公

天皇は正成を近く召し、御簾を高く巻いて
「合戦に勝利に帰し、かくもすみやかにまろの望みが遂げられたのは、ひとえにそちの忠戦の功であ
る」
と仰せ出されたところ、正成は
「陛下に文武のおん徳おわしましたればのこそでございます。でなくして、てまえごとき微臣に何の
功がございましょう」
といともへりくだって奉答したと、太平記にあります。
後醍醐の兵庫出発の時、正成は先陣を承り、7千余騎を従えて先駆した。
今、皇居外苑に建つ彼の銅像は、この時の姿を映したものだといいます。
この時が正成が最も嬉しかった時であり、得意であった時期なのでしょう。
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5月22日には新田義貞に攻められて鎌倉も陥り、北条高塒以下自殺し、幕府はついに滅んだ。
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正成は兵7千余騎を率いて、お迎えに参じた。
皇居外苑の正成公

天皇は正成を近く召し、御簾を高く巻いて
「合戦に勝利に帰し、かくもすみやかにまろの望みが遂げられたのは、ひとえにそちの忠戦の功であ
る」
と仰せ出されたところ、正成は
「陛下に文武のおん徳おわしましたればのこそでございます。でなくして、てまえごとき微臣に何の
功がございましょう」
といともへりくだって奉答したと、太平記にあります。
後醍醐の兵庫出発の時、正成は先陣を承り、7千余騎を従えて先駆した。
今、皇居外苑に建つ彼の銅像は、この時の姿を映したものだといいます。
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楠木正成 その36
『千早城の攻囲を解く』
足利尊氏が幕府軍中で最も頼もしき者と思われて関東から京へ入って来たのは、この頃のことです。
その尊氏はすでに幕府に愛想をつかし、伯耆の後醍醐の綸旨を受けています。
足利尊氏(1305-1358年)

京に入って暫くすると矛をさかさまにして六波羅を攻撃した。
六波羅はついに支えず、両探題は光巌天皇を奉じて東に向かったが途中近江で自殺した。
六波羅探題らが京都を追い落とされたのは5月7日のことであったが、この知らせは8日か、遅くと
も9日の朝までには千早城の攻囲軍に到着したでしょう。
彼らは囲みを解き、落人として逃げ出した。
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足利尊氏が幕府軍中で最も頼もしき者と思われて関東から京へ入って来たのは、この頃のことです。
その尊氏はすでに幕府に愛想をつかし、伯耆の後醍醐の綸旨を受けています。
足利尊氏(1305-1358年)

京に入って暫くすると矛をさかさまにして六波羅を攻撃した。
六波羅はついに支えず、両探題は光巌天皇を奉じて東に向かったが途中近江で自殺した。
六波羅探題らが京都を追い落とされたのは5月7日のことであったが、この知らせは8日か、遅くと
も9日の朝までには千早城の攻囲軍に到着したでしょう。
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楠木正成 その35
『後醍醐隠岐を脱出』
正成が健闘している間に、閏2月24日に後醍醐は隠岐を脱出して出雲に渡り、伯耆に行き、名和長
年の迎えを受けて船上山に行在所を定め、天下の武士に綸旨をばらまがせた。
後醍醐天皇(1288-1339年)

播磨の赤松円心は、その息子・則祐が護良親王の令旨を奉じて来たので、正成の再挙頃に本国で挙兵
したが、3月中旬には早くも京都近くに迫り六波羅勢と、日々に交戦をはじめた。
この頃には、また九州で菊池武時が挙兵して九州探題・北条英時を博多に攻めて討死している。
同時に、伯耆の方からは天皇の命を受けて、千種忠顕が山陰の兵を率いて京都に向かうという有様で
あった。
天下は騒然として、至る所にアンチ幕府軍が勤王軍という名で起こりはじめた。
4月のなると、京都の咽喉である男山に陣取っていた赤松則村の軍以外に、千種忠顕に率いられた山
陰勢が丹波に迫った。
六波羅勢はこれを撃破したが、忠顕軍は男山に行って赤松軍に合流してしまった。
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年の迎えを受けて船上山に行在所を定め、天下の武士に綸旨をばらまがせた。
後醍醐天皇(1288-1339年)

播磨の赤松円心は、その息子・則祐が護良親王の令旨を奉じて来たので、正成の再挙頃に本国で挙兵
したが、3月中旬には早くも京都近くに迫り六波羅勢と、日々に交戦をはじめた。
この頃には、また九州で菊池武時が挙兵して九州探題・北条英時を博多に攻めて討死している。
同時に、伯耆の方からは天皇の命を受けて、千種忠顕が山陰の兵を率いて京都に向かうという有様で
あった。
天下は騒然として、至る所にアンチ幕府軍が勤王軍という名で起こりはじめた。
4月のなると、京都の咽喉である男山に陣取っていた赤松則村の軍以外に、千種忠顕に率いられた山
陰勢が丹波に迫った。
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楠木正成 その34
『千早城の戦い』
千早城に最初に幕府軍が攻めかけたのは2月27日であったが、これは主力部隊ではなく先鋒部隊と
もいうべきものであった。
城方は山上から石つぶてをもって撃退したという。
千早城の戦い

城が本格的に攻撃されたのは、閏2月初旬から5月8、9日までの90日にわたって、正成は天下の
兵をこの孤城に引き受けて屈しなかったのです。
今度は前と違い十分な準備を行っていたのです。
食糧も十分、飲料水の支度も完全、奇手を連発し寄せ手の裏をかいて苦しめたことが、太平記に出て
います。
太平記をそのままには信じられませんが、梅竹論にも
「去春より楠兵衛正成が金剛山の城を囲みし関東の大勢、一戦も功をなさず利を失ふ」
とありますから、随分巧妙な戦いをしたに違いないのでしょう。
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城方は山上から石つぶてをもって撃退したという。
千早城の戦い

城が本格的に攻撃されたのは、閏2月初旬から5月8、9日までの90日にわたって、正成は天下の
兵をこの孤城に引き受けて屈しなかったのです。
今度は前と違い十分な準備を行っていたのです。
食糧も十分、飲料水の支度も完全、奇手を連発し寄せ手の裏をかいて苦しめたことが、太平記に出て
います。
太平記をそのままには信じられませんが、梅竹論にも
「去春より楠兵衛正成が金剛山の城を囲みし関東の大勢、一戦も功をなさず利を失ふ」
とありますから、随分巧妙な戦いをしたに違いないのでしょう。
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楠木正成 その33
『千早城』
2月1日には吉野が陥落し、護良親王は高野山に逃れています。
各地の勤王軍がみな潰えたので、幕府軍は一挙に千早城に押し寄せた。
千早城は南河内郡千早村の山奥、金剛山腹にそばだつ孤峰上にある。
千早城模型

太平記に
「この城、東西は谷深く切れて人の上るべきやうもなし。南北は金剛山につづきて、しかも峯そばだ
ちたり。されども高さ二町ばかりて、まはり一里に足りぬ小城」
とあるが、太平記の記述ににず誇張が少ない。
高さは麓から100mないし200m、周囲は断崖や谷で、谷の深さは10mから100mくらいだ
といいます。
山は四段の平地をもって構成され、四ノ丸・三ノ丸・二ノ丸・本丸となっています。
さらに30mから50mくらいで次ノ丸に続いています。
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2月1日には吉野が陥落し、護良親王は高野山に逃れています。
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千早城は南河内郡千早村の山奥、金剛山腹にそばだつ孤峰上にある。
千早城模型

太平記に
「この城、東西は谷深く切れて人の上るべきやうもなし。南北は金剛山につづきて、しかも峯そばだ
ちたり。されども高さ二町ばかりて、まはり一里に足りぬ小城」
とあるが、太平記の記述ににず誇張が少ない。
高さは麓から100mないし200m、周囲は断崖や谷で、谷の深さは10mから100mくらいだ
といいます。
山は四段の平地をもって構成され、四ノ丸・三ノ丸・二ノ丸・本丸となっています。
さらに30mから50mくらいで次ノ丸に続いています。
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